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ともしび                  

第八十一号 

儲けとツキを呼ぶ「ゴミゼロ化」の秘密4

 大阪の社員たった12名の町工場が、こつこつ清掃活動をすることでよみがえった実話の続きです。不要なものを捨てる「整理」、きちんと並べてすぐ使えるようにする「整頓」をやって、最後にやっと「清掃」です。このコツは、必ず毎日続けることです。この会社では、朝礼のあと10分間、全社員で掃除をすることにしています。掃除については、

「どうせすぐに汚くなるのだから、掃除なんかしても無駄だ」

という文句が必ず出ます。先輩教師で非常に頭のいい人がいて、生徒がこう言ったら、

「じゃあ、飯を食ってもどうせすぐに腹が減るんだから、お前は飯を食うな」

と返していました。名回答です。1969年にスタンフォード大学のフィリップ・ジンバルド教授が行った非常に有名な実験があります。比較的治安のいい場所に、ボンネットをあけた自動車を一台置いておきます。1週間たっても何も起こりません。ところが、自動車の窓を割っておくと、10分後にバッテリーが盗まれ、タイヤが盗まれ、つにはスクラップ状態になってしまいます。たった一枚の割れた窓が、善良な市民の公徳心を低下させた結果です。これは「割れ窓理論」として有名なもので、割れたまどは即座に修理し、一枚たりとも放置しないことが犯罪防止につながります。公園で誰かがごみを捨てたとします。すると次に来た人もゴミを捨てるようになり、たちまちごみの山が出来上がります。そこにごみがあることで、ごみを捨てることに対する心理的抵抗感がなくなります。このようにごみには、人の倫理観を低下させるマイナスの力があります。

 清掃活動にいそしむと、二つのプラス面があります。一つは外見上の変化で、工場がピカピカですから、これは誰が見ても違いが分かります。新しい取引先ができたとき、社長は工場に向こうの企業の担当者を案内するのですが、あまりにきれいな工場を見て担当はびっくり仰天、これだけきれいな環境で作られる製品だから、品質もいいに違いないと思って、即座に取り引きを開始してくれるそうです。実際に、清掃が行き届いた環境で生み出された製品は、以前のものより不良率が半減したそうです。これだけで莫大なコストカットになります。さらに、チリ一つ落ちていない環境が評判を呼び、あの松下電器(現・パナソニック)が工場見学に来てくれるということになりました。天下の松下が下町の町工場に見学にきたということで、見学希望の企業が殺到し、テレビにも紹介され、とうとう高校生が新規社員として入社してくれるようになりました。それまではこの会社、下町の町工場でしたから、社員は中途採用者しかいなかったのです。

 もう一つは、社員の心の変化です。すみずみまできれいにするという習慣を続けていくと、細かな変化に気が付くようになり、感性が研ぎ澄まされます。機械の調子の悪さが微妙な音の変化で分かるようになり、故障する前に不具合に気が付くようになるので、機械が長持ちします。普通なら10年の寿命の機械が、この会社では40年を過ぎても現役です。さらに、いつもピカピカに磨いて手入れしているため、社員が機械に愛着を持つようになり、自分の子供を扱うように大事に使って作業した結果、製品の品質が飛躍的に向上したそうです。一番すごいのが通常ですと10万回の使用でだめになる金型が、250万回の使用に耐えるようになったというケースが実際にあったそうです。物にも魂が宿るのは事実だと社長は言っています。

 大成功と言ってよい実践ですが、最初からこんなに全部うまくいったわけではなく、古株の社員には強く反発する者もおりました。

「ワシは掃除をするために牧岡に勤めているのではない!」

と言い、猛反発した社員も当然いました。これも当然、どの企業でも学校でも、どの集団でも起こることです。これは「262の法則」と呼ばれるものです。

 抵抗する人の出現についての研究が、「262の法則」と言われるもので、リーダーが何かをやろうと提案したとき、人員の2割は賛成派となり、6割はどちらにも流れる中間派となり、残り2割が反対派となるというものです。もともとはイタリアの経済学者、ヴィルフレド・パレートが提唱した「パレートの法則」というものがもとになっています。パレートの法則とは、

「社会全体の8割の富は、2割の高額所得者層に集中する。残りの2割の富を、8割の低所得者層が分け合う」

というものです。実際に社会全体の富の配分も、この比率通りになっています。「それはおかしい、富は労働者層で均等に配分されるべきだ」という理想の下でできたのが共産主義国家ですが、国ができてみると、さらに強大で冷酷な独裁者が出現し、富の配分は一段といびつになりました。続きは次号にて。

        合掌

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電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院

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第八十二号 

儲けとツキを呼ぶ「ゴミゼロ化」の秘密5

 「262の法則」の法則について前号から説明をしております。リーダーが何かをやろうと提案したとき、人員の2割は賛成派となり、6割はどちらにも流れる中間派となり、残り2割が反対派となる、これが262の法則です。社長はこう書いています。

 多くの経営者は、反対派の2割にエネルギーを注いでしまいます。そうなると、ついてきてくれた中間派への影響力が弱まり、力が拮抗して引き合いになってしまいます。しかし、反対派を気にせず、推進派と中間派の8割に力を注ぐと、全体がそちらに引っ張られていきます。経営者としては、一人でも多くの味方を作ることに力を注ぐべきなのです。そうすることで、反対派をも巻き込んでいくことができます。たとえば、研修会場でみんながイスを並べて準備をしていると、一人で座っていづらい雰囲気になります。しかたなく自分も、イスを押したり引いたりしながら体裁だけやったりすることがあります。それでいいのです。私はそんな風に体裁だけでも、「ゴミゼロ化」をやっているようにしてもらえば、よしとすることにしたのです。

