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第百十号  

弘法大師伝 その11

 先月は付法(ふほう)の八祖(はっそ)の紹介をしました。お坊さんの名前がいっぱい出てきましたので説明をしておきましょう。実は大日如来と金剛薩?は仏様なので、「真言の教えを伝えた人」で数え直して八人とする数え方があります。 伝持(でんじ)の八祖'はっそ)というのですが、大日如来と金剛薩?のお二人をのぞき、代わりに二人の祖師が入ったものです。
第一祖・龍猛菩薩 (りゅうみょうぼさつ): 大日如来の直弟子の金剛薩?から密教経典を授かり、世に伝えたといわれています。
第二祖・龍智菩薩(りゅうちぼさつ) : 龍猛菩薩から密教を授かられました。
第三祖・金剛智三蔵 (こんごうちさんぞう): インドで龍智菩薩から密教を学んだのち唐へ渡り、『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』をお伝えになりました。
第四祖・不空三蔵 (ふくうさんぞう): 西域生まれ。貿易商の叔父に連れられて唐へ行かれ、長安で金剛智三蔵に入門されました。『金剛頂経』を漢語に翻訳されました。
第五祖・善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう : インド生まれ。大乗仏教を学び、さらに密教を受け継がれました。80歳になって唐に渡り『大日経』をお伝えになりました。。
第六祖・一行禅師(いちぎょうぜんじ): 中国生まれ。長安で善無畏三蔵に入門され、『大日経疏(だいにちきょうしょ)』を完成させられました。
第七祖・恵果阿闍梨(けいかあじゃり) : 中国生まれ。金剛界・胎蔵界両部の密教を受け継ぎ、両者を融合して完全に完成させられました。
第八祖・弘法大師 : 恵果阿闍梨から金剛・胎蔵界両部を授けられ、日本に伝えて真言密教を開かれました。
 醍醐天皇から勅命がくだったのは延喜二十一年(九二一)十月二十二日のことで、帝より弘法大師の号と檜皮(ひわだ)色の衣がおくられました。観賢(かんけん)僧正は当時、高野山の座主(ざす)の地位にありました。僧正が「弘法大師の号」を帝より頂戴したことを報告し「御衣」を捧げ、弟子の淳祐(じゅんゆう・菅原道真の孫)を連れて、奥の院御廟の開かずの扉をあけ石室に入りました。
 しかし、石室の中は霧がたちこめ、一寸先も見えませんでした。観賢僧正は、これは自分の「罪とが」が深いためにお大師様のお姿が見えないのだと思い、地に伏して心から懺悔(ざんげ)し、一心に祈ると霧がはれ、あたかも濃霧の中から月が現れるようにお大師様がうかびあがり、そのお姿が拝めるようになったと言います。その時、お大師様の毛髪と髭(ひげ)が伸びていたので、剃刀(かみそり)で髪を剃(そ)り、御衣をお着せしました。
しかし、修業不足の弟子の淳祐には、一面の闇のほかには何も見えなかったので、観賢僧正が淳祐の手を取ってお大師様の膝に触れさせたところ、淳祐の手に、お大師様の移り香が染みこみ、生涯その香りが消えませんでした。これ以来、淳祐は「匂いの僧正」と呼ばれるようになりました。
 観賢僧正が御廟(ごびょう)から、玉川(たまがわ)の御廟橋(ごびょうばし)まで歩みを運びますと、背後からお大師様がお見送りされていることに気づきました。思わず僧正が「南無大師遍照金剛」と御宝号をお唱えすると、お大師様は、「われ汝(なんじ)の仏性を送るなり。(私はあなたの中にある仏の心を見送るのだ)」と言われ、お互いに合掌されお別れになったといわれています。
現在でも奥の院にお参りした者は、玉川を越えて橋を渡り終わると、振り返って御廟に向かって合掌し、一礼したのち立ち去るのが決まりになっていますが、これはその時の出来事がもとになってできた習慣です。
現在でも天皇陛下から衣を賜ることは続いており、毎年三月二十一日には、御衣料の御下賜(おんかし)をうけて「御衣替(おころもがえ)」の儀式が行われております。お大師様は一年間お召しになった檜皮色の衣は小さく裁断され、一般人であっても求めることができます。もっとも、大人気なのですぐになくなってしまいます。
この話からわかるのは、お大師様との出会いはひとそれぞれの縁によるものだということです。観賢僧正は幸運にしてお姿を廃することができましたが、お弟子さんはそれがかないませんでした。しかし、だからといってお大師様のおかげをいただけなかったというわけではありません。観賢僧正を見送りに来られた時にお大師様がおっしゃったように、誰しも仏の心、仏性を持っており、お大師様はそれを拝んでくださるのです。相互礼拝、相互供養とはまさにこのことで、一人一人にいたるまで救ってくださろうとする宗祖をいただく私たちは、誠に恵まれたご縁のもとにあるのだということを自覚しなければなりません。南無大師遍昭金剛の御宝号をお唱えする声は、必ず奥の院のお大師の元に届きます。お大師様のご恩に感謝する日々を送らねばなりません。


