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ともしび  

第十一号  

 

笑いについて

 

  「忙しい」という字は、「心へんに亡ぶ」と書きます。スピ-ド時代に暮らす私たちの毎日は本当に忙しく、その忙しさに「心が亡ぶ」状態となってはいないでしょうか。その忙しさに毎日の職場がうっとおしくてたまらない人もおり、「人生なんてくそ面白くもない」というように、苦虫をかみつぶしたような不機嫌な顔つきで一日を過ごしている人もいます。一家だんらんの時間も、趣味の時間も取れず、いまや、「ただ単に同じ収入源で暮らしているだけ」が家族のあかしといった状態の家も残念ながら少なくありません。

  私の好きな本で『空想科学大全』というのがあります。特撮番組の「ウルトラマン」や「仮面ライダー」、アニメの「ガンダム」や「宇宙戦艦ヤマト」などが大真面目に研究されております。ウルトラマンの怪獣は体が重すぎて、出てきたとたんに自分の体重でつぶれてしまうとか、仮面ライダーのライダーキックは物理学的に無理があり、しかもイナゴの改造人間だから昆虫の足は非常にもげやすく、キックしたら自分の足モゲてしまうとか、そりゃもう内容は抱腹絶倒です。さらには、ガンダムの場合は足の裏のサイズが小さすぎるので、地球に置いたら自分の重みで胸まで地面にめり込んでしまう、宇宙戦艦ヤマトが波動砲を宇宙空間でぶっ放したら、反動でヤマトのほうが吹っ飛び、地球に突き刺さって地球ごと爆発するとか、一人で読んでは爆笑し、周りから白い目で見られるのがオチであります。私はとにかくこの手のネタが大好きで読んでいるからいいのですが、購入層として「毎日の忙しさにへきえきし、会社にも家にも行きどころのなくなった人が、せめての心のやすらぎにと」買うケ-スも多いそうです。そうなると、現代日本人はみんなやっぱり疲れているのでしょう。

  このような忙しさのゆえなのか、どうも最近は日本人の顔から「ほほえみ」が消えてきたように思われてなりません。昔から一歩家を出ると七人の敵がいるとは言われてきましたが、現在では不倫や少年非行のせいで、自分の家のなかでさえ生き馬の目を抜くような、油断のならない毎日を送らなければならない世の中になってきました。これでは心の底から笑うことはないでしょう。

  今では屈託のない笑いをぶつけられるような、信じあえる相手が周囲にはなかなかおりません。現代人が笑うのは一緒に食事をとりながらの家族の会話のなかではなく、テレビのお笑い番組を見るときか、井戸端会議で他人の悪口を言うときくらいになってしまっております。

  ちなみに、笑い声は「アイウエオ」のどれかの音から始まりますが、最初の音の「ア」から始まる

「アハハハ」

は、心の底からの素直な笑い声です。それに対してほかの音から始まる、

「イヒヒヒ」

「ウフフフ」

「エヘヘヘ」

「オホホホ」

はどれも、どこかにいやみや、ふくみの感じられる作り笑いであると言えます。そして、私たちが耳にするのは圧倒的に後者の方の笑い声ではないでしょうか。  ほほえみは人間の心に根ざす心の語りかけです。このほほえみについて、  『死に勝つまでの三十日』という本にはこう書かれております。

 

ひとつぶでもまくまい

ほほえめなくなる種は

どんなに小さくても

大事に育てよう

ほほえみの芽は

この二つさえ

たえまなく実行してゆくならば

人間は生まれながらにして持っている

いつでも  どこでも  何者にも

ほほえむ心が輝きだす

人生で一番大切なことのすべてが

この言葉のなかにふくまれている

 

  お釈迦さまも阿弥陀さまもよくお顔を拝見すると、みなかすかにほほえんでいらっしゃるのに気がついておられますか。ほほえみの心や余裕を失ってしまったら人間失格なのです。仏さまは私たちにそのことを教えてくださり、腹立たしい毎日を送る私たちにやすらぎを与えてくださってるのです。もし自分自身にほほえみの心を人に伝える勇気と自信がないなら、せめて仏さまにあやかり、その心を自分の心としてみてはどうでしょうか。

 

合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院

 

 

ともしび   

十二号  

 

延命十句観音経の話

 

  禅宗と真言宗で唱えるお経に「延命十句観音経(えんめいじゅっくかんのんきょう)」というのがあります。

 

(延命)十句観音経(えんめい・じゅっくかんのんぎょう)

観世音(かんぜーおん)

南無仏(なーむーぶつ)

与仏有因(よーぶつうーいん)

与仏有縁(よーぶつうーえん)

仏法僧縁(ぶっぽうそうえん)

常楽我浄(じょうらくがーじょう)

朝念観世音(ちょうねんかんぜーおん)

暮念観世音(ぼうねんかんぜーおん)

念念従心起(ねんねんじゅうしんきー)

念念不離心(ねんねんふーりーしん)

 

本当にたった十行しかない、とても短いお経です。訳は以下の通りです。

現代語訳

(寿命が延びる)十句で説いた観音の教え

観音菩薩に帰依(きえ)いたします。

仏に帰依いたします。

私たちは仏と同じ因(いん=原因)でつながっています。

私たちは仏と同じ縁でつながっています。

仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぽう)ともつながっています。

悟りの世界は常に苦しみがなく楽であり、清らかです。

朝に観世音菩薩を念じ

夕べに観世音菩薩を念じれば

一念一念は仏心より起こったものになり

一念一念は仏心を離れたものでなくなり、すべてが仏の心になります。

 