 この発想は素晴らしいです。さすがに業績をV字回復させただけのことはあります。私は長年教員をやっておりますが、学校現場でもこの262の法則はそのまま当てはまります。まじめな教員ほど、2割の反対派、ほとんどの場合生活習慣と学業に課題を抱えた、俗にいう「問題児層」ですが、彼らの現状を何とかしたいと必死になり、ある教師は絶望し、ある者はうつになり、ある者はふてくされ、ある者は時代や保護者や文部科学省のせいにします。実際に辞めてしまった者も少なからずいます。これらはみな、心得違いをしています。反対派の2割を根絶することは、未来永劫できないからです。別に2割の者を無視しろと言っているわけではなく、力を注ぐべきなのは2割の賛成派と、6割の中間層なのです。全体がよくなると、2割の反対派は仕方なくついてきます。それでいいのです。皆さんの職場でも、この262の法則はたぶん当てはまると思います。職場の人数を262で割ってみましょう、2割はあなたによくしてくれる人たちであり、残りの6割は普通の人、そして最後の2割が、気の合わない、あなたにとって嫌な人のはずです。この2割にばかり注目する人が、いわゆる「仕事が続かない人」です。こういう人は

「前の職場で人間関係が悪く、仕事をやめました。次の職場でもまた変な人ばかりで、辞めました。私に向いている職場はあるんでしょうか。」

という相談をされますが、考え方を改めていただかない限り、残念ですがありません。もっと突っ込んで言いますと、そういう悩みを持つ人はほとんどの場合、ご自身自身が上司から見ますと、職場における2割の反対派のほうに属しています。だから仕事を辞める際に、強い引き留めがないのです。というのも、職場で必要とされる人間が辞める場合は大変なことになるからです。本人は「辞める」と言い、上司は「辞めさせない」と言い、しまいに大喧嘩でもしないと辞めさせてもらえないとか、それくらい大ごとになるのです。この点を自覚しないと、いつまでも社会的不適合のループに陥ってしまうので注意が必要です。社長のえらいところは、この反対派の人たちへの態度です。社長の言葉を引用します。

 組織には必ず反対する人がいる。私は、それはもう仕方がないことと受け入れることにしました。怒ったり、落胆しても始まりません。そう思ってみると、肩の力が抜けました。受け入れてみると、相手に対する表情も変わります。すると、相手の表情も変わりました。人間とは、鏡のような存在です。こちらが敵意を持って接すれば、敵意を持たれます。逆に好意を持って接すれば、好意を返してくれるのです。「ゴミゼロ化」の取り組みに反対している彼らだって、牧岡合金工具の将来を心配する思いに変わりはないのです。単に方法論が異なっているだけでした。ならば、彼らのそういう思いに感謝をしていればいいのではないかと思い直しました。反対されているということだけに目を向けても意味がありません。いい面だけを見ていると、いい面が引き出されます。なぜなら、「262の法則」は、組織だけでなく個人の心にも通じるものだからです。皆さんは、朝起きるとき布団の中で葛藤しませんか。「さあ、起きよう。今日も一日がんばるぞ」と思う自分。「もう時間だから、起きるしかない」と思う自分。「もう少し寝ていたい」と思う自分。いろんな自分がいて、心の中で戦っています。その時々に、どの自分の声に従うか。それによって人生が変わってきます。他人に接する時も同様です。他人の心の中にも262の法則があって、常に葛藤しているのです。経営者としては、いい部分だけを引き出していくように接することが大切です。

 私が一番感心したのが、社長のこの言葉です。そうなのです、残りの2割、あなたにとっての反対派を敵とみなしてはいけないのです。心に染み入る言葉です。

        合掌

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第八十三号

人間世界に絶対はない

 人間世界に絶対はありません。我々が常識と思っていることでも、一歩国を出たら通用しないなどという例はいくらでもあります。そのひとつを紹介しましょう。

 日本人は自分や、自分の家族をまずほめません。自分のことはあえて悪く言うのが、日本人にとって一番の美徳なのです。銀行や郵便局からよく「粗品(そしな)」がきます。これは言葉通りにとれば「粗末な品物」という意味です。粗末な品物なら人に贈るなと言いたいところですが、日本人同士はこれで通じるのです。 

「自分のところのものはつまらないものですが、どうぞ」

と一方が贈れば、

「いやいや、とんでもない」

と贈られた側でもその辺の状況は察して、「ああ立派な物をくれたのに、謙虚な人だな」などと思ったりするわけです。こういう言葉は日本語にかなりあり、日本的なつつましやかな発想の産物と言えましょう。例えば、

 愚息(ぐそく)ーつまらない息子

 愚妻(ぐそく)ーいたらない妻

 拙宅(せったく)ーそまつなわが家

 拙者(せっしゃ)、小生(しょうせい)ーつまらない存在である自分

などと、あげればきりがないほどです。日本人はこのような、日本人同士でないと容易に通じない、微妙な感覚の上に人間関係を築いています。伝統芸能である茶道の作法などを見ると、そういう面が非常によく出ています。一杯のお茶を差し出されたお客の言うセリフはひとつしかなくて、