第百十二号  

歩く宗教

 宗教の類型には、座る宗教、拝む宗教、そして歩く宗教があると言います。座る宗教としては禅宗の座禅が代表的なものでしょう。拝む宗教の典型は真言宗で、加持祈祷の總本家ですが、真言宗も禅宗も「歩く宗教」を兼ねています。托鉢行がそれで、家々回りながらお経や御詠歌をあげて、浄米や浄財を頂いて回ります。浄財を差し出される時に、よく「むき出しで失礼ですが。」とおっしゃいますが、これは誤解で、実際には托鉢で回る人に自分の災難や不運を持って帰ってもらうのが第一の目的であり、それが途中でこぼれ落ちたりしないように紙で包むのです。集められた災難は仏様のところで浄化され、集めて回った者は他の人が幸福になるお手伝いをするのと、自分の災難もごっそり持っていってもらえますから、とてもよい厄落としになります。托鉢は寒い時期に行われることが多く、寒修行ともいいますが、誰でも気軽に参加できてとてもご利益がいただけるので、当院の寒修行は非常に人気があります。真言宗では四国のお遍路もよく知られており、これなどはまさに歩く宗教といえるものです。
「歩」という字を分解しますと、「止まることが少ない」という意味になります。学問が止まってしまうと衰退しますし、じっと動かずに飲み食いばかりしていると、あっという間に太ってしまって健康面でも不安が増大します。生物の細胞も新陳代謝を繰り返して生命を維持していますので、止まらずに歩き続けるという点では生き物としての理にかなっているのだと思います。
今昔物語に、讃岐の国(今の香川県)に五位(ごい)という乱暴者がいたという話が残っています。ある日、五位は猟に出ますが、その帰りにあるところでお坊さんの説教があると聞きつけました。いったいどんな話がされているのだろうということで、五位はづかづかと会場に押し入ったのです。有名な乱暴者がやってきたということで、驚いた聴衆はかなりの数が席を立ちました。でも、実は一番驚いたのは説教をしていたお坊さんで、有名な極悪非道の男の出現に肝をつぶしましたが、お説教を途中でやめるわけにもいかず、「西方に浄土あり。」と話を続けました。すると五位が話の途中で口をはさみ、
「たしかに西の方に阿弥陀さんはおられるのか、」
「おられます。」
「では、どうすればその阿弥陀さんに会うことができるのか。」
「仏弟子になることでございます。」
そう言われた五位は何を思ったのか、その場で髪の毛を切り落として頭を丸め、手下の悪党どもに別れをつげ、首から叩きがねをつるし、そのかねを叩きながら、
「阿弥陀仏おーい。」「阿弥陀仏おーい。」
と言いながら、まっすぐに西の方をめがけて歩き始めたのです。
文字通り野を越え山を越え、西をめざして五位はどんどん歩き続けます。夜になってある寺に立ち寄り、少しご飯を分けてもらいましたが、そのまま立ち去って西へ西へと歩いて行きます。泊まっていったらどうだとすすめてもそれを断って歩き続けるので、気になったその寺の住職が、後日あとを追いかけていくと、五位は海岸に至り、そこに生えている一本の木によじ登って、相も変わらずかねを叩いて、
「阿弥陀仏おーい。」「阿弥陀仏おーい。」
と西の海めがけて叫び続けています。住職が耳を澄ますと、海の向こうから
「おーい。」「おーい。」
と、確かに誰かが返答をする声が聞こえます。これは本当に阿弥陀仏の声ではないかとびっくりした住職は、五位に持ってきた食料をあげようとしますが、五位はそれも断り、「七日後に再びこの地に来てくれ。」と頼みます。約束通り七日目に来てみると、五位はすでに樹上で息絶えていたのです。ところが、阿弥陀さんを叫び続けた口からは、一本の蓮の花が生えていました。乱暴者で知られた男が、見事に極楽往生したのを知り、あまりの尊さに住職は涙をこぼしたと言います。
よいことと分かっていても、我々はなかなか実行に移せません。五位という男は極悪非道を重ねましたが、阿弥陀さんの話を聞いたら、とたんに実行に移し、言われた通りに西へ西へとひたすら歩き続けます。まさに歩く宗教です。この行いが阿弥陀仏に認められて極楽に行くことができたわけで、托鉢や寒修行で歩く時には、ぜひ覚えておきたい話です。