大変短く、唱えるのに1分もかかりません。禅宗でも真言宗でも観音経というお経をよく唱えますが、このお経を大変短く、ダイジェストにした感じです。このお経については大変面白い話が伝わっています。

 江戸時代のこと、森田平馬(もりたへいま)という武士がこの延命十句観音経を唱え、人にも勧めていました。ところがある日、突然息が絶えてしまったのです。平馬は三途(さんず)の川を渡り、気がついたら閻魔大王の前にいました。閻魔大王は、

「今、お前をここに呼んだのはほかでもない。お前一人で『延命十句観音経』を広めていても、一人の力では限度がある。東海の原宿に白隠禅師(びゃくいんぜんじ)という和尚がいる。その和尚に頼んで、この『延命十句観音経』を広めてもらうよう頼んでほしいのだ。わしも務(つと)めで閻魔大王をやっているが、最近は地獄があまりに繁盛しすぎて、鬼どもが疲れはててしまって困っている。地獄に落ちる人間どももかわいそうである。この経を唱えるものが増えれば、地獄に落ちる人間の数も減るだろう。お前は戻ってぜひとも和尚にそう伝えてくれ。」

と言ったのです。森田平馬は、

「必ず白隠禅師にそう伝えます」

と約束したと思ったら、棺桶の中で息を吹き返したので、葬式に集まっていた人は腰を抜かしたそうな。白隠禅師はこのいきさつを聞いて、『延命十句観音経』を広めるように尽力しました。その後のことは禅師が『八重葎(やえむぐら)』という本に書いておられます。

 以上は江戸時代に記録が残る実話ですが、地獄の閻魔大王と鬼というのは、要するに「公務員」の身分であり、鬼たちから「過酷な労働条件の待遇改善」の突き上げ要求を食らった閻魔大王が、困った末に管理職として対策を講じたという話でありまして、私はこの話が大好きです。人間が地獄に落ちると、あちらでも過重負担になって迷惑するわけですから、我々は生きている間に善行を積み、「あの世の職場の方々」に仕事をさせないですむようにしたいものです。

 今回は延命十句観音経に焦点が当たった話でしたが、お経の功徳を説いた話は昔から枚挙にいとまなく、「般若心経」や「法華経」をはじめ、常日頃唱えていた者が救われたり、病気が治ったり、急死に一生を得たりという霊験談には事欠きません。仏の教えを説いた経文にご利益があるのは当然のことです。宗派や宗旨によって唱える経文はいろいろありますが、どれも仏の教えを説いた素晴らしいものであり、心して信心したいものです。

合掌

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ともしび  

第十三号  

 

白隠禅師の「軟酥(なんそ)の法」の話

 

  前号に登場した白隠禅師(びゃくいんぜんじ)についてもう少し紹介しましょう。白隠禅師は江戸時代、五代将軍綱吉のころ沼津(今の静岡)に生まれました。深く禅を学び、五〇〇年に一度の名僧というくらいの人です。あるとき、村の娘が親のわからない子を産んだことがあります。娘の親は激怒し、誰の子か問い詰めましたが、頑として本当のことを言いません。あまりに父親が激しく問い詰めるので、娘はよりにもよって、

「白隠禅師さまの子供です」

と嘘をついてしまいました。もちろん白隠禅師には身に覚えのないことです。娘の父が白隠禅師を大変尊敬していたので、禅師の子供だと言えば許してもらえるのではないかという浅知恵でした。父親はそれを聞いてさらに激怒、禅師の寺に乗り込んで、さんざん悪態をつき、

「この生ぐさ坊主め、よくもうちの娘を傷ものにしたな!お前の子供だ、受け取れ!」と、禅師に赤ん坊を押し付けました。ところが禅師は言い訳ひとつせず、

「ああ、そうか」

と言って赤ん坊を受け取り、その日から村中でもらい乳をして世話を始めたのです。それまで名僧として知られた白隠禅師の名前は地に落ち、とんでもない破戒僧ということになってしまいました。弟子や信者さんもどんどん離れていったのですが、白隠禅師はどこ吹く風で悠然としています。相変わらずもらい乳をして赤ん坊を育てる禅師の姿を見て、娘は良心の呵責にたえかね、とうとう本当のことを言いました。事情を聞かされた父親は平身低頭して寺に詫びを入れに行き、赤ん坊を返してもらうよう恐る恐るお願いしました。その時も禅師は

「ああ、そうか」

と言っただけで、悠然と赤ん坊を返したそうです。

 とんでもないスケールの人で、他人の子供だろうが自分の子として育てる慈悲の心をお持ちだったわけですね。この白隠禅師が禅の修行を始めたばかりのころ、あまりに熱心に修行に打ち込みすぎて、大変な病気になってしまいました。頭はのぼせ上り、両腕両脚が氷雪のように冷えて、心は疲れ切って、夜も眠ることができず、幻覚を生ずるようになってしまったのです。医者からは「よくて半年の命」と宣言されてしまったのですが、山中に棲む白幽(はくゆう)という仙人から、養生と病気の予防についての秘法を教えられ、やっと克服することができました。それにしてもこの人は、閻魔大王から仕事の依頼が来たり仙人に出会ったりと、半端ないスケールの交友関係であります。