「結構でございます」

だけです。お湯が熱かろうが苦かろうが、必ずこう答えなければならないというルールになっています。ところが外国人は基本的にイエス、ノーがはっきりしていますから、少々勝手が違います。

「お服かげんはいかがですか」とたずねると、

「すごくまずいです」と、実にはっきり言ってしまいます。

 大体、外国では一つの国家の中にいくつかの民族が住んでいるのが普通ですから、我々のような悠長な会話は成立しません。ユダヤ教徒は血の出る肉を食べてはいけないことになっています。旧約聖書で神様と約束がされているわけで、ユダヤ教徒と食事をするときは必ず、

「自分はユダヤ教徒ではないから、肉はそのまま焼いてほしい」

と言う必要があります。そうしないと、こっちもしっかり水洗いしてから焼いた肉を食べなければいけないことになります。インドにはイスラム教徒とヒンズー教徒の両方が住んでいますが、イスラムの教えでは、人間が死んだら必ず土葬をすることになっています。遺体を火で焼いてしまうと、その人間の魂は地獄に落ちることになっているからです。ヒンズー教では逆に、火葬にしないと天国に行けないことになっています。ですから人間が死んだ場合、土に埋めるのか火で焼くのかはっきり決めないと、大変なトラブルに発展します。

 食事をしていってほしいときによく日本人はお客に、

「なにもありませんが、どうぞ」と言います。しかしこれは実にあいまいな言い方でして、外人には通用しません。アメリカ人に、

「There is nothing to eat. Please take help yourself a dinner!」

などとやってしまったら、相手は腰を抜かします。皿でも食えと言われるのかと思ってしまうそうです。

 我々の常識の範囲というのは、せいぜいこんなものです。あえて全世界、全民族で共通する法則をあげるなら、人間としての基本的な生き方でしょうか。世界中のどの民族、どの国家でも、人間として最低限守らなければならない事項は、大体共通しています。

  悪いことをするな     他人に思いやりをもて

  浮気や不倫をするな    必要以上に欲を出すな

言ってみれば単純で当たり前なことばかりです。しかし、この単純なことが守れずに、自分自身を苦しめてしまうのが人間というものなのかもしれません。宗教や道徳の本質は実は単純なものであり、だからこそ世界共通のもの、いつの時代にもどこの国にもあてはまる「ものさし」なのかもしれません。人間世界に絶対はなく、信仰者としての生き方こそ普遍的なものなのでありましょう。

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第八十四号

食事をしながら考えること

 当寺院では、三月二八日の大祭法要の日には、お参りの方に対して昔からおにぎりやおかずをふるまう習慣となっております。皆さんがお召し上がりの食事について少し考えてみますと、ほとんどは外国からの輸入作物で作ったものであり、日本でとれたのはほとんどコメだけ、それも今後どんどん輸入品が増えてくると予想されるといったありさまなのです。

 なぜこんなに身の回りに外国で栽培された農産物があふれてしまっているかというと、要するに安いからです。日本の食品の値段の高さは世界一といっても過言ではありません。牛肉のステーキなど、外国は驚くほど安いものです。アルゼンチンへの旅行番組を見ていましたが、むこうは牛がうじゃうじゃいますから、牛肉のステーキなど四、五〇〇グラムもあるものが百円ちょっとしかしません。たくさんステーキを焼くと余りますから、残りは切って犬に食べさせていました。ああいうシーンを見るとさすがにがっかりします。私も新婚旅行でアメリカに行きましたが、日本円にして300円も出せば、ハンバーガーやらフルーツやら食べきれないほど買えたのに驚いたものです。それに比べて、日本の食品の高いこと高いこと。東京などに行ったらとても食事をする気になれないほどです。

 コメの輸入自由化に対する反対の声は根強いのですが、実質は農業関係者からの国会議員への圧力が大きいから、なんとかもちこたえているわけです。安くてうまいものが外国にはあふれているのに、日本人ばかりなぜこんなに高い食品を食べなくてはならないのかと思うと、実に情けないものです。

 しかし、農業をしている方からするとそうも言っていられません。農業をしてもうかるかというと、これはもう決定的にもうかりません。日本の農家はただみたいな値段で市場に卸(おろ)すのに、流通の過程でとんでもなく高い食料品になってしまうのです。では外国から買えばいいということで、ニンジンもレタスも海苔もどんどん輸入されています。ところが、貿易を自由化して外国の農業製品が入ってきたとたん、価格の高い日本の農業界は大変です。牛乳を自由化して安い製品がアメリカやオーストラリアから入ってくるようになったとたん、北海道の牧畜業者はやっていけなくなり、廃業する者が続出しております。また、オレンジなどが自由化され、和歌山などのみかん栽培にも過酷な試練の時期が来ています。

 資本主義なのだから競争は当たり前なのかもしれませんが、全ての農業製品を自由化してしまったら少々不都合なことになります。低価格の外国米、野菜、果物があふれて日本の農業が壊滅状態になってしまったとしましょう。いろんな国との貿易が支障なく行われている今ならば、そんなに問題にはならないかもしれません。しかし、ひとたび戦争が起きるとか、北朝鮮や中国など東アジアでの紛争があるとかしたら、外国から農産物の輸入がストップしてしまうことが考えられます。日本国内で食糧の自給が出来なかったら、街にはハイテク製品があふれているのに、餓死する者がどんどん出るなどといったことになりかねません。現在中国は農産物を輸出する側の国ですが、人口爆発が深刻で、近い将来食料を輸入する立場の国になることは確実です。そうなるとたとえ戦争がなくても、世界規模で食糧の深刻な不足が起きるのは間違いありません。そんなとき自国で食糧の自給が出来なければ、日本は大丈夫かということになるでしょう。第二次世界大戦中に食糧の自給でさんざん苦労した経過があるだけに、食料輸入を止められたら壊滅してしまう日本にしてしまうのは、さすがに抵抗があります。