第百十三号 

醒睡笑の話

  醒睡笑(せいすいしょう)という本があります。戦国時代にできた本で、著者は安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)という、浄土宗のお坊さんです。この人はとてもお説教が上手で、現在の広島県に布教に行き、廃墟となっていたお寺を十年くらいの間に七つも復興するということをやっています。策伝のすごいところは、布教の中に笑い話を取り入れ、しかもそれを自ら実演したところです。そういうわけでこの人は、落語の元祖と言われています。
醒睡笑の中には落語のネタとして有名なものがあります。「『たいらばやし』か『ひらりん』か」という話は、私も落語として聞いたことがあります。ある人が
「これを平林(ひらばやし)さんのところに届けてくれ。」
と言われておつかいに出かけたものの、届け先の人の漢字の読み方を忘れてしまいました。仕方がないので通る人に「平林」の読み方を聞いたところ、
「『たいらばやし』でしょう。」
と言われたので、「たいらばやしさんのお宅はどこですか。」と聞くものの、「そんな人住んでないよ。」と言われ、次の通行人に聞いたら、
「そりゃ『ひらりん』だ。」
と言われ、あたりを探しても見当たらず、次々に聞いていっても
「ひょうりん」「へいりん」、
しまいには、
「それはな、『一八十のぼっくぼく』と読むんだ。」、
「いや、『一つ八つのとっきっき』だ。」
などと、どんどんムチャクチャになっていき、お使いの人は半泣きで
「『たいらばやし』か『ひらりん』か、『一八十のぼっくぼく』、『一つ八つのとっきっき』」
とやけくそで歌いまくるのですが、肝心の「ひらばやし」と読んだ者が一人もおらず、「なぜそれだけ外す?」とツッコミを入れながらゲラゲラ笑いつつ、人の言うことを鵜呑(うの)みにして自分できちんと考えないとえらい目にあうぞという教訓話にもきちんとなっているという優れものです。この醒睡笑という本にはかなりお世話になりまして、高校生の最初の学習としては話が分かりやすくて面白く、古典の参考書を書くときに収録させてもらいました。私が選んだ話は次のようなものです。
 あるお寺に小僧さんがおりましたが、夜に空に向かってほうきを振り回しています。和尚さんが、
「一体何をやっているんだ。」
と問うので、小僧さんは、
「空の星が取りたいのに、ほうきを振り回しても届きません。」
和尚さんは、、
「ばかだなあお前は。そんなことをして届くものか。屋根へ上がれ。」
まるっきり落語の展開そのままで、実際に落語のマクラに使われていたのを聞いたこともあります。策伝さんはこの話の最後に「師匠の指南ありがたし」と書いてしめくくりにしています。「お師匠の指導はありがたいものだ。」という意味ですが、もちろんこれはシャレというか皮肉で、弟子がバカなら師匠もまたバカであるというまとめになっています。もっとも、これは本来お説教の本ですから、師匠だと言って威張っていても、人間の浅知恵など所詮はこんなものである。本当に知恵があると言えるのは仏様だけだから、みな心して仏様の教えを学びなさい、という展開になったのは間違いないです。めちゃくちゃ優秀な説法になっています。
この話を収録した参考書が発売されたところ、分かりやすくて面白いと非常に評判がよく、個人的にも醒睡笑には大変お世話になりました。醒睡笑という題名は「笑って眠りから醒める」という意味ですが、その眠りとは、本当の教えを知らず寝眠りこけている私たち愚かな凡夫(ぼんぷ)のことであるのは間違いありません。その私たちの愚かな眠りを覚まして、ゲラゲラ笑わせながら、仏様の本当の教えはこんなものだよと教えてくれる本が醒睡笑です。誰も傷つけず不快にせず、楽しく本当の教えが学べるのですからヒットしたのは当然で、そりゃあ十年の間に七つも寺が再興できたはずだと納得してしまいます。この「ともしび」も非常に似た傾向があって、読みやすく具体的で明るいお話が大好きです。策伝は何百年も前の人ですが、時代がいくら変わろうが面白いものは面白く、真実をついているものはついているのです。本当の教えがすたれることは、たぶん今後もないでしょう。時代がいくら変わろうとも真理は一つであり、本物はどのような時代が来ようとも評価されるのだと思います。


第百十四号  

説法をしない寺は寺ではない

  当院では非常にお説教に力を入れています。毎月発行される「ともしび」をもとに、ご命日には必ず法話があります。法要と法話が目的でお参りされる方も多く、当院の法話はすっかり名物になった感がありますが、これは私の代から始まったもので、その前は当院には法話の習慣は全くありませんでした。これは当院に限ったことではなく、真言宗や天台宗で法話に力を入れているところはあまりありません。これは両宗が平安時代の創設で、その頃は法要の時に仏様に対して読み上げる文章、専門的には「表白文(ひょうはくもん)」というのですが、その中に神仏に祈願する内容や、正しい信仰のあり方などを書いて読み上げるやり方が普通だったためです。ところが、何しろ千二百年も前にできた宗派のため、現在ではその文章を聞いても、残念ながら何のことを言っているのかさっぱりわかりません。
真言宗の住職が亡くなった場合、本山である高野山からおくやみの文章、いわゆる弔電が送られてくるのですが、その文面を見てびっくり、聞いたことのない言葉のオンパレードで、さらに、見たこともない漢字ばかりなのです。たぶん、特別の外字フォントを入れて打ち出しているのでしょう、まるで中国語の文章のようで、ふりがなも全く打っていないので、読み方すら分かりません。なんでも、住職が亡くなったら必ずこの文章を打つことになっているのだそうで、たぶん本山が開山されて以来、基本的に同じようなことを続けてきたものと思われます。とはいえ、何せ言葉使いが千二百年も前のものなので、もらってもうれしいのかうれしくないのか、そもそもこれが何なのかすらわかりませんでした。現代に、さすがにこれではまずいだろうと思ったものです。
鎌倉時代に始まった宗派は、さすがにこの点は改善しようとしたようで、聴衆を前にして分かりやすい演説形式で教えを説く方法が主流になりました。一番効果的に演説をやっていたのは日蓮上人です。南無妙法蓮華経の「のぼり」を立てて辻説法を行った日蓮上人は、他宗派を猛烈に攻撃したので反感を買い、ずいぶんな目にもあいましたが、教えの分かりやすさという点では人々をひきつけ、大きな勢力を作ることになりました。
現在、説法に一番力を入れているのは浄土真宗と言ってよいと思います。この宗派はご祈祷を行いませんので、教化活動は基本的にお説教を通して行います。門徒さんも熱心な人は、野を越え山を越えてお説教を聞きに出かけられます。真言宗もこの姿勢を大いに見習うべきではないかというのが私の考えです。当院で非常にお説教に力を入れているのは、前述のように日蓮宗と浄土真宗に学んだからですが、きっかけとなったのは次のようなことがあったからです。
 ちょうどバブルの頃のことですが、ある奥さんがおばあちゃんと一緒にお参りされました。奥さんがご祈祷を頼まれたのですが、その内容がよりによって、
「家でおばあさんを見ていると、腰は曲がっているし身なりは汚いし、おばあさんが早く死んでくれるように拝んでもらえないか。」
というものでした。私は一瞬何のことか分からず、ことの次第が分かってくると、次には猛烈に腹が立って、ぶん殴ってやろうかと思ったのですが、仏様の前でご婦人をぶっ飛ばすわけにもいかず、
「分かりました。」
と言ってずいぶん長いことお経をあげて真剣に祈り、奥さんに向かって、
「おばあさんが今後、何十年も長生きするようにしっかり拝んでおきました。」
と言いました。とてもいい気分でした。それ以来奥さんは二度とうちの寺に顔を見せていませんが、そのあとしみじみと思ったのは、
「今日はあの奥さんに腹を立てたが、考えてみれば私たち坊主にも責任があるのではないだろうか。言われるままに祈祷をしているだけでは、頼む方も、頼んでいいことと頼んではいけないことの区別がなくってきてしまっているのではないか。困ったことがあったら、何でも拝んでもらえば叶うと思ってしまうのは、我々坊主の教化活動が十分でないからだ。人の道をきちんと説かないから、人を救うための宗教が、人間の欲望をただ膨張させるだけの存在になってしまっているのではないか。」
ということです。罰当たりそのものの奥さんの言動でしたが、そんな奥さんを生み出したのは、我々坊主の怠慢によるものだと思い至ったのです。
受験などもすごくわかりやすい例です。別の寺で「お大師様を一生懸命拝んだら必ず医学部に入れる。」と言われて、「四国のお遍路までしたのに医学部に入れなかった」という学生が悩みの相談に来ました。私は彼に対して、
「あなたね、お遍路なんかしている暇があったら勉強しなさい。そんなことやっているから合格しないのだ。真面目に勉強している受験生の努力を冒涜(ぼうとく)するのか。」
と言いました。そのお寺もお説教をすることは全くなく、信者さんに言われたらそれに対してただ拝むだけだそうです。密教寺院の典型的なパターンなのですが、これではいけません。宗教ではなく「単なる拝み屋さん」になってしまっています。説法をしなければ、それはもう宗教とも寺とも言えないのではないかと思います。