さて、その健康法は「軟酥(なんそ)の法」として知られています。自己暗示によって潜在意識を変える精神療法でして、具体的なやり方は次の通りです。

 

卵ぐらいの大きさの軟酥(なんそ=バター)の丸薬を頭上に乗せたとイメージします。

その丸薬が頭上から足の裏まで流れ込んでくると想像するわけです。

 

もう少し具体的に書きましょう。

 

軟酥丸(なんそがん)は、清い色をして、よい香りがする実に素晴らしい丸薬です。

これが頭全体を潤(うるお)し、ヒタヒタと水が浸透するように下りてきます。

両肩、両上肢、乳房、胸、肺臓、肝臓、腸、胃、背骨、尾骨まで潤すと想像します。

軟酥がここまで下りてくると、すべての内臓の病気や痛みが消失するありさまが、水が流れるようにはっきり分かります。

さらに軟酥は両脚を温かく潤し、足の裏まで到達するとその流れは止まります。

ちょうど、名医が香りがよく、病気にもよく効くいろいろの種類の薬剤を

お湯で煎じて桶に一杯入れ、自分の両下肢をその中に漬けているのと同じです

 

白隠禅師はこう言っておられます

「この方法を何回も根気よく行えば、どんな病気でも治せないものはない。そして立派な徳を積むことができる。さらにどんな修行でも成功しないものはない。また、どんな事業をやっても必ず成功する。その効果が早く現われるか、遅く現われるかは、これを行う人の熱心さいかんによるから、一生懸命に精進せよ」

 

個人的なことですが、私自身にとっても、とても懐かしいイメージ法です。高野山の修行を終えて護摩を焚きだしたばかりの頃、職場と寺の二足のわらじを履く生活が非常にハードでしたので、風呂や寝床の中で、しょっちゅうこれをやっては疲れを取っていたものです。現在では二足どころか三足のわらじを履いている生活になってしまったので、また昔のようにこの法のお世話にならないといけないなと思っております。「病は気から」と言いますが本当にそうでして、イメージ力の果たす作用は絶大なものがあります。一円のお金もいらない健康法ですので、ぜひ皆さんもお試しください。

合掌

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ともしび  

第十四号  

 

般若心経のご利益の話

 

  最近は別の宗派のご寺院と、よくおつきあいさせていただくようになりました。もともと葬儀に出席しなければならない関係で、浄土宗・浄土真宗・禅宗のお経は昔から読んでいましたが、最近は結構法華経も読んでおります。だいたい私は神主の資格も持っていますから、普通に祝詞をあげて神式の祈祷もしていますし、宗派宗旨に関係なく大切なものは大切、いいものはいいのです。

さて、真言宗では法華経を全く読まないのかと言いますと、別にそんなことはありません。法華経の25番目は「観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)」と言いますが、これを真言宗と禅宗では独立したお経、「観音経」として扱い、法要でも祈祷でもよく読みます。そういうわけで私自身、法華経はふりがなを読んでやっとあげられる状態ですが、25番目だけはほぼ暗記してしまっていたりします。

 また、当寺院でもお唱えするお経の中に、

 

願以此功徳(がんにしくどく)   

普及於一切(ふぎゅうおいっさい)    

我等與衆生(がとうよしゅじょう)

皆共成仏道(かいぐじょうぶつどう)

訓読 願わくはこの功徳をもって、あまねくいっさいに及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを

 

という一節がありますが、これは法華経の第三巻「譬喩品(ひゆぼん)」にある言葉です。

さて、法華経以外のお経で当宗派の者が盛んにお唱えするのは、なんと言っても般若心経でありましょう。般若心経はもともと古代インド語で書かれていましたが、これを何人もの僧侶が中国語に訳しました。その一人が西遊記で有名な「玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)」で、この方の訳した般若心経が我々が読むお経となっています。実際には三蔵法師は孫悟空などの部下を連れていたわけではなく、たった一人で生命の危機にさらされながらインドまでたどり着き、大量のお経を中国語に翻訳して仏教の発展に多大な貢献をされました。その三蔵法師がインドへの旅の途中、ある僧が病で倒れているのを見つけました。三蔵法師はあわれに思って僧を背負いましたが、その僧が肩越しに

「この一巻の巻物を持って旅をすれば、あなたは無事目的を達して長安の都にたどり着くことが出来るであろう。」

と言うやいなや、その姿はかき消すように消えてしまいました。この僧侶は観音菩薩の化身と言われており、その一巻のお経が「般若心経」であります。二七八文字しかありませんので半紙一枚に全文を書くことも簡単にできますが、内容は大変濃いものです。どれくらい濃いかと申しますと、玄奘三蔵はインドから大般若経(だいはんにゃきょう)というお経を持ち帰られたのですが、これがなんと六〇〇巻(!)もあります。このお経には大乗仏教の根本となる教えが書いてあるので非常に重要なのですが、何せあまりに長すぎます。その点般若心経はわずか二七六文字ですが、大般若経のエッセンスが凝縮されていますので、般若心経を一巻お唱えすれば、三蔵法師がお持ち帰りになった大般若経六〇〇巻を読むのと同じご利益があると言われております。

 般若心経の意味を追求すると大変難しく、際限がなくなってしまいますので、当寺院でお配りしているお経には、私が非常にわかりやすく言い換えた訳をつけております。これは一般の仏教の考え方を元に般若心経を解説したものでありまして、真言宗以外に般若心経をお唱えになる、天台宗・臨済宗・曹洞宗・浄土宗・黄檗宗などの宗派でもほぼ同じ解釈と思っていただいて結構です。