「一代の 守り本尊訪ぬれば 我(われ)人ともに 飯と汁なり」

禅宗の寺院でよく口ずさまれる文句ですが、口にしたものを消化して体の細胞を作るのですから、食事をすることはとても大切なことです。

「一つには、彼(か)の来所(らいしょ)を計(はか)れ」

真言宗や禅宗でよく唱えられる、食事の前の言葉です。その意味は、

「この食品が自分の前に来る前に、どの人の手を経て、どんな人が精魂を込めて育てたものかをしっかりと考え、感謝をして食事をせよ」

という意味です。今となっては、

「この食品はタイか中国から来たのか、それともベトナムか」

などと考えることになってしまうでしょうが、昔から知恵ある人は、食事一つするにしても自らを戒め、将来への指針を導き出したものです。ご飯一つ一つは文字通りに菩薩なのですから、自らをかえりみながら味わいたいものです。

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第八十五号

科挙制度の残したもの

 息子がまだ小学生だったころ、ドイツの学校の話をしました。

「ドイツでは授業は午前中で終わって、お昼は家で食べる。午後はフリータイムだ」

と言ってからというもの、彼はことあるごとに、

「いいなあ、ドイツの小学生はいいなあ」

と嘆いていたものです。毎日の宿題に追われていただけに切実な意見です。ドイツに限らず、アメリカでもイギリスでも授業時間は日本に比べて短く、夏休みも二倍くらいあるシステムが定着しており、世界中を見渡すとむしろこちらの方が主流です。日本のように猛烈な受験勉強をしなければならない国としては、韓国と中国ぐらいしかありません。日本と韓国、中国の三カ国がなぜ受験地獄社会なのかというと、それなりの歴史的な背景を持っているのです。

 中国で優秀な役人を採用するために始まったのが「科挙(かきょ)」制度です。隋、唐時代に始まったのですから、もう千二百年以上前のことです。その難しさは尋常ではなく、とても東大受験とか司法試験ぐらいのレベルではありません。合格するまで二十年かかったとか、三十年かけて老人になってやっと合格したとか、死ぬまでその願いがかなわなかった者も数限りがありません。世界中のありとあらゆるカンニングテクニックは、すでにこの時代に完成されてしまっています。北京にある博物館には、試験の際に押収されたカンニングの証拠物件が数万点保存してあるというのだから驚きです。中には傑作なのもあります。一見したところ、普通の灰色の服にしか見えない代物ですが、よく目を凝らしてみると、一ミリ以下というごく微細な文字がびっしり書き込まれているため、離れてみると灰色の服にしか見えないという、それはそれはものすごいものです。このカンニング服を作るのに涙ぐましい努力を重ねた男がいたはずですが、博物館に保存してあるということは、その労力もむなしく不正が発見されてしまったのでしょう。

 この科挙制度には二つの利点がありました。まず優秀な人材が採用できるため、政府の政策集団としては非常に優秀なものができあがり、中国王朝の繁栄に大きく寄与したということがあげられます。また、頭脳さえよければ下層階級の出身者であっても活躍することができますから、身分制度の欠点を補うように機能していたという点も忘れてはなりません。科挙制度そのものは清王朝の頃廃止されましたが、中国文化圏には伝統として残っています。中国はその後革命を経て社会主義国になりましたが、学歴重視の風潮は依然健在で、北京大学をはじめとする名門大学への受験競争は日本以上に激烈をきわめています。

韓国も日本も建国以来、中国の影響を強烈に受けてきた国ですから、当然同じ傾向を持っているわけです。韓国などは大学生になれば兵役が免除されるということもあり、こちらの受験勉強も過酷をきわめます。

 日本の教育についても歴史は立派なものです。江戸時代から寺子屋があり、庶民も読み書きそろばんを教わっていますが、庶民階級まできちんと字が書けるように教育した国は、世界中探してもどこにもありません。それが頭脳の優秀な日本人を多数生み出し、現在の日本の発展を築き上げたといってもいいでしょう。 

 しかし、小学校、中学校などの教育現場の問題は深刻です。いじめ、非行、偏差値による輪切り、詰め込み教育によって授業が分からない子供がどんどん生み出されるなど、今ではもう、本当に大変な状況となってしまいました。授業がわからなくて劣等感を持ったなどの経験をした方が、相当おありのはずです。風船に空気を入れ過ぎれば割れてしまうように、いくらなんでも教えることが多すぎるのが日本の教育ではないでしょうか。すごく極端なことを言ってしまうならば、本当に「社会に出て役立つ」という点だけに注目すると、

「小学校六年生までの、かき方と算数」

で人間は十分生きていけるようにも思います。サイン、コサイン、タンジェントが分からないと生きていけないとか、電車にも乗れないとかいうことは、あまりないはずです。社会に出て必要なのはむしろ、