第百十五号 

心の病

  戦後しばらくたった頃、植木等(うえきひとし)というコメディアンがおりました。この人のキャッチフレーズは「日本一の無責任男」というもので、主演映画がかなりヒットしました。その映画の主題歌の一節に、
「サラリーマンは、気楽な家業ときたもんだ。」
というのがあります。朝八時過ぎに出社して、夕方五時まで適当に過ごしていれば給料がもらえる気楽な仕事がサラリーマンだというのです。耳を疑うようなとんでもない歌詞ですが、当時は本当のことでした。年功序列の給与体系でしたから、仕事ができようがさぼっていようが結果は同じ、それなら調子よくサボってしまえというのは、ある意味筋が通った生き方です。
現在にこんなことをやったら一発でクビになってしまうので、昔は恵まれていたと言えるかもしれません。ただ、当時を知る人にそのあたりの事情を聞いたら、昔は農作業に従事する人が圧倒的で、毎日泥まみれの過酷な肉体労働におわれており、サラリーマンの人がいると、
「あの家のご主人は背広を着て会社に行っている。うらやましい。」
と言われ、羨望(せんぼう)のまなざしで見られていたそうです。つまり、「気楽なサラリーマン」になるには相応の教育を受けて入試や入社試験に合格する必要があり、当時の選ばれたエリートだけの特権があの歌の歌詞なのでした。いわば当時の「勝ち組」が人生を謳歌(おうか)していたのです。
時代は変わり、ほとんどの人が会社に勤めることになり、過酷な農作業はそのまま、過酷な会社の仕事にスライドしました。工場勤めや建設、土木分野などですと、過酷な肉体労働の負担がのしかかりますが、かなりの業種はサービス産業に移行したので、過酷なのは主に精神的なストレスということになります。現在心を病む人が非常に増えたのはこのためです。
では、このような時代に我々はどう対処すればいいのでしょうか。答は意外に簡単で、正しい考え方をし、正しく生きればよいのです。当院にはかなりの数の人生相談が寄せられますが、心を病む人の特徴は、絶対無理なことをしようとして悩み苦しむという点です。非常によくある相談で、主人や子供が思い通りにならないが、どうしたらいいのだろうというものがあります。これは最初から無理な話です。ペットとして猫を飼ってみるとよくわかりますが、連中はわがままで自分勝手もいいところで、自分が気に入ったことしかやりません。猫をしつけられるのはトイレのしつけが限界で、芸をしこむのは不可能と言っていいです。これは言ってみれば生物として自然な姿でありまして、猫からしたら、
「どうしてそう、俺の困ることばかりお前はするんだ。」
と人間に言われても、
「知ったことじゃないニャ。僕の人生、お前の言う通りになってたまるかニャ。」
と言い返されるのは確実です。考えてみればお互い別の生物なのですから、相手の思う通りに生き方を変えなければならない道理などどこにもないのです。相手を変えよう変えようと必死になる前に、まずは自分を変えるべきです。人間関係のトラブルの場合、一方が極悪人で一方が善人ということはまずありません。両方が同等に問題を抱えています。こちら方と先方で、足してマイナス10のトラブルがあった場合、相手が悪い、どうしてお前はこちらの気持ちがわからないんだと言って攻撃すると、先方は猛反撃に出ます。なぜかというと、当方の欠点と落ち度をそのままにして攻撃するので、相手は態度をますます硬化させ、マイナス20から30の大変な争いに突入します。
それに対して、「当方も悪かった」と素直に認めて、こちら側の持ち点をマイナス5から、プラス5にして交渉すると、先方がマイナス5のままでもプラスマイナスで総量はゼロとなり、はじめて関係が改善されます。普通は自分の持ち点には目もくれず、相手のマイナス5点ばかり攻撃するので、不毛な戦いが続き、精神をやってしまうのです。相手の気持ちを変えられるのは、よほど優れた芸術センスがあって相手を感動させられるとか、お釈迦様のように偉大な宗教人に限られます。浄土真宗のお坊さんがよく、
「我々はみな、煩悩(ぼんのう)にとらわれた凡夫(ぼんふ・ぼんぷ=平凡で愚かな者のこと)なのです。」
と説かれますが、まさにその通りで非常にいいことを言っておられます。お互いが平凡な愚か者であることをしっかり認識すれば、自分のことは棚にあげて、相手の方ばかりを何とかして変えようとしていたのは、非常に愚かな行為だったと気がつき、行動を改めることができます。これが、正しく考え、正しく行動するということなのです。


