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ともしび    

第一号  

 

「困ったときの神頼み」を契機に

 

  人間というものは、どうしても勝手な生き方をしがちです。楽をして得をしたい、自分は与えず、もらえるものはなんでももらおう、努力をしないで偉くなろうなどと、楽をすることばかり考えます。それはそれで「効率的な生き方である」とも言えますし決して悪いことではないのですが、それがうまくいかなくなると神仏にすがり、「困ったときの神頼み」というパターンにあいなります。 もっとも、この「困ったときの神頼み」というものは決して悪いことではありません。誰でも挫折してはじめて、自分の力の限界を知ります。失敗続きでどうすることもできなくなって、初めて真剣に人生というものを見つめることができるものですし、祈りというものは、そういったどん底の状態から芽生えるものだからです。現在熱心に信仰をされている方も、そのきっかけというと、やはり病気とか、大きな悩みごとにうちのめされて信心の道が始まった方が多いことでしょう。

  しかし、問題はそのあとです。願いがかなえば、「はいそれでさようなら、あとは知りません」ということによくなってしまいます。こういった人たちは、いつまでたっても本当の幸せがつかめません。またこの先病気になったり、困った問題が起きたりしたら、同じようにその場しのぎで神仏に手を合わせ、ご利益を追いもとめることをくり返すだけになります。いつまでたっても抜本的な問題の解決が出来ません。こういう方にとって自分の思い通りにならないことは、すべて不幸だとしか考えられないのですから、死ぬまで人生は苦労と心配の連続である、ということになってしまいます。信仰を持っている人と、持っていない人の差はここにあります。

  今ポケットに千円あるとします。信仰を持たれない方はとかく、「もう千円しか残っていない、まじめに働いているのに、おれはなんて金に縁がないんだろう。」と、まず不満を感じてしまいがちです。気分はむしゃくしゃするし、一事が万事この調子ですから、よいことなど自然に逃げていってしまいます。実際に、不平不満ばかり言う人には本当にろくなことが起こりません。私は神主と易学士の資格も持っているのですが、面白いことに神道でも、易学でも全く同じことを説きます。物事の本質というのは結局同じなのだといつも思います。これが信仰をもっている人はどうでしょう。「まだ千円ある。ありがたいことだ。この千円で妻に花でも買って帰ってやろうかな。」と考えます。こういう人は、まず何ごとにも感謝をしますから、実際にもよいこと、楽しいこと、みんなで喜べることが起こります。

  神頼みをしたあとに、人生のステップを一歩上がることが出来れば、どんなに素晴らしいことでしょうか。平素は考えたこともなければ、手を合わせたこともないみ仏を、大変な時には「火の出るような思い」で初めて信仰するわけです。その祈りのなかでみ仏にふれたにもかかわらず、時がたてば、のどもと過ぎれば熱さを忘れるように、きれいさっぱり忘れ去ってしまうと、本当の幸せ、心の平和は手に入りません。困ったときの神頼みを契機に、みなさんには、さらに一歩高い段階の、信仰の道というものへと進んでいただきたいと思います。真言宗では他の宗派にはない、加持祈祷(かじきとう)があります。祈祷によって、難病が治ったり、不可能が可能となったり、死ぬはずのものが命が助かったという例も実際にあります。しかし、祈祷によって皆様の病気を治し、願望をかなえるためだけに、私ども坊主が、わざわざ大変な修行をするわけではありません。ぎりぎりの状態で初めて神仏に心から手を合わせていただく、その、神仏をうやまうという心をいつまでも持ち続けていただき、本当の救いの道、信仰の道へと歩んでいただくことを願えばこそなのです。ご縁があってここにお参りいただいた方には、「困ったときの神頼み」をきっかけにして、ぜひ一歩上がって、信仰の道まで進まれることをおすすめいたします。