 実はそれに対して弘法大師は、少々違う解釈をなさっておられ、般若心経に対しても密教的な見方をしていらっしゃいます。般若心経の最後は

「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボウジソワカ 般若心経」

というように、陀羅尼(だらに=呪文のこと)で終わっております。訳をした玄奘三蔵も、呪文の部分だけは古代インド語のままにされているのですが、弘法大師はこの部分が一番大切であるとされ、この陀羅尼をあげると、

 

ギャテイ     →仏様の法話を聞く功徳

ギャテイ     →実際に修行をする功徳

ハラギャテイ   →世を救い人に利益を与える菩薩になる功徳

ハラソウギャテイ →この世に仏の国を作る功徳

ボウジソワカ   →最終理想の仏の国に到達する功徳

 

があると、「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」という、般若心経の解説本の中で書いておられます。また、密教の真言として般若心経を読まねばならないとも述べておられます。ぜひ私たちも心を込めてお唱えし、功徳を積みたいものであります。

合掌

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ともしび  

第十五号 

 

般若心経のご利益の話 その2

 

  先月にお話しいたしました玄奘三蔵がインドから持ち帰り、ご本人が自ら翻訳したお経が大般若経です。大乗仏教の根本の教えが書いてあるもので、お釈迦さまが二十八年間もご自分の胸の中に持って考えられ、その後4箇所で16回も説法をして人々に説明されたものです。このお経の中に説かれているのは「空(くう)」という考えです。「空」をわかりやすく説明するのは大変難しいのですが、ごく簡単に言ってしまいますと、

「この世には絶対のものはないのに、私たちの心は絶対のものがあると勘違いしてしまう。人はいずれ死ぬ、名誉もお金もいつまでもあるものではない。私たちの心が原因で不幸をまねていることがほとんどである。」

ということになります。心の持ち方を変えれば、迷いや苦しみはなくなり、「これが真実だ」という自覚が生まれるわけです。

 「大般若」というのは「大きな仏さまの知恵」という意味で、このお経を読めば仏様の知恵の風が吹き起こり、「空」の教えによって迷いや悪因縁を除いてしまうという功徳があるとされています。また、このお経を読みますと「滅罪生善(めつざいしょうぜん)」と申しまして、罪科(つみとが)がなくなって善い因縁(いんねん)が生じるとされています。さらに、神仏の威光はますます輝き、悪魔は逃げ、福徳が豊かに寄って来るとも言われています。なぜかと申しますと、大般若経にはお釈迦さまの永遠の誓いが述べられております。それは4つありまして、「四弘誓願(しぐせいがん)」と呼ばれるものです。具体的に紹介しますと、

 

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

=生きとし生けるものは数限りないが、誓ってこれを救おうとしよう。

煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)

=煩悩は数限りなくあるが、誓ってこれを克服しよう。

法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく)

=仏の教えは数限りなくあるが、誓ってこれを学んでいこう。

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

=仏道はこれ以上ない尊い道だから、誓って修行し悟りを成就しよう。

 

という内容になります。このように内容・ご利益とも大変すばらしいお経なのですが、何せ六〇〇巻、六〇億四十万字もある膨大な量ですので、全部を一度に読むというのは不可能に近いと言えます。そこで、この大般若経六〇〇巻の精神をとって短いお経としたのが般若心経であり、般若心経一巻を読むことは大般若心経六〇〇巻を読むのと同じ功徳があるとされています。そのため短いお経とはいえ、おろそかにせず読むときも写経するときも、一字一句丁寧に心を込めて読み書きする心得が必要だとされています。

 弘法大師も「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」という解説書の中で、

 

「この故(ゆえ)に、誦持(じゅじ)・講供(こうぐ)すれば、則(すなわ)ち苦を抜き楽を与え、修習(しゅじゅう)・思惟(しゆい)すれば、則ち道(どう)を得、通(つう)を起す。」

=このように、もしそれを読んで、よく保ち、講説して、供養するならば、あらゆるものの苦しみを取り除いて、楽しみを与え、もしこの経典の教えを守り行い、思惟するならば、さとりを得るとともに、不思議な力すら身につけるであろう。

 

と、般若心経を読むご利益について述べておられます。実際に平安時代の弘仁九年(818年)当時(とき)の帝・嵯峨天皇は弘法大師のお勧めによって、疫病退散祈願のため、自ら『般若心経』を書写されました。この年、飢饉と疫病の流行で国内が大混乱に陥っていたのです。嵯峨天皇が写経を行われたところ、その霊験により疫病の流行がぴたりと止み、たちどころに多くの民衆が救われたと、弘法大師が自ら「般若心経秘鍵」に記録しておられます。

 もう30年以上昔の話ですが、テレビの企画で「本物のピラミッドの隣に10分の1スケールのミニチュアのピラミッドを一時的に建ててみて、昔はどのようなテクノロジーを使ったのか検証する」というものがありました。ところが実際にミニチュアのピラミッドを建てようとすると、事故とけが人があいついで工事がさっぱり進みません。しまいに番組のプロデューサーが毎日悪夢にうなされるようになってしまいました。これは現代まで続くファラオの祟りに違いないということになり、番組スタップが般若心経を心を込めて書写してミニチュアのピラミッドに納め、ファラオの霊に対して非礼をわびたところ、怪奇現象がぴたりとおさまり、無事にミニチュアのピラミッドが完成したのです。当時この番組が放映されるのを見て、事の東西を問わず、霊力のあるものは宗派宗旨に関係なく、きちんと通用するのだなと思った次第でありました。