 責任感  思いやり  礼儀作法  

 忍耐力  まじめさ  プラス思考 

なのだと思いますが、いずれにも教科書が作ってあるわけではなく、テストで点数をはかるわけにもいきません。これからは点数で何点とったかというよりは、むしろ心の教育をするべき時代でありましょう。

                         合掌

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もしび                 

第八十六号

個人を作るか、集団を作るか

  先月号で教育問題についてお話をしましたので、今月はもう少しくわしいところまで考えていきたいと思います。日本の教育は、非常に独特な傾向を持っています。要するに「学力があって反抗をしない」子供を育てることに主眼が置かれていると言えるでしょう。明治以来、日本の政府は教育機関に莫大な金をかけてきました。なぜかといいますと、当時日本は「富国強兵政策(ふこくきょうへいせいさく)」をとっていましたから「優秀な兵士」を大量に生産する必要があったからです。軍隊では頭がよく、上官に反抗しない従順な兵隊がどうしても必要となります。個別の分野で優れた点は持っているが、集団の規律を乱す兵士がいると、軍隊は収拾がつかなくなります。第二次大戦後は学校で生み出された優秀で従順な生徒たちはそのまま「企業戦士」となり、会社のために自分や自分の家庭まで犠牲にして働き、今の日本の繁栄を作ってきたとも言えます。そのため、日本の学校はどうしても「他人と同じになること」を強制する傾向があります。それがひいては、「他と違う子を排除する」という雰囲気につながり、いじめの原因の一つになっていると言われています。

 それに対して外国は全く考え方が違います。個性に合った教育をするのが当たり前で、例えばスポーツが得意な子には、小さいときから徹底した英才教育をほどこします。オリンピックで日本はなかなか勝てませんが、外国は小学校からプロ並みの英才教育をしているのですから、いわば当然の結果なのです。むこうでは頭のいい子は、十歳ちょっとで大学を卒業するなど珍しくもありません。そういう超エリートが将来はシンクタンク(天才が集まる、政府の重要な研究機関のこと)などに入って、研究部門をリードしていくわけです。

 しかし、日本の教育システムが今日の国の繁栄を招いたのも、またまぎれのない事実であります。また、識字率(字の読める人が全体の何パーセントにあたるかという数値)でも、日本は世界のトップなのです。貧富の差も、外国に比べて著しく少ないのです。(実感はないかもしれませんが、本当のことです)教育がみんな平等という方向なら、日本人全部の暮らしも、外国に比べると相当平等なのです。

 外国ではそうはいきません。エリートはどんどん成功できる一方で、能力が劣る者は情け容赦なくふるい落とされるという、非常にシビアな世界です。小学校から留年があり、出来が悪いと小学校二年生で退学、学歴はそこでおしまい、字も書けないなどという人も相当おります。頭が悪く、スポーツもできないとなりますと、もう本当にどうしようもありません。「ドラえもん」に出てくる「のびた君」などは、勉強もできない、スポーツもダメという子どもですが、日本だからこそ漫画の脇役がつとまるわけでして、欧米では本当に「無能者」の烙印(らくいん)を押されてしまい、誰にも注目してもらえません。ですから社会全体としても貧富の差が激しく、エリートが住む高級住宅街を一歩出ると、社会的に恵まれない人たちのスラム街が続くわけです。治安も悪く、そんな地域の学校の荒れかたは日本とは比べものになりません。麻薬の売買や売春が日常的に行われている学校もあります。 

 ただ、そうはいうものの、日本の学校がこれまでのシステム通りにやっていけるかというと、これははっきり言ってノーです。というのも、日本の社会の変化を見てみればいいわけです。年俸制が導入される、終身雇用が崩壊する、学歴ではなく資格主体の社会になるなど、どんどん日本の社会全体が、外国なみに変化してきています。ただ一つ学校だけが昔のままの「みんなと同じことをさせる」やり方だけを続けるのは、もう無理な時代に入っています。個性と能力重視の方向に行かざるを得ないでありましょう。

 こう書いていくと、これから子どもを産み、育てていくのは大変気が重いようにお感じになるかもしれませんが、その根本の部分は意外に単純なものであり、時代や社会のありようが変わっても、不変なのだと思います。次の時代をになう世代に何を教えていったらいいのかというと、

 人には親切にすること

 腹を立てないこと

 他人を許すこと

 明るく前向きに生きていくこと

極端な話、これにつきるのではないかとも思います。誰もが保育園か幼稚園で教わる内容でありましょう。しかし、誰しもなかなか守れないはずです。時代が代わり、国が異なっても、人としての生き方は同じなのではないでしょうか。

                         合掌

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第八十七号

人はパンのみにて

 

「人はパンのみにて生きるものにあらず」

よくお聞きになる言葉でしょうが、どういう意味かご存じでしょうか。

「人はパンだけでは生きていけない。ジャムやバターをつけないとうまくないし、コーヒーかミルクを飲まないとのどにつまる」

なんてことを言っているわけではないのです。本当の意味は、

「人はパンを食べて飢えをしのいでいるだけでは、本当に生きているとは言えない。信仰を持ってこそ、本当に生きていると言えるのである」

というものです。聖書の言葉です。それに対して、

「いや、信仰などなくても生きていける」

という意見も当然あります。マルクスはそう考え、「共産主義宣言」を書きました。その理念に基づいてソ連が出来ましたが、ご存じのように最後はずっこけてしまいました。

 ペレストロイカが進んだ頃の旧ソ連(今は当然ロシアです)に「マクドナルドハンバーガー」のチェーン店第一号がオープンしました。ところがこれが値段が大変高く、ハンバーガー一つが日本円にして八百円から千円もします。ただでさえ経済的に大変な国なのに、しかもこの値段です。当然お客が入らないと思っていましたら、事実はその全く逆でした。延々と行列が出来、二時間くらい待たないと食べられないほどの繁盛ぶりでした。その秘密は実は、