第百十六号 

説法の歴史

  お説教の大切さを当院では説いています。日本で一番最初にお説教をした人を調べてみると、六〇六(推古十四)年、聖徳太子が三十三歳のとき、帝に勝鬘経(しょうまんぎょう)を講義しておられ、文献に残る中ではこれが日本で一番古いお説教と言われています。聖徳太子は仏教をあつく信仰され、仏教の教えをもとにして日本の国を作るべく、冠位(かんい)十二階の制度や十七条憲法を定められた日本の偉人で、弘法大師も聖徳太子を大変尊敬しておられました。日本で最初にお説教をされるとは、さすがは聖徳太子といったところです。ところが、考えてみたらこの人は政治家であって、専門の僧侶ではありません。では僧侶は何をやっていたのかというと、もっぱら国家鎮護の祈祷を行うのが仕事となっていました。当時の僧侶は国家資格で、いわば全員が国家公務員なのです。ですから、国家のために働くのが仕事であって、お経を説明するということを基本的にはやっていませんでした。聖徳太子は専門家ではないのに、お経に対する理解は大変なもので、本職のお坊さん顔負けの素晴らしい解釈をしておられます。さすが聖徳太子と思う反面、本来ならお坊さんがこれをやるべきなのだがという「ツッコミ」もしたくなります。
 聖徳太子は飛鳥時代の人ですが、その次の奈良時代にお説教を熱心に行った人として、行基(ぎょうき)さんが知られています。行基さんは大変民衆に人気のあった人で、道を作り、橋をかけるなどの社会事業をとても熱心に行い、「行儀菩薩(ぎょうきぼさつ)」と呼ばれて神様や仏様のように民衆にあがめられていました。この人は僧侶でしたが、僧といっても実は「私度僧(しどそう)」という身分にあたる人で、国家に認められた正式な僧侶ではなく、いわば「モグリ」のお坊さんだったのです。当時は僧侶になると税金が免除されたため、税金を払いたくないがために、勝手に僧侶になってしまう者があとをたたず、社会問題になっていました。そのため、行基さんの活動も政府の弾圧の対象となり、人々のために橋をかけたり道を作ったりしている行基さんは。「民衆を惑わす不届きなやつ」とされ、何度も牢屋に入れられました。考えてみればずいぶんひどい話ですが、いくら弾圧しても民衆は行基さんのまわりにどんどん集まります。政府もこれには困ってしまいました。ちょうどその頃、奈良の大仏の建立が始まっていましたが、莫大な資金と人手が必要になるため、工事が遅々として進みません。政府はそこで一計を案じました。
「行基とかいう坊主は大変民衆に人気があるようだから、行基に大仏建立の資金と人手を集めさせよう。大仏が建立出来たら、行基にも布教の許可を正式に与えてやってもいいだろう。」
というものです。行基さんの人気を利用することを思いついたわけです。ところが行基さんに仕事を依頼したとたん、
「行基さまのためなら、資金も出すし労働の協力もやります。」
という民衆ばかりで、それまで政府がいくら命令を出してもそっぽを向いていた人たちが雲のように集まり、あっという間に大仏が完成してしまったそうです。これにはさすがに時の政府も行基さんに、「恐れ入りました。」と頭を下げることになりました。私は行基さんが昔から大好きで、これだけ民衆に人気があったのはなぜなのだろうという疑問が常にあったのですが、調べてみると、社会事業も熱心に行った人ですが、説法に大変力を入れておられたということが分かりました。お弟子さんたちが全国を行脚し、
「正しい行いをすれば極楽に行け、悪い行いをすれば地獄に落ちてしまいますよ。」
などといった、非常に分かりやすい説法を行って民衆を教化していたそうです。行基さんの人気の基盤が説法だと分かって、非常に納得するものがありました。この時代も正式な身分のお坊さんたちは、国家公務員の身分なので国家鎮護の祈祷が仕事であり、民衆の救済は業務外の仕事となっていて、行基さんほど活躍した人はいません。
その次の平安時代になっても、国家公務員である僧侶は、民衆のために活動するよりは、国家鎮護が仕事となっていました。その中で民衆救済に非常に尽力されたのは、言わずと知れた弘法大師です。お大師様も中国留学前は私度僧の立場で、行基さんと全く同じでした。満濃池(まんのういけ)を改築して水源を作ったり、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を作って民衆のための教育の場を提供したりして、行基さんに勝るとも劣らない活発な活動をされました。これまで見てきたように、説法は民衆の教化には欠かせませんし、一般大衆のために尽力してこそ宗教本来の活動と言えるものだと思います。聖徳太子、行基菩薩、弘法大師はいまだに人々の尊敬を集める方であり、民衆に寄り添って仏教興隆につとめられた大偉人であると言えるでしょう。