合掌

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ともしび  

第十六号  

 

あなたも観音さま

 

  「十一面観音」とか、「三十三面観音」などといって、頭のところにたくさんの顔のついた観音さまのお姿を目にすることがあります。あれはどういう意味なのかご存じでしょうか。「観音経」を読みますと、

「観音さまは三十三の顔を持っておられる。そして仏教を説く相手に応じて、国王の姿になって法を説かれる場合もあり、僧侶の姿になられる場合もあり、男になって人を救うほうがよいときには男になられ、女がふさわしいときには女になられる。子供の姿となって私どもを救ってくださることもある。ありとあらゆる姿をとって、人間を救ってくださるのが観音さまである。」

ということが書いてあります。このお経の内容を仏像であらわしたものが、あのようなたくさんの顔を持つ観音さまのお姿なのです。

  もう一つ、観音さまついては忘れてはならないことがあります。それは、観音さまが「菩薩(ぼさつ)」と言われる仏さまであるということです。

「菩薩」とは、

「もうほとんど悟りを開いておられるのだが、仏さまにはならず、あえて人間にとどまっておられる方」

という意味があります。では、なぜ観音さまが人間のままでいらっしゃるのでしょうか。

  悟りを開いて仏になってしまった方は、一応この世からは姿を消されて、極楽に行かれることになっています。たとえば西の極楽におられる阿弥陀さまのようにです。ここで、俗世の私たちに困った問題がもちあがったとします。こんんな場合、どんな方になら救いを求めやすいでしょうか。私たちの身近におられる方ではないでしょうか。この世から姿を消された方よりは、観音さまのように人間世界にとどまっておられる方のほうが、救いを求めやすいでありましょう。このように、観音さまは私たちを少しでも救いやすいようにと、わざわざご自分の悟りまでなげうって、「菩薩」のままでいてくださるのです。

  もう一つ、大事なことを申しましょう。それは、私たちも一応は「菩薩」であるということです。というのも、「菩薩」とは、

「仏になろうとして修行している段階の人」

をさす言葉でもあるからです。もちろん観音さまと私たちとではそれこそ月とスッポンほどの違いがありましょう。しかし、かりに観音さまが

「99、9%が仏さまの心、0、1%が人間の心を持っておられる」

とします、それに対して私たちは、

「99、9%が人間の心、0、1%が仏さまの心を持つ」

としましょう。

仏と人間の心の比率はお話にならないくらい差があるとしても、観音さまも我々も、ともかくも、

「仏になろうとして修行している段階の人」であることだけは間違いがないのです。程度の差はあれ、私たち人間一人一人もやはり「菩薩」なのです。

  だとすれば、ひょっとして、あなたの夫が、あなたの妻は…。そう、「菩薩」つまり、あの観音さまの親戚だったのです。あなたの子供も観音さまの親戚ですし、あなたの隣にいる人も観音さまの親戚だったのです。そしてほかならぬ、あなた自身も観音さまの親戚なのです。

-あなたも観音さま、私も観音さま、みんなが観音さま-

このことが信じられるようになると、この世の中を見る目が変わってきます。  この世の中には、金持ちも貧乏人もおります。しかし、観音さまの親戚であることはかわりがありません。頭のいい観音さまの親戚もいれば、頭の悪い観音さまの親戚もおります。健康な親戚の人もいれば、病人の親戚もおります。しかし、観音さまの血族であることにはかわりがありません。仏教徒どうしの挨拶にはよく、お互いが合掌します。タイやビルマなどの仏教国の挨拶はこのようなものですが、これも

「あなたも菩薩、私も菩薩ですから、お互いに敬いあいましょう。」

という意味があるのです。

  そう考えると、表面的なことにこだわって、人を差別することの愚かさがわかってまいります。なるほど地位や身分の差を無視することはできませんが、私たちはしっかりと「みんなが観音さま」と信じて、すべての人を尊敬する心構えを持ちたいものですね。

合掌

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ともしび  

第十七号  

 

家庭について

 

 神道の神歌(しんか)に次のようなものがあります。

    親と子と  常にあらそい  にらみあい

     あいののしりて  家はみだれり

これは大変、どうしたら家の中がまるくおさまるのか、今月はそれを考えてみましょう。

  昔は「柱の傷はおととしの  五月五日の背くらべ」という歌がありましたが、最近では教科書からも消えてしまいました。賃貸マンションで背くらべの傷を柱につけたりすると、転居するときに損害を請求されるので禁止ですし、ひとりっ子も増えたので背くらべの相手もそれほどないわけです。お巡りさんとと先生と父親が怖かった時代がかつてあったのですが、今ではそんなことは想像もつかない世の中になりました。

  父親は朝早くから働いてストレスがいっぱい、心身ともに疲れ果てて帰宅します。これで息子や娘がちゃんと言うことを聞いて、肩の一つでももんでくれたら勇気百倍でありましょうが、かなりの確率で父親と子の間には、大きな世代間のギャップが横たわっております。最悪の場合、家庭に帰るほうがよっぽど疲れるということになりかねません。母親のほうはと申しますと、存在感がなくなってしまった父の代わりに子供を溺愛しがちになりますが、子供は成長しますから中学あたりから自我が目覚めてきます。例えて言いますと、ちょうど子供の頃は「ぬいぐるみのクマちゃん」みたいでかわいかったのに、数年すると「一人前のヒグマちゃん」になってしまうようなもので、反抗はするわ力は強いわで、手に負えなくなることが多々あります。家庭内でいびつなところがあると、このように子供の非行という形で噴火してきます。