「スマイルとサンキュー」。

マクドナルドに行くと、メニュー表の中に「スマイル…0円」と書いてあるのに気がついている方がおありでしょう、あれです。ファーストフードの店は社員教育が行き届いていて、皆とてもあいそがいいものです。

「ハンバーガーとチーズバーガーください」などと注文しますと、

「ありがとうございます、ポテトはいかがですか」

と、ほほえみながら敵は、すかさず問い返してきますので、気が弱い人は必ず一緒にポテトも注文してしまうことになります。

 ファーストフード店のおねえさんがにこにこして注文を取るなど、我々西側諸国の人間にとっては当然のことです。しかし、旧ソ連の人々にとって「店員があいそよく注文を取ってくれる」ということは、八百円や千円にも相当するたまらない魅力なのでした。旧ソ連は当然、社会主義国でした。社会主義国では、理髪店のおじさんもレストランのおねえさんも、みんな国家公務員です。そのため給料はみんな国からもらっていて、商売の売り上げと給料には全く関係がありません。ですからみんな無愛想そのもので、食事の注文を取っても返事もしません。注文した通りのものが出てくるかどうかさえ、わからなかったのです。

「ボルシチを頼んだのに、出てきたのはピロシキではないか」

と言っても、

「私の責任ではない。文句は共産党に言え」

と、これで終わりです。こんな調子では、ばかばかしくてやってやれません。そんな無味乾燥な毎日だったところへ、マクドナルドがスマイルを振りまきながら進出してきたということだったのです。

 東側諸国は共産党による一党独裁の体制のため、労働者の勤労意欲は低下し、製品の改良も全くといっていいほど行われませんでした。東西ドイツ統一後、旧東ドイツの地域では交通事故が多発しました。というのも、ベルリンの壁が崩壊して、旧東ドイツの住人達が喜んで西側の車を買ったのですが、共産圏製造の車に比べて、べらぼうにスピードが出るのです。ハンドルが切りきれずに衝突というケースがほとんどでした。一方が旧東ドイツ車、一方が西側の車の二台が衝突したらおおごとで、旧東ドイツ車側は大破してしまいます。なぜかといいますと、旧東ドイツ車のボンネットは、厚紙(これは本当の話)の表面にビニール膜をつけて強化しただけの代物だったからです。

 要は東側諸国が「人間の心のすきま」を埋めることが出来なかったから、こんなことになってしまったのです。人はパンのみで満足が出来るものではなく、人と人との心のつながりや、見えない存在への敬虔な姿勢を持つことなしには、発展も努力も忘れてしまうものなのです。人間の知恵には限界があります。自然の声に耳を傾け、神仏の教えに頭(こうべ)を垂れるべきでありましょう。

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第八十八号

日本は豊かな国か

 経済大国といわれる日本は、本当に豊かな国なのでしょうか。外国と比べてみると、よくわかります。東ヨーロッパには日本から輸出された「百円使い捨てライター」が出回っています。しかし製品は品薄で、なかなか手に入りません。街中には小さな道具屋があり、日本の使い捨てライターに穴を開けて栓をつけています。ここでは「使い捨てライター」というものはなく、ガスを外部から注入できるように改造して使うのが常識なのです。

 現在日本では、牛乳パックのリサイクル運動が盛んですが、外国には牛乳パック自体がほとんどありません。自宅から牛乳瓶を牛乳屋さんに持って行き、中身だけを詰めてもらうのが標準的なスタイルなのです。ちょうど昔、日本でもなべを持参で豆腐やおでんを買いに行ったのと同じです。

 また、日本の中古車は東南アジアやロシアに輸出され、日本では廃棄処分でも、向こうの国ではバリバリの現役で活躍中です。中古車から部品を取りはずしてのフリーマーケットも盛んに開かれています。中古タイヤも海をわたれば現役でありまして、溝がすり減ろうが中から糸のようなものが出て来ようが一向に平気です。ツルツルでボロボロなタイヤが、凍りついたツンドラの大地を激走しています。

 こんな話もあります。ロシアから体操選手団が来日しましたた。福井県の大会に出場するためです。大会の主催者が、彼らも何かお土産を買いたいだろうと思って「越前人形」などを展示している土産物屋へ案内しようとしたところ、選手に断られてしまいました。彼らは、

「人形なんかいらない、われわれは日常品が欲しい」

と、スーパーマーケットにぜひ連れて行ってほしいと言ったのです。彼らは歯ブラシやタオル、石鹸、食料品などを買いあさりました。ロシアでは手に入らないものばかりで、スーパーにこんなに商品があふれているなんて、夢のように豊かな国だと言ったそうです。

 しかし、我々には正直なところ「豊かな国」という実感がありません。日本人はほとんどが「自分のところは中流家庭である」という意識を持っていますが、欧米の中流家庭というのは、広い芝生付きの庭を持ち、休日には自宅のプールで泳ぎ、夏休みには三週間程度のバカンスをとって、バンガローを借りなどしてのんびり釣りをして過ごす、という生活をする人々のことです。日本でこんな生活をしているのは、大企業の経営者ぐらいでしょう。