第百十七号  

こだわらない生き方

  私はこだわらない生き方が一番好きです。細かなことなどどうでもよいのです。車は動けばそれで十分ですし、服は着られればそれでよいし、食事は死なないためにするもので、空腹を満たすことができればそれでよく、それ以上はもうラッキー以外の何物でもないと思うのです。今でこそこんなことを言っていますが、そういえば小さい頃は、私も食べ物の好き嫌いがかなりありました。紫キャベツがだめでしたし、キュウリもあまり好きではなかったし、苦手な料理がかなりありました。ところが、高野山で修行したものですから、毎日が本当に飢餓との戦いで、食うや食わずで掃除をし、お経をあげ、瞑想にはげみ、げっそり痩せて帰ってきたときには食べ物の好き嫌いが一切なくなっていました。あれが嫌い、これは食べられないとか言っていたら、本当に餓死してしまいます。これは好きだ、これは嫌いだと言っていられるのは、死ぬか生きるかを経験していない証拠なのだと思うのです。
その後就職して、県下で一番荒れていた学校に八年勤めましたが、基本的人権というものは紙に書いた存在にすぎないということが身に染みて分かり、その後格闘技をマスターすることにつながりました。極限状態になったら腕っぷしの強さが全てで、力が正義なのです、戦争に行くとこんな感じになるのだということを身にしみて分かりました。世界に目を向けると、こういう状態の国はいくらでもあります。ブラジルでは赤信号で止まったら負けで、車を止めるとたちまち襲われてしまうので、「信号は赤でも突っ切るもの」です。実際、ずいぶん大昔ですが新婚旅行でメキシコに行ったら、「赤信号でも車は平気で突っ込んでくるから要注意。この国では『轢(ひ)かれたら負け』です。」と言われましたが、本当に信号が青であっても平気で車が突っ込んできます。さらに「スリが多いので要注意。しかし、絶対に警察には行ってはいけません。汚職警官が多いので、下手したらピストルを向けられてさらに金をとられます。」と言われましたが、では何のために警察があるのかさっぱりわかりませんのですけれど、今にして思えばメキシコはメキシコでも「ティファナ」というところによりによって行っていたのです。ここは非常に治安が悪いので有名で、当時からそんな感じだったようです。その後進学校に勤めていたとき、メキシコに一年間留学してきた生徒がいて、「大丈夫かメキシコなんかに行って?」と心配しましたが、首都のメキシコシティあたりでは非常に平和な生活が送れて、危険な目に遭ったことなど全くないそうで、ごく普通に帰国してきましたから、同じ国でも地域によってずいぶん様子が異なるということなのでした。
さらにひょんなことから、登山部の顧問を十年もやらされることになってしまいました。私自身は山登りなど好きでもなんでもなく、他に顧問がいないから嫌々やっていただけなのですが、それでも十年もやっていると大体のことが身についてしまいます。山の中では毎日がそのままサバイバルと言ってよく、道に迷ったり転落したら本当に命にかかわりますから、いい加減なことをしているとすぐに死んでしまいます。痛感したのは、例え「ばんそうこう」一つであっても、それがあるかないかで行動できる範囲が大きく変わり、場合によっては命にかかわることすらあるということです。阪神大震災や東日本大震災を経験して日本人の防災意識はずいぶん変わりましたが、登山部顧問の立場から言うと、水や食料の確保は最優先で行うべきで、常に乾電池の予備を欠かさないとか、携帯コンロでいつでもお湯が沸かせるように準備しておくとかは当たり前の話なので、別に防災の備えをする必要などなく、日々の活動がサバイバルそのものなので、地震対策といっても特に何も用意するものなどありません。反対に、普通に一日が送れて次の日が普通にやってくると一般に思われているのは思い込み以外の何物でもなく、「何かあったら命にかかわることのほうが普通」という感覚になっています。
要は「普通に人生が送れるはず」というのは、平和にボケてしまった日本人の悲しい思い込みに過ぎないのではないかということです。日本では自分のルールにこだわる人が割合多いのですが、それは危機的状況を経験していない証拠と言えるのではないかと思うのです。「こだわってよいのはラーメン屋さんだけ。」というのが私の持論で、ラーメン屋さんはこだわるとおいしいラーメンが作れるので、いくらでもこだわってもらって構わないのですが、他の人は、こだわるとろくなことがないと思います。まさに百害あって一利なしです。職場の同僚で、やたら食品の賞味期限にこだわる人がいましたが、食品の賞味期限はメーカーがかなり厳密に決めた「おいしく食べられる期間のめやす」であって、それを過ぎたら別に毒になるわけでもありません。この調子では体の抵抗力がかなり落ちているのではないかと思っていたら、案の定かなり重症な食品のアレルギー持ちの人でした。こだわりは自らの力を制限してしまうことが非常に多く、やはり「ラーメン屋さん以外の人のこだわりはろくなことがない」というのが私の結論です。