  子供の非行がなぜこのように増えたか、世間ではいろいろ言われておりますが、次の点を忘れてはならないでしょう。それは、

「二の次でいいことばかり大事にして、本当に大事なことをほったらかしにしたから」

ということです。

  「二の次でいいこと」とは『金』と『ひま』です。非行があまりなかった時代のことを思い起してみましょう。この金とひまの二つはなかなか親の手に入りませんでした。日本全体からして貧しかった時代ですから一家あたりの収入も少なく、お父さんが朝から晩まで一生懸命に働いてもなかなかお金は残りません。小遣いなどの余裕もあるわけがなく、田んぼやら内職やら、子供が本当に小さいときからともに親子は家庭で働くことになります。お母さんの方も昔は大変でした。自動洗濯機も電子レンジもありませんから、一家の洗濯や炊事や掃除で一日はつぶれてしまいます。昔は女の子に子守や料理を手伝わせなければ暮らしていけませんでした。そのころは金とひまこそありませんでしたが、親子の心のつながりは自然にでき、労働のつらさも自然と教えられたわけです。

  ところが今や、子供が目にする親の姿はどうでしょう。父の働く姿を子供が見る場面は本当に少なくなりました。休日はテレビを見てるか、寝てるのかの姿しかなく、それはそれで父親としては精一杯の休息なのですが、子供の目には「いてもいなくてもいい存在が父」というように映りかねません。かわりに母親が子供に対してガミガミ言うことによくなりますが、それは小言に過ぎず、しつけになっていないことが多々あります。

  そして、「一番大切なこと」がなかなか教えられません。それは、「しつけ、道徳、神仏を敬う心」などです。昔は、

「誰が見ていなくても、悪いことをしてはいけない。神仏は何でもお見通しだから。」

などといった調子で、「目に見えない存在を敬う心」を教わりました。ところが現在では、自分自身がどう生きていくかについて考えたことがない人が増えてしまっており、子供にもきちんと生き方を説明できないケースが多いようです。私は相当昔、中学校に勤務しておりましたが、授業を抜け出す生徒が結構おりました。保護者の方に連絡しますと、よく次のような会話になってしまいます。

親「授業をぬけだしたらいかんじゃないか」

子「それのどこが悪い。そんなこと法律に書いてあるのか。他の連中に迷惑をかけているわけでもないだろう。」

確かにそうです。理屈だけで言えば明らかに子供の勝ちでありまして、実際に保護者の方はみなそこで絶句、どうしようもないと、さじを投げるしかありませんでした。

 なぜこうなってしまうのかと言うと、「しつけ、道徳、神仏を敬う心」という観点がすっぽり抜け落ちてしまっているからです。残念ながら親の方々にもこれが抜けている人が皆無とは言えず、現在では祖父・祖母にあたる年代層の方までそうなってしまっているケースさえあります。実際、お葬式の最中にお年寄りたちが勝手に私語をしだして、うるさくて葬式の読経が出来ないということすらあります。親にとって「子はわが姿」なのでしょう。虎は死んで皮を残します。偉人は死んで名を残します。それならわれわれ凡人はわが子に、

「目には見えないけれど、尊ばなければならないものがある、それを敬う心を持て」

ということくらいしか残せないでありましょう。こればかりは確実に次の代に順送りになりますので、信心を持ってきちんと生きて生きたいものです。        合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院

 

 

ともしび  

第十八号  

 

朱に交われば赤くなる

 

  お釈迦さまが弟子のア-ナンダを連れて歩いていたとき、魚屋の前でふと足をとめて、

「あの落ちている縄きれを拾っておいで」

と言われたことがあります。ア-ナンダが拾ってくると、

「しばらくその縄をにぎっていなさい」とのこと。

  ややあってその縄を捨てさせ、縄を握った手のにおいをかぐように言われました。ア-ナンダが

「なまぐさいにおいがします。」と言うと、

「そうだ。なまぐさい魚をゆわえれば、そのにおいは縄にうつり、その縄をつかめば手までなまぐさくなってしまう。人間のつきあいも同じだ。つきあう相手の影響ははかりしれず、それがその人間をよくもすれば、悪くもする。だから私たちも交わるものによく注意しなければならない。」

  仲間のつきあいも同様で、悪友とばかりつきあっていれば自然とおかしくなってきますし、善友に近づけばいつかはその感化を受けて自分までもよくなってくると言います。しかし、なんといっても一番大切なのは自分自身の心がけで、自分がどんな態度をとるかによって、近づいてくる友もおのずから決まってしまいます。よくお母さんたちがこぼす言葉に、

「うちの子は悪くないのに、友達が悪いから**ちゃんも影響されるのよ。」というのがありますが、あれは実は順序が逆なのです。ろくでもない友人にしか相手にされないその子に一番の問題がありまして、責任はほかに転嫁できません。その証拠に、当の子供が心をいれかえてまともになると、見ている間に悪友とは自然とつながりが切れてしまい、まじめないい子がたくさん友人になってくれます。