 日本の企業は利益が出ても会社を大きくすることにだけ還元し、労働者へ返してきませんでした。そのため、国としての力は増大しましたが、個人個人としては決して豊かとは言えません。狭いウサギ小屋のような家に住み、世界一高い食品を食べさせられねばならないのです。土地の値段も文句なしに世界一で、マイホームを持とうとすると、親・子・孫の三世代に渡ってローンを払わなければならないということまであるのです。

 また、日本の豊かさというのは、つまり金銭的に豊かなこと、それだけです。経済的な豊かさばかり追求してきたため、「金がすべて」という発想が蔓延(まんえん)してしまいました。そのため精神的価値が非常に希薄となり、自殺やいじめが多発し、中高年のノイローゼや、ストレスからくる成人病の割合は世界一です。当然今後は「精神的な豊かさを尊重する社会へのシフト」が必要となるでしょう。働くばかりでレジャーを知らなかったモーレツの時代から、今の社会は確実に変化してきています。かつてのように勉強に、仕事にとひたすら邁進(まいしん)するのだけが、人間としての生き方ではありません。

 ただ、今の日本の若い人たちの生き方が「精神的な豊かさ」を必ずしも目指しているかどうかというと、少々疑問を感じます。若者が遊ぶのが上手になったのはいいことでして、会社と仕事しか能がない、「おじさん世代」にはない大きな長所を持っていると言えましょう。しかし若い世代の主流が「お金があって、適当に遊んで暮らせればよい」という軽薄短小に流れてしまっているのもまた、事実なのではないでしょうか。「お金が適当にあって、楽が出来ればいい」と考えるのもまた、「拝金主義」に他ならないのではないでしょうか。お金はなくても精神的に豊かで充実した生活スタイルをこそ、めざすべきではないかと思います。趣味に没頭するもよし、ボランティア活動の広がりも好ましいことでしょう。しかし、趣味にもボランティアにも一定の限界があります。どんなに時代が変わっても我々に確固とした生きる指針を与えてくれるものは、神仏の声に他ならぬでありましょう。

                         合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院 

 

 

ともしび                 

第八十九号 

不言実行ということ

 日本の昔話に次のようなものがあります。

 あるとき、犬と猿がさかんに口争いをしておりました。そこに蜂が通りかかり、聞き耳を立ててみると、犬と猿は次のように言い争っていました。

犬が言うには、

「おれは、この町一番の金持ちだ。一番世の中の役に立っている。寄付もしているし、役職にもついている。おれこそ一番役に立っている。」

猿は答えて、

「冗談じゃない、おれなんか財産も地位もないが、いろんな人と語り合うことを毎日している。おれこそ一番世の中の役に立っている。」

こうしてけなし合うので、なかなか決着がつきません。蜂はそんな二匹に目もくれず、

「こんなことではりあうより、家に帰って仕事でもしよう」

と言って、コツコツと巣作りに精を出しました。どう考えても蜂が一番賢いと言えます。

  財産や地位や肩書きを振り回しても、むだ口をいくらたたこうとも、自分のやるべきことに最善をつくす人にはかないません。ことわざにも

「語る者は行わず、行う者は語らず」

というのがありますが、自分のやるべきことに最善をつくしたいものです。

  とかく私たちはすぐに理屈をふりかざし、難しい言葉を使いさえすれば賢くなったような気になってしまいがちです。たくさんの物事を知っている人は

「知識の豊富な人」ですが、かならずしも知識の豊富な人が、立派な行いをするわけではありません。これに対して、何が大切なことなのかよくわかっている人が「知恵のある人」です。知恵は知識にまさると言えます。

  その点で見習わなければならないと思うのは「神道」の教えです。私自身真言宗の僧侶と神主の両方の免許を持っておりますが、神道には、はっきりした経典も、教義もありません。あるのは作法と実践だけです。口の悪い人は、

「だから神道は宗教ではない」

などとも言いますが、それは間違いなのではないかと思います。難しいことばかり論議していても、一番大切な、

「人を助けること」

を忘れてしまうと、それこそ「宗教ではない」ものになってしまうのではないかと思うのです。

  ほんのささいなことでも、やりとげることは容易でありません。お釈迦さまの弟子にチュ-ラパンタカという人がいましたが、この人は大変頭が悪いので有名でした。他のお弟子たちもお釈迦さまに、

「どうかチュ-ラパンタカを弟子に迎えるのはおやめください。あいつは大変物覚えが悪くて、何か覚えるなどということがまったくできません。仏教の教えなど到底学べませんので、悟りがひらけるわけがないと思います。」

と口々に言いました。しかし、お釈迦さまはどうしても聞き入れられません。仕方なくみんなでチュ-ラパンタカにお経を教えはじめました。

  ところが、一番最初の部分の、たった一行めの内容がまずわからないのです。お弟子たちは毎日毎日、彼に最初の一行を朝から晩までくりかえし教えましたが、彼の頭にはどうしても入りません。あまり毎日同じことをくり返しているので、修行場で小使いをしていた子供が先に内容を聞き覚えてしまい、あくびをしながらすらすらと暗唱するしまつ。根気強く教えていたお弟子たちもしまいに頭に来てしまい、彼につらくあたるようになってしまいました。