  一般の仏教では「欲を捨てよ」と教えます。ところが密教では「欲望をもつのはよいことである」と説きます。欲望が満たされないからこそ、人間は苦しみ、神仏にすがるきっかけが生まれるからです。だいたい食欲と性欲がなくなったら、それは完全に病気であって入院、治療の対象となってしまいます。よこしまな欲を持つからいけないのです。欲望など持ったままが当たり前、人間性など完全でないのが普通なのです。そのような至らぬ身のままであっても、心に仏を思い、口に真言を唱え、手を合わせて真摯に祈れば、その時は誰でも仏さまと平等です。これを真言宗では「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」と呼ぶのです。そして、お参りの方にお渡ししている経典の「三摩耶戒(さんまやかい)」という部分がこの教えにあたります。詳しくは、菩提心(ぼだいしん=信仰心のこと)を 起こした最初から、心と仏と衆生(しゅじょう=私たち人間のこと)の三つは平等一如(びょうどういちじょ≠同じであること)であると信じて授かる戒(かい=いましめ)です。これほど私たち一般の人間に優しい教えはない、と言ってよいでしょう。

 正しい欲は持って当然なのです。自分が望むのと同じくらい他の人に施せばよいだけのことなのです。どんな人でも他人にほどこすことはできます。知識をほどこすことができる人は知識をわけあたえることができますし、体が丈夫な人は体を使って人の役に立つことができます。財力のある人は財でほどこせばよいし、ひまのある人は、そのひまを役立てて人様のためになることをすればよいのです。こうすれば、自分も幸せになり、他の人も幸せにできます。いわば二重の幸福です。これが密教の教えなのです。 みなさん、困って、悩んで、この寺においでになったのが縁というものです。お悩みのことがございましたら、遠慮なくご相談ください。皆様が、正しい信仰の道に進まれることをお祈りいたします。           

合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院   

 

 

ともしび   

第二号  

 

 易学に学ぶ人生の知恵

 

  中国古来の易学というのは大変便利なもので、私は二〇代に易学士の資格を取ってから、ずいぶんたくさんの相談に乗らせていただきました。悩み事相談のキャリアはかれこれ二十五年近くにもなります。姓名判断や家相、墓相といった一般的なものから、かなり特殊で日本ではあまり知られていないものまで使います。コンピューターの資格を持っておりますので、一部の易学は自分でプログラムを組み、結果が自動計算されるようになっているものまであります。あんなものをコンピューターで処理することが出来るのかとお思いの方もおられるでしょうが、易学の本質は統計学なのです。ドイツの心理学者にクレッチマーという人がおります。この人は人間の性質を体型的に分類したことで有名です。この人の『体格と性格』という本によると、

 

肥満型―社交的で、現実的な性格

細長型―自閉的で分析的、理想主義的な性格

筋肉型―人心の機微にうといが、粘り強く我慢強い

 

というように大まかに三種類に分類されていますが、いかにも納得できそうな内容で、血液型や暦の運勢占い(正確には九星気学=きゅうせいきがく、と言いますが)と結構似ております。もっとも、中国の易学の場合はもっと分類が細かく、四柱推命(しちゅうすいめい)という占いに至っては、人間のタイプを五千種類以上にも分類しているくらいです。当然分類が細かければ的中精度も増します。

  易学を使うと人間の気質や運気をかなり正確につかめますので、いろいろなことに応用できます。例えば、人に頭を押えつけられるのが何より嫌いな性格の人がいるとします。こういう人に、ただどなりつけても、本人を怒らせるだけです。反対に、優柔不断で自分の進む道を自分では決められないタイプの人に、「自分のことは自分でやりなさい」などといっても、本人をますます迷わせるだけで、何の解決にもなりません。

  一番大切なのはここからです。運勢を見てもらって、それで終わりという人が非常に多いものです。ぜひ覚えておきたいのは、「運勢はかなり変えることが出来る」ということです。体質や患いやすい病気などはDNAでほとんど決まってしまっているのが現実ですが、それでも可能性はゼロではありません。日本の易学は水野南北(みずのなんぼく)という人によって完成したのですが、ある日、弟子の一人が質問をしました。