  人に好かれるタイプには次のような条件があげられましょう。

誠実である、明るい、しゃきしゃきしている、謙虚である、頭の回転が速い、聞きじょうず、礼儀正しい、よく働く、気さくである、ユ-モアがある、あたたかい、思いやりがある、などなど

  反対に人に嫌われるタイプには、

いいかっこしい、陰気、鈍感、横柄である、すぐ自慢をする、疑い深い、けち、見栄っぱり、冷たく打算的、腹が黒い、だらしない、頑固、いやらしい

などがあげられましょう。人に好かれたければ前者をのばし、後者をひかえればよいわけです。

  ただ、利害関係でつながる友や酒の上での友人はたやすくできるものですが、いざという時に心から頼れる友はなかなかおりません。昔のことわざにも

「順境は友を作り、逆境は友を試みる」

というのがありますが、大抵は友達でさえいざというときになると、尻をまくってこそこそ逃げ出してしまうものです。お互いに利用価値があるうちは親友らしくふるまうものですが、それがなくなると自然と離れてしまうなどといったぐあいで、親友を得ることは至難のわざです。親友となるべき人がこの世に全然いないわけではないでしょうが、せいぜい一生に一、二人がいいところではないでしょうか。

  もし、友に裏切られてばかりの人がいたら、いっそ神仏にそれを求めたらいかがでしょう。神仏は決して私たちを裏切りません。常にあたたかく、時には厳しく見守ってくださいます。信仰の道に精進すると、自分はひとりぼっちだったのではなく、神仏の御加護をいただいて今まで生かしていただいていたのだということがわかってまいります。とんちの一休さんにも

「我のみか  釈迦も達磨(だるま)も  阿羅漢(あらかん-修行をつんだ僧侶のこと)も  この君ゆえに  身をやつしけり」

という歌があります。簡単に内容を言えば、

「お釈迦さまも達磨禅師(だるまぜんし)も、みな自分のために存在してくださっていたのがわかった」

という内容であります。

  このように神仏を心のよりどころとし、わが友とすれば、この世に一人も親友ができなくても別に寂しい思いをする必要はありません。いつでも、どこでも、誰にでもゆとりのある心で接することができましょう。それも、神仏のうしろだてによって安心して世の中を渡っていけるからであります。

        合掌

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ともしび  

第十九号 

 

言い訳ばかりの人に

 

夫  「君、たまには早く起きたらどうか。」

妻  「だってさ、夜が遅いんだもの。朝くらいゆっくり寝させてよ。」

夫  「早く朝のしたくをしないと、子供が学校に遅れるじゃないか。」

妻  「だってさ、そんなに早くしたくができるわけがないじゃない。」

夫  「そんなことないだろう。」

妻  「でも、そんなにせかされたんじゃ、たまらないわ。」

  どうも、「だって」「だが」「しかし」などの言葉が連発されるのがここのところの風潮でありまして、相手の意見に反発しなければ、会話が成立しないことが多いようです。このことは男性でも同じで

「とにかく相手にひとこと言わねば損だ」

とばかりに、がんばる人がおります。「はい」とか「そうですね」といった言葉が素直に出ると生き方はすごく楽になるのですが、こういう人は何か言わないと人間としての「こけん」にかかわるとでも思っているのかもしれません。

  理屈と膏薬(こうやく)はどこにでもつくもので、いくら言い訳や理屈をこねまわしたところで、事態は一向によくならないのです。問題なのは、「言うこと」ではなく「やること」なのでありましょう。現代人はとかく仕事の出来不出来よりも、

「自分の言い分が聞いてもらえるかどうか」

に重点をおき、聞いてもらえなければ仕事にやる気がおきないようです。そして、こういう理屈屋の人に限って大した仕事をしないもので、その一方で言い訳ばかりするのだからなかなか大変なことになります。よく、

「おれは、自分で納得した場合はものすごくがんばるんだ。しかし、ちょっと納得できないということがあった場合には、なんにもやってやらない」

と言う人がよくおられますが、こういう人は基本的に、一人前の仕事ができません。実際のところは口で偉そうなことを言うだけで、「さぼりたい」ための言い訳に過ぎないというのが本当のところだったりします。

  お釈迦さまが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられたときのことです。マ-ルンキャプッタという理屈屋の人が、次のような質問をしました。

「世界は永久に存在するのでしょうか。それとも限りがあるのでしょうか。また、世界には果てがあるのでしょうか、それとも無限に続いているのでしょうか。この質問に対して納得できる答えがもらえない限り、仏教を信じません」

  これに対してお釈迦さまは、静かに答えました。

「マ-ルンキャプッタよ、もしここに一人の男がいて、毒矢で射られて苦しんでいたとする。家族が医者を呼び、医者が矢を抜こうとする。その時男は、

  『いや、矢を抜いてはいかん。その前に納得できる説明がほしい。この矢は誰が放ったものか、弓矢は何でできているか、それを作ったものは誰か、これらのことを知らせてもらってからでないと、矢を抜いてもらうのはいやだ。』 

と言ったとする。答えてもらう前に男の体には毒が回って死んでしまうだろう。お前の質問もこれと同じだ。頭でばかり考えているうちにお前は年をとって死んでしまうだろう。大切なことは仏の教えに耳を傾けて、人生の苦しみを解決することだ。」

 なかなか耳の痛い話です。当寺院には精神を病んでいる人がたくさん相談にいらっしゃいますが、こういう人はまず例外なく、この「へ理屈ばかりのぐるぐる病」の悪循環サイクルに陥っておられます。そのため、いくら説教をしても時間の無駄になりかねません。私が何か言っても