  チュ-ラパンタカが一人で悲しんでいますと、お釈迦さまが通りかかりました。事の次第を聞いてお釈迦さまは一本のほうきを与え

「これで塵(ちり)をのぞこう、と言いながら掃除をするだけでよろしい」

とはげまされました。彼は言いつけ通りのことを黙々と実行しているうちに、師の教えである、

「人の世の迷いは塵や垢(あか)なり。知恵はこれ心のほうきなり」

(訳 世の中の人の迷いは、ちょうど塵や垢のようなものだ。仏教の知恵は心のほうきで、その塵や垢を掃除してくれるのである)

という意味を身をもって知ることができ、同期の者のなかで最も早く悟りを開くことができたのです。

彼を内心ばかにしていた人々は仰天しましたが、チュ-ラパンタカは、おだやかにほほえむだけでした。彼はたしかに「知識」は人に劣っていたようですが、本当に「知恵」があったと言えましょう。心を病んでいる人に対して私はよく掃除をしてもらいますが、頭で難しいことをグダグダ言うより、掃除をして心の塵や垢を除いてもらったほうがよほど効果があります。私たちも、難しいことを百知るよりも、一つでよいから大切なことを実践したいものです。                         

合掌

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高野山真言宗清涼山不動院

ともしび                 
第九十号  

ノーと言える日本人に
 個人的なことですが、私は英語の免許も持っています。所有する免許の数はべらぼうに多く、教科だけでも国語、英語、書道、社会、数学と五教科持っております。その他小学校の教師とか、養護学校の教師とか、図書館司書とか、学校関係だけで十三種類の免許状を持っているので、典型的な器用貧乏タイプと言えましょう。宗教関係でも僧侶、神主、易者のそれぞれの資格を所有しております。
 これだけいろいろな顔を持っていると、それぞれの専門分野の違いに接する機会も多く、実におもしろい経験をすることがあるものです。書道の免許を取るための勉強などは、さすが書道らしく実に「伝統的」なものでした。教えて下さる先生に対しては、敬意を持って接しなければならず、まさに「絶対服従」が基本です。行書を教えて下さった先生がいきなり棒を持ち出して、
「書を学ぼうとすれば、まず正しい姿勢が大事である。背筋をぴしっと伸ばせ。曲がっている者には一撃を食らわすが、これは愛の鞭と思え」
などと言い出すものですから、一同ガチガチに緊張し、静まり返った中でさらさらと筆の立てる音だけが何時間も続くといった授業風景でした。
 私は物好きなものですから、書道免許を取った翌年には、今度は英語の免許を取ってみました。英会話の授業を受けてみたところ、大変なショックを受けたのです。前年度が伝統的な書道だったものですから、その落差にがくぜんとしました。
 まず、先生の方から(もちろん外国人)、自分のことを愛称で呼べ、と言います。「先生」などといって呼びかけたらすぐ注意されてしまうので、「ハーイ、ボブ!」とやらねばなりません。あちらでは上司であろうが先生だろうが、敬語を使うという習慣がないからですが、我々日本人にはなかなか抵抗があるやり方です。
 授業のやり方も日本と全く違いました。我々が黙ってノートをとっていたら、外国人の先生は急に険しい顔になって、
「あなた方は、なぜ黙って書いてばかりいるのか。もっと積極的にどんどん発言しなさい。歩き回ってもよい。もっとアクティブに」
などと言い出すのです。それからの授業はゲームとか英語劇とかばかりになってしまいました。おちおち席にも座っていられないのです。隣の席の人とチームを組まされたと思ったら、
「相手をけんかの相手と想定しなさい。適当に理由をつけて、これから五分間、相手と英語でけんかしなさい」
などと言いだすしまつ。私も相手の人も冷や汗びっしょりになりながら「けんか」をしました。その時つくづく、
「毎日こんな練習をしているのだから、外国人は議論がうまいはずだ。日本人ではとてもかなわない」
と思いました。
 外国との交渉が日本人は苦手です。特に外国からの要求に対して、「ノー」ということが言えません。経済援助をしてほしい、自衛隊を紛争地域に派遣してほしい、貿易黒字を減らしてほしいと、外国からはさまざまな注文がつきます。それに対して日本政府がはっきり答弁したというのは、あまり聞いたことがありません。どちらともとれるあいまいな返事をしてしまいがちです。外国人教師は授業の最初に、「もっとアクティブに」と要求しますが、日本の教師の第一声は必ず「静かにしなさい」です。全員が黙って、黒板の内容を写してさえいれば、学生は勉強しているものと考える傾向があります。大切なのは外面(そとづら)ではありません。要は中身なのです。これからは中身を濃くし、人間同士が本音をぶつけ合いながら物事を考ねばならないでしょうが、何らかの「信念」を持っていないとはっきりしたことは言えません。どんな信念に基づくのも個人の自由です。そういう意味では、戦前や高度経済成長時代にはこんなことを考える苦労がありませんでした。戦前ではお国のために死ぬことが一番と教えられましたし、高度経済成長の時代は、ひたすら勉強していい大学を出ればよく、それだけで残りの人生は安定したのです。
 しかし、いまさら「企業に対する忠誠心が信念」というのも、いかにも時代遅れで、ぱっとしません。といって現代の日本人が、確実な「より所」を持っているようにも思えません。絶対に揺らぐことのない信念として、私は「信仰の道」をおすすめします。
                         合掌
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