第百十八号  

大切なのは心の方

  昭和の頃のお説教に、
「火事になったら一体何を持って逃げるか。」
とお坊さんが聞いたら、高校生の子供が、
「お仏壇を持って逃げます。」
と答えたので、お坊さんが、
「それは若いのに感心だね。」
と言ったら、高校生が、
「だって一番お金がかかっているのがお仏壇だから、金目の物を持って逃げるのが当然です。」
と答えて、一同が大笑いになったという話があります。
 いかにも昭和の話で、当時は一番お金をかけるのは仏壇、という風潮があったわけですね。いっとき、お仏壇屋さんから「どうやったらお仏壇が売れるようになるのか教えてください。」という声を聞いたものです。お仏壇は彦根の伝統産業ですが、本当に壊滅の危機に瀕しています。とまあ、これはこの原稿の執筆時点での話であって、何十年後かには
「仏壇というものがかつて存在したらしい。」
となっている可能性は、残念ながらかなり高いと思います。理由は簡単で、他の国に存在しないからです。弘法大師や親鸞聖人の時代に仏壇はありませんでした。そのため、当時のお説教の中には全く登場しません。仏壇が登場したのは江戸時代になってからで、戦国時代に弓矢や鎧を作っていた職人が、平和な時代になったので需要が激減し、一度に失業してしまうという事態が生じました。そのままでは失業者があふれてしまって治安維持という点でもよくないから、各藩が率先して作ったのが仏壇産業です。封建制度によって居住の自由が禁止され、生まれた土地で生涯を終えることが義務付けられましたから、先祖代々の土地を守り、墓を守り、仏壇にお参りするというスタイルが定着していったのでした。転居にかかる費用が基本的に発生しないので、その分を仏壇の購入費用に充てることができ、立派なものを購入するという流れが出来たのです。
 ところが今や、就職したら全国に転勤させられるのは当然であり、外国への転勤も普通です。巨大な仏壇を持って歩くことはできません。となると、どうしても軽薄短小にならざるを得ません。中国系の商人の華僑(かきょう)という人たちがいて、世界中を旅して商売をしています。人によっては住む家すらなく、旅から旅へと商売をしながら生活している場合すらありますが、華僑の人たちは大変に信仰熱心で、折り畳み式の仏様のセットを持ち歩いています。当院にも中国系の方が参拝にいらっしゃったことがありますが、紙製の折り畳み式の仏様のセットを持っておられます。「飛び出す絵本」みたいな感じで、紙に仏様が印刷してあって、三つ折り式で「びょうぶ」みたいにして立てることができます。その「飛び出す絵本」みたいな仏様に対して、本当に文字通りひれ伏して拝まれるのです。私はそれを見ながら、
「飛び出す絵本みたいな紙の仏様が立派なのか、それともひれ伏して一心に拝まれる姿が立派なのか、どう考えても後者の方だ。」
と、いたく感心したものです。華僑の人は紙製のペラペラの仏様しか持てませんが、本当の信仰というのはこういうものであって、お仏壇が作られなくなったから日本人の信仰心が薄れたというわけではなく、いつの時代にも悩む人がおり、救いを求める人もおり、宗教がそれにこたえるニーズは変わらないのではないかと思うのです。人々の悩みにきちんとお応えする宗教ならば時代がいくら変わっても残っていきますが、仏壇と墓と葬式の三点セットに付随した、宗教が単なる生活儀礼の一つと化してしまった場合は、仏壇が廃れるのと同時になくなっていってしまうのはむしろ当然なのかもしれません。
要は、時代の流れに柔軟に対応していけばいいのではないかと思うのです。種子島に鉄砲が伝わって日本の戦闘スタイルは劇的に変化しました。旧来の戦法に固執していた大名たちは、新戦法をいち早く取り入れた信長にみんなやられてしまいました。あまり知られていないことですが、器用で勤勉な日本人はコピーの鉄砲を本家より性能が上回るものに改良してしまい、しかもそれが世界一の保有量となって、安土桃山時代の日本は世界一の軍事大国にのしあがっていたのです。だから西洋諸国に侵略されないですんだのでした。四百五十年前の我々の先祖は、世界の激変に即座に反応し、見事に昇華しています。子孫の我々が出来ないはずはありません。時代がいくら変わろうとも、表面的なことは変化しますが、本質の心の持ち方については不変なはずです。不変な心の方を磨いていくようにすれば、時代や状況がいくら変化しようとかまわないのではないでしょうか。


第百十九号  

真伝走れメロス

太宰治の「走れメロス」は名作として有名で、教科書にもよく載っています。友人を助けるために死を覚悟してシラクサの町に戻り、人間不信であった暴君はその姿に打たれて改心し、めでたくハッピーエンドになるという感動的なストーリーです。中学校の教科書によく採択されるので、それを読んだ生徒に先生が感想文を書かせたりします。すると大概の場合、「メロスの友情にとても感動した。」とか、「僕もメロスのようになりたい。」という内容のものばかりになるのですが、太宰治がこの小説を書いたきっかけになるエピソードはあまり知られていません。作者である太宰治自身の経験を元に執筆された小説でありまして、太宰の経験はいわば「真伝走れメロス」とでも言うべきものでしょうか。
作者である太宰治は、無頼派(ぶらいは)という呼び名がつくくらいで、実に奔放な生活を送っていました。早い話がメチャクチャやっておりまして、いろんなところで借金を作るのに一向に返済もせず、多額の借金がこげついて、とうとうヤクザが取り立てに来るまでになってしまいました。ヤクザに脅されて太宰治は、
「借金の金策に走り回って、必ず金を作る。親友の檀一雄(だんかずお)を人質にするから、三日の猶予をくれ。」
ということになりました。檀一雄も私小説で有名な作家です。何の罪もない檀はヤクザの監視下に置かれて人質となり、太宰は、
「必ず金を作ってお前を助け出すから、しばらく辛抱してくれ、」
と言い残して金策に走り回りました。「走れメロス」じゃなくて、本当は「走れ太宰治」だったのです。しかも借金返済のため。ところが、約束の三日目になっても太宰は一向に帰って来ません。待てど暮らせど帰って来ない太宰を待ち続ける檀を見て、ヤクザもさすがに気の毒に思って、檀と一緒に太宰を探してやることになりました。心当たりのあるところを探すうちにやっと太宰を発見したのですが、太宰は金策で走り回ってできた大金を見ると目がくらみ、それでギャンブルをしている最中でした。檀は激怒。この話を元にして作ったのが「走れメロス」ですが、美化しすぎというか何というか、自らの最低エピソードを元にして名作を書いてしまうのだから、太宰の才能はとんでもないもののであることだけは事実です。事実は真逆でも、作品としての完成度は高いし、小説を読んで勇気をもらったという人がいても、その値打ちは別に何も変わるものはないということが言えるでしょう。
だいたい、お互い生身の人間ですから、叩けばどこかでボロが出るという展開はむしろ普通です。動機は不純でもやったことが値打ちのあることなら、それは評価されていいと思うのです。付き合っている女の子と一緒に大学に入りたい一心で必死に勉強して、有名大学に合格してしまうなどということはよくある話です。受験生を「馬」とすると、付き合っている女の子は「ニンジン」にあたるわけですが、文字通り「馬力」を出すには目の前にニンジンをぶら下げるのは非常に有効な方法です。しかも、必死で勉強するうちに勉強の面白さに目覚めてしまい、女の子のことはどうでもよくなってしまったりするので、人生は面白いことこの上ありません。
野口英雄という人も大変困った人で、この人もメチャクチャお金にルーズで、借金で首が回らなくなってしまいました。それで親友を人質にしたのかというと、もっと究極の奥の手を使え、ということで、アフリカの奥地に逃げたのです。現在でもこれをやられたら、借金取りは絶対追っかけてきませんので、借金で首が回らなくなったら究極の必殺技として覚えておかれる方がよろしい。何しろ当時も今も内戦が多くてめちゃくちゃ物騒だし、猛獣はいるし、エボラ出血熱とか眠り病とか、おっそろしい風土病さんたちが「ウエルカム!」と言って熱烈歓迎してくれるので、借金の取り立て以前に自分の命がなくなります。だから絶対誰も追っかけてきません。実際に野口英雄も黄熱病の研究中に感染して、この病気で命を落としましたが、医学の進歩やアフリカを救済したという点では、その業績は素晴らしいもので、後年お札になったくらいですが、本人が「カネ返せカネ返せ」と借金取りに追われた人生だったので、さぞかし本望だったことでしょう。ただ、野口英雄が偉いと思うのは、彼の晩年に「野口英雄偉人伝」というものができまして、いまだに野口英雄さんにあこがれてお医者さんを目指す人は結構おり、当時も同じだったそうですが、偉人伝を一読して、
「これは間違っている。俺はこんな立派な人間じゃない。」
と言ったという点です。自分でもちゃんと認めている点が偉い、というか、偉いのか偉くないのかよくわからない話ではあります。ともかく、動機など不純でいいのです。やったことが尊ければそれでよいのです。