  「失礼ですが、なぜ先生の人相や手相は、そんなに悪いのでしょうか。どの相を見ても、先生は若くして死ぬと出ております。金運も出世運もまったくありません。このお年まで生きていらっしゃることがまず信じられませんし、どう間違っても、先生が大変な数の弟子を取る方とは思えないのです。」

  これに水野南北は答えて、

「そうだ、お前の鑑定は間違っていない。私の運勢がどうしようもなく悪いのは自分が一番よく知っている。しかし、私は、自分の運勢が悪いからこそ、規則正しい生活を送り、体に気を使い、陰徳をつみ、神仏を信仰している。こういう姿勢があるからこそ、私は長生きし、大家と呼ばれるようになったのだ。」

  日本の易学の元祖の生まれつきの運勢がこんなものだったとは、意外な驚きです。南北の運勢は三〇歳前に死亡、金運も出世運もゼロという判断だったのですが、実際にはこの人は七十七歳まで生き、第一人者として一万人を越す弟子をとりました。寿命はあらかじめ決まっていて変えることが出来ないと思っている人が非常に多いのですが、本当のことを言うと、一番変えやすいのが寿命です。具体的に考えてみると分かりやすいのですが、朝は遅くまで寝ていて、肉ばかり食べ、毎晩浴びるように酒を飲むといった生活を続けていれば、もともと丈夫な人でもすぐ生活習慣病であの世行きです。それに対して、早寝早起き、玄米菜食、酒もたばこもやらないという生活サイクルにすれば、どう考えても長生きします。

 易学の世界では運命を変えるのに「陰徳を積む」という方法が広く行われています。現実的な中国人らしく、「運命がよくなることと、悪くなること」が具体的に表にしてあって、しかもそれぞれに「プラス1点、マイナス1点」というように点数化までしてあります。「ゴミを拾うこと」がプラス1点、「腹を立てない」がプラス5点といったふうにあげられていて、最大のものが「人の命を助けること」がプラス100点です。そして「神仏を敬うこと」はプラス50点となっており、人の命を助けることについで高い点数になっています。南北が真言宗の僧侶も兼ねていたことは、意外に知られておりません。運勢をよくするにはどうしたらよいか、もうおわかりでしょう。皆さんにも熱心に信仰をされることをおすすめいたします。何事も、求める人にしか、結果は与えられないものではないでしょうか。人生の幸せも同じです。

合掌

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ともしび  

第三号  

 

神も仏も教えは同じ

 

仏教と神道が分離したのは明治よりあとのことで、古い仏教では、神と仏を同時にまつり、僧侶がお寺と神社を一緒にお世話するのは、むしろあたりまえのことでした。とりわけ真言宗と神道の関係は密接で、伏見稲荷も真言宗の東寺(とうじ)が一〇〇〇年余りも兼務しておりました。真言の教えにも「両部神道(りょうぶしんとう)」が今なお伝わっております。

  不動院は一三〇〇年の歴史がありますから、当然神様と仏様を一緒におまつりしております。とはいえ、僧侶と神主の資格を両方持っているという例はごく珍しいでしょう。それにこの資格は、結構いわくつきのものです。

  師事しておりました巽兌子(たつみみちこ)先生のおじいさまは明治天皇です。お父上がご長男でいらっしゃいましたから、本来なら先代の巽健翁(たつみけんおう)先生が大正天皇となったはずでした。ですから亡くなられた昭和天皇とは「いとこ」の関係になります。お父様は東大を出られ、皇学館大学の教授をされた方で大変優秀でしたが、生まれつき、ちょうどゴルバチョフ大統領のようにひたいに「あざ」がありました。けがれを嫌う神道ゆえに、これだけの理由で皇位を継がれず、巽家に養子に出られたのだそうです。歴史に「もし」を考えると際限がなくなるとは言いますが、教科書で習う歴史もちょっとしたきっかけでずいぶん変わるものなのだなと思います。

  両方兼ねていると言うと、果たして僧侶なのか神主なのか、どちらが本当の姿なのかと思われることも結構ありますが、実際には教えの基本の部分は全く変わりません。特に真言宗は神道の教えと教義が非常に近く、合同で法要を行っている神社が実際にあるくらい親密です。だいたい宗教である限り、人の道を説く限り、やらなければならないことは同じです。他宗派や他宗教にきわめて寛容なのも真言宗の特徴で、どの仏様を拝もうがどの神様を祀ろうが、どの教典を読もうが自由、全て大日如来を拝んでいるのとまったく変わらないと説いています。宗教は本来かくあるべきで、他宗派や他教をそしるなど時間の無駄に過ぎないと言えるのではないかと思います。宗教が原因で戦争が起きたりしては、本末転倒もいいところでしょう。

仏教側から見ても、神道には神道のよさがあり、学ぶところが多々あります。「言葉を大切にする」こともその一つでありましょう。日本語というものを神道では大切にし、祝詞を実にていねいに唱えます。祝詞は、はっきりした声で朗々と読まねばなりません。そうしないと「願い事が神様に届かない」と信じられています。これは「言葉にはパワ-がある」と考えられているからです。これを言霊(ことだま)信仰と申します。

  難しそうに思いますが、私たちは意識をしないだけで、意外に多くの場面で言霊のパワ-を用いています。たとえば苦しいときや壁にぶつかったときなど、見はらしのよい海や山で大声を出すと、それまでのモヤモヤがけしとんだりすることがありますし、美空ひばりさんの歌声に元気づけられて自殺を思い止まった人もおります。昔の青春ドラマでは決まって夕日に大声で叫んでいましたが、これも同じで、いずれも言霊を発することにより心身のはらいきよめを行っているに等しいといえます。また、重いものを持ち上げるとき、気分転換をするとき、気合いを入れるときなどにも使います。大抵、「エイッ」とか「ヤ-ッ」とか叫ぶでありましょう。面白いもので、こんなとき「ス-」とか「ヒ-」とか言う人はまずおりません。力がどっかに抜けていってしまいます。目的に応じた最適の言葉、もっとも霊力のある言葉を集めたもの-それが祝詞です。

  言霊を使っての発声訓練により、性格改善や病気の治療までできます。人の悪口や中傷、ぐちなどは「話相(わそう)」が悪いといっていましめられます。つらい、痛い、苦しい、貧しいなどといったマイナスのイメ-ジの言葉も「言相(ごんそう)」が悪いといって極力避けるのです。また、易学でも同様に話し方は重視いたします。語尾がはっきりせず、途中で消え入ってしまうような人は、実際、運勢もしりすぼみで大成できないものです。

  私たちがふだん何気なく話している言葉にも、こんな大きな意味がやどっていることがおわかりいただけたでしょうか。そして、世界のいろいろな言語の中で、最も優雅で、なおかつパワ-があるのが、ほかならぬ日本語なのです。幸せをもたらす言葉、美しいひびきの日本語は、日本が世界に誇る文化の一つと言えましょう。

  ところが現在の世相はどうでしょうか。すでに明治の神道家が、日本語の乱れをなげいておりますが、今日の状態はなかなか大変な状況と言わざるを得ません。たまに敬語をきちんと使う若い人に出会うと大変感動しますが、それだけきちんと敬語を使う人が減ってしまったということでもありましょう。

  言霊を日常生活に生かすことは、難しいことではありません。正しい発音を心がけ、はっきりと話す。「言相」「話相」に気を配り、たまには神様・仏様の方を向きたいものです。何かというと文句ばかり言う人というのがおられますが、口を開くと不平不満ばかりなので、日常生活でも本当に不平不満の種ばかりが芽生えてしまいます。言霊の力がマイナスに働いてしまう典型例と言えます。新興宗教では例外なく、まず感謝をしなさい、何事も喜んで、マイナスのオーラのある言葉を使わないようにしなさいと教えますが、基本は神道の教えと同じです。こんな簡単なことからも、信仰の道というものは開けてくるようですね。

 

合掌

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ともしび   

第四号  

 

吾ただ足を知る

 

  私たちはとかく「満足」ということができないもののようです。今は真冬ですから「寒い寒い」が挨拶代わりになり、少しでも暖かくなってくれないものかと思いますが、考えてみれば夏のころには「毎日暑くてやりきれん」とこぼしていたような気がします。暑いときには冷気を欲し、寒いときには暖気を取るのは、ごく自然のことでありましょう。ただ、たえがたい毎日ではあるものの、天気にせよ何にせよ、寒い暑いとぐちばかりを言って一日を終わるというのは、やはり少々さびしい気がします。というのも、不満ばかり吐き続けていると、いつのまにか自分の気持ちまでゆううつになってくることが多いからであります。

  イギリスの詩人ラスキンに「雲」という詩があるそうです。

 

世の人々は、今日はよい天気だ

また悪い天気だ、などというが、

天気によいも悪いもない。

みなよい天気ばかりである。

ただ種類がちがうばかりで

晴れたよい天気、雨のよい天気、

風のよい天気とのちがいだけだ。

 

  いかにも詩人らしく風変わりなものの考え方だなあとも思いますが、この人の言うことにも一理はあるやもしれません。梅雨の不愉快な天気はまことに嫌なものです。しかし、この時期に雨が降らず湿度や温度が低いと、まことに大変なことになります。稲が実るにはこの時期の高温多湿が欠かせませんので、たちまちに冷害がおこります。今でこそ田んぼが不作でも命にかかわるようなことはなくなりましたが、一昔前なら、ご先祖たちは死ぬか生きるかの瀬戸際に立たされることになりました。こう考えると、あのじめじめしていやな梅雨でさえ、「種類の違うよい天気」なのかもしれないと思えてきます。

植物にとっては晴れの日と雨の日の両方がないと枯れてしまうので、私は実際に植物にとっては、たぶん両方とも「よい日」なのではないかと考えたりしております。また、猫にとっては「雨の日は昼寝の日」と決まっております。なぜかというと雨の日はネズミやモグラが出てこないので、狩りに行っても腹が減るだけなので、天候が雨だと猫はただひたすら眠くなるように本能で決まっているからです。そのため連中は雨が降ると、体力を温存して腹を減らさないように、朝から晩までひたすら寝るようになっております。晴れた日は狩りに行く日、雨の日は寝る日とはっきり決まっているわけですね。生活の知恵というか、生き残るための必須条件でこうなったのでしょう。連中は天気の良い悪いを嘆くことなどしません。その状況に自分のほうをあわせて悠々自適な生活を送っているわけで、我々が見てもうらやましくなったりさえします。

  天気の話題ならたわいないぐちですが、日常生活においてもくどくどと、不満ばかり言うというのはやはり考えものです。となりの芝生は青く見えるのたとえ通り、とかく現在の生活には欠点が目立ち、他人のやっていることは楽に見えるものです。薄田泣菫(すすきだきゅうきん)という詩人の詩に、

 

山家そだちのほほじろが

山がつらいと里へ来て

里でとられて  ほほじろが

山が恋いしと泣きまする

 

というのがあります。このほほじろのように、どこへ言っても不平ばかり言っていると、ほんとうにつまらない一生のままで終わってしまいます。私たちの人生で、完全に満足だといえることはありえません。それならば、今ここで、自分のできることに最善をつくすよりしかたがありますまい。人生は高望みをしなければ、そんなに捨てたものではありません。

  毎日が不満でゆううつならば、いったいその原因はどこからくるのか考えてみたいものです。案外、自分自身の甘えや怠け心のゆえであったりするものです。一度、自己中心の考えをこえて、世の中全体を見渡してみたいものです。毎日がゆううつなのは人間だけであって、先ほど例に挙げた自然界の動植物はどうでしょう。他に認められるとか認められないとか、そういう発想がもともとありません。ただ自分の環境に応じて、自らの生命を精一杯生きております。「吾れただ足るを知る」という言葉は、茶席の掛け軸としてよく目にする言葉ですが、まさにこのことを言ったものであって、もともとは仏教の言葉です。自分の思いがかなわないでゆううつさは、言ってみればどんよりと低くたれこめた暗雲です。分厚い暗い雲に空がおおわれていれば、誰でもたしかに気が滅入ります。しかし、暗雲の上には常に、太陽の光が晴雨に関係なくさんさんと降りそそいでおります。どんな嵐もいつまでも続くものではありません。いずれ雲のすきまより、太陽が顔を出すでありましょう。それまではこの世の太陽といえる、信仰の光に導かれようではありませんか。

合掌

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ともしび   

第五号  

 

帆掛け船を止める話

 

  海辺の旅館の一室に禅僧が3人泊まっておりました。窓の外には海が見え、海には帆掛け船(ほかけぶね)が浮かんでいました。

  お茶を飲んでいた一人の僧侶がこんなことを言いました。

「どうじゃな、あそこに浮かんで上下している帆掛け船を、ぴたりとその場に止めてみせることができますかな」

禅宗では「公案(こうあん)」といって、修行の一つによくこんな問題を出します。さあ、みなさんならどうされますか。いながらにして、はるかかなたの海に浮かぶ帆掛け船を止めることができますか。

  一人の禅僧は、パッと自分の目を閉じてしまいました。目を閉じたのだから、帆掛け船は見えません。船は止まったことになります。

「いや、みごとみごと、次は私の番ですな」

そう言って、もう一人は立って窓のところへ行き、カ-テンをしめてしまいました。こうすれば船は見えません。やはり、船は止まったことになります。

  答えを聞いてしまえば、なあんだと思われることでしょう。単なる「とんち」のようにも思えますが、もう少し考えてみましょう。

  私たちは普通、「船を止めよ」と言われれば、やっきになって実際に船をとめる方法をさがします。波をしずめればよいとか、船にいかりをつけるとか、その相手に働きかけることばかりに考えがおよんでしまいます。それでは、はるかかなたの船は止まりません。船が止まるのは、目を閉じるとか、カ-テンをひくとか、言わば、「自分のほうを変えた場合だけ」です。

  同じようなことは、世の中に多いものです。対人関係の悩みを考えてみましょう。嫁と姑がうまくいかないとか、近所とのつきあいがいやだとか、職場になじめないとかの場合です。そしてこういう場合、悩んでいる人は、必死になって相手の方を変えようとします。自分をばかにしないように変えたい、自分のことを笑わないようにしたい、できれば相手に一目置かせたい、自分のことを尊敬するように相手を変えてしまいたい…。

  それは不可能でありましょう。それはあたかも、旅館にいながらにして帆掛け船を止めようとするかのようなものです。相手を変えよう、相手に自分の非を認めさせようということを考えているうちは、事態は一向によくなりません。自分の方を変えたときに初めて海の帆掛け船が止まったように、相手の非を責める前に、まず自分の心の持ちようを考え直してみたいものです。

  自分のやるべきことをないがしろにしておいて、神仏にすがって何とかしてもらおうというのは、とかく私たちがおかしやすいあやまちであります。願い事をすればするほど、現在の自分がみじめに思えてきたりします。

「あいつは、あんな悪いやつなのに天罰もあたらないではないか、それにくらべて自分はなんて不幸なのだろう」

などと考えてばかりいると、しまいには神経がまいってしまうのではないでしょうか。信仰のために神仏を拝んでいるはずが、口をついて出てくるのは、相手をせめる愚痴ばかりということにもなりかねません。

しまいには