「だって」か「でも」、または、

「これさえ解決すれば楽になるのに、ぜんぜん解決しない。私は本当に不幸」

の繰り返しばかりによくなってしまいます。こういう場合、一番手っ取り早いのが「作務(さむ)」をしていただくことです。何のことはない、要するに掃除をしていただくだけです。これが意外に効果があります。というのも、

  京都の有名なお坊さんが弟子をつれて、庭を散歩していたときの話です。風が強い日で、しきりと庭木から葉が落ちます。和尚は歩きながら一枚一枚拾ってたもとに入れております。これを見た弟子が、

「和尚、おやめなさい。今に掃きますから。」

これを聞いた師匠は大声で、

「ばかもん!今に掃きますで美しくなるか。一枚拾えば一枚だけ美しくなる。」

  確かにそうです。「一枚拾えば一枚だけ美しくなる。」の積み重ねが大切なのですね。人生も同じ。へ理屈を言っている時間があれば、掃除の一つでもすればプラスにこそなれ、損には絶対なりません。「要はまず実行」を心がけたいものです。

        合掌

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ともしび 

第二十号  

 

何を基準にして生きるのか

 

  戦後、日本では多くの権威が失墜(しっつい)しました。おかげでお国のために玉砕(ぎょくさい)するような心配もなくなりましたし、天皇さんのことを悪く言っても引っ張られることもありません。昔怖かったものとしてあげられていた「地震、雷、火事、親父」の3つのうちから、「親父」はすっぽりと抜け落ちてしまいました。亭主族は家にいても邪魔になるだけという、まことに気の毒な存在になりつつあります。お巡りさんも昔は怖いものとされていましたが、今や言動に気をつけないとすぐ人権問題とやらに発展するので、昨今のお巡りさんは大変な目にあわれるようになってしまいました。私は教師をしておりますが、これは最も権威が落ちたものの一つでありまして、ずいぶん昔は、

「三尺(さんじゃく)下がって師の影を踏まず」

などといって先生を尊んだものだそうですが、最近の風潮はむしろ、

「三尺飛び上がって師の頭をけっとばす」

となりまして、なかなか受難の職種となってしまっております。

  多くの権威が失墜してしまうと、要するに価値判断の基準がぐらぐらしてくるわけです。そのため、一つ間違うと正直者が馬鹿を見てしまい、お互いが相手を信用できないということにもなりかねません。遠慮深く、慎み深く生きるよりも、自分勝手に生きるほうが一見したところでは都合がよく思えてきます。非常に単純な利己主義でありまして、要するに

「自分だけ得をしたい」

「自分だけ楽をしたい」

「自分だけ格好よくしたい」

という気持ちです。人のおもわくなど気にしてはいられなくなってしまいます。自分の気に入ったものだけを取り入れ、都合のよい相手は「よい人だ」とほめちぎり、ちょっとでも気に入らないと「あいつは悪人だ」と決めつけたりしてしまいます。

  最近のインターネットでのやり取りなどはこの傾向が強く、また自己責任の時代といって勝ち組、負け組がはっきり言われるようになってきました。「エゴイズムの競争」に負ける人が当然出るわけで。そういう人が「負け犬」であり、「人生の敗北者」でもあるわけです。こんな社会で生きていくのは本当に大変です。

  そして毎日が戦争とも言えます。出勤や通学に際しては少しでも早く目的地に着かねばなりません。受験戦争では隣の子や、知り合いの子よりも少しでもよい学校に入らなければなりません。出世の戦争でも常に相手を蹴落とさねばならないのでは、気の休ま暇がないでしょう。家庭でも毎日が戦いということになりかねません。

   仏典には「修羅(しゅら)の世界」というものが書いてあります。修羅は戦うのが何より好きで、毎日この世界ではつきることのない争いが繰り広げられているのだそうですが、下手をすると私たちの生活がこのようになってしまいます。

戦前とか戦後すぐくらいですと、

「周囲の目を気にする雰囲気」

「おてんとうさまに申しわけがたたない、というような考え方」

などが地域にありましたので、それなりに自制がききましたが、今ではそのようなものはほとんど残っていません。となると、宗教の果たす役割は重大であると言えるでしょう。

というのも、欧米ではキリスト教が精神的な柱としてしっかり残っております、そのため自然と、

「悪いことは悪い。神の教えに背く。」

という絶対的な判断の基準があります。ところが今の日本の基準は、どう考えてもこの点があいまいです。憲法の精神に反するとか道徳に照らし合わせてどうだとかは言えますが、判断基準としてかなり弱いものがあります。下手をすると、

「得になるかどうか、もうかるかどうか」

が判断基準になってしまいます。精神的な柱をしっかりさせないとお互いが不幸になるだけではないでしょうか。となると、お互いがみ仏の教えに耳を傾ける必要が出てまいります。「相手のことを考える」ということをまずやらねば、一瞬も気の抜けない阿修羅世界状態からは脱出できそうにないのです。私たち日本人は、

「自由」と「言いたい放題」

「権利」と「わがまま」

の区別について、しっかり考えるべきではないでしょうか。大切なのは自分の節度をわきまえ、分にしたがって恥を知ることですが、道徳や憲法では判断基準としてもう一つ説得力がありません。ここはやはり、神仏の教えに耳を傾け、経済や時代がいくら変わっても揺るがない判断基準を持ちたいものです。

        合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

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