第百二十号  

「ラムネ氏のこと」

フグという魚をご存じでしょうか。一定の種類にはテトラドキシンという猛毒があり、間違って摂取すると呼吸器がやられて死に至ります。ところがフグは非常に美味で知られており、「フグは食いたし命は惜しし。」という言葉があるように、命の危険と隣り合わせでこの美食の習慣は成り立っています。我々が普通に口にしているこの食習慣は、実は大昔からの尊い犠牲の上に成り立っています。具体的に説明しましょう。
弥生時代の貝塚からフグの骨は出土しており、大昔から食べられていたのですが、最初から食べられるところと毒のあるところが分かっていたわけがなく、最初はとりあえず全部食べたに違いないのです。
フグをさばいて、食べられそうなところをかたっばしから並べてみると、肉、皮、肝、卵巣、白子などになります。これを実際に食べてみると、
肉を食べた弥生人はウマイ! 皮もウマイ! でも肝を食べた奴はグハー!となるわけです。続いて卵巣もグハッ! しかし白子を食べた奴はウマイ! 
となり、食べる場所によって「天国か地獄か」が分かれてしまいます。まさに命がけのロシアン・ルーレットです。
次のフグがとれた時も、肉はウマイ! 皮もウマイ! でも肝はグハー! 卵巣もグハー、 しかし白子はウマイ! となります。
またしてもグルメを満喫する者と死人が出来てしまいました。その次のフグがとれると…。さすがにこのあたりから、
「フグにはウマイ所とグハーとなる所があるのではないか?」
ということに気がつく者が出てきます。肉、皮、肝、卵巣、白子、そしてウマイ!とグハー!という具体例から、共通する要素を抽き出し、
フグは肉と皮と白子はウマイ! 肝と卵巣はグハー
という一般法則が出来上がります。
 最初は具体例しか目の前にないのが普通ですが、だんだん法則性というものが見えてきます。何度も何度も犠牲者を出しながらフグを食っていたのでは、たまったものではありません。この例でいうと、
「フグは肉と皮と白子はウマイ!肝と卵巣はグハー!」
というのが一般法則です。この法則を作るまでに、多分何百人何千人という犠牲者が出ていて、我々はその犠牲があるからこそ安心してフグを食べることが出来るわけです。
文明も学問も最初はこのように、総当たりから始まって一般法則を作ることから始まっています。フグの毒のある箇所の特定もそうだし、
「床のタイルの三角形を観察していたら、三辺が3対4対5の長さになった三角形は、どうも直角三角形になりそうだ」
などといったふうに、数学の公式や定理も同様にして発見されてきたのです。人間の文明は、このような地道な分析作業から始まっていると言ってもいいでしょう。
さて、ひとたび一般法則が出来上がってしまうと、あとは大変楽になります。出来上がった一般法則を、目の前にある具体例に当てはめればいいのです。フグの例で考えてみますと、まさか今どき、フグを料理するたびに、
「とりあえず食べてみて、死んだ人が出たらそこの箇所はアウトですな」
などと言いつつお客にフグをさばいている料理屋さんがいたら、怖すぎます。
「フグは、肝と卵巣に毒がある」
という立派な一般法則が大昔から出来上がっているのですから、目の前のフグをさばく際に当てはめればよいのです。
この話は、私が受験生だったときに現代文の問題集に、坂口安吾という作家が書いた「ラムネ氏のこと」という文章が載っておりまして、そこに紹介されていた内容です。坂口安吾は、
「全くもって我々の周囲にあるものは、たいがい、天然自然のままにあるものではないのだ。誰かしら、今あるごとく置いた人、発明した人があったのである。我々は事もなくフグ料理に酔いしれているが、あれが料理として通用するに至るまでの暗黒時代を想像すれば、そこにも一篇の大ドラマがある。幾十百のその道の殉教者が血に血をついだ作品なのである。」
と書いております。それを読んだ私は問題を解くことはそっちのけで、「なるほど、文明とか発明というのはこうやって出来ていくんだなあ。」と感心し、いまだに自分が書く本の説明に引用しています。フグ料理一つにも人類の英知がつまっているのですね。

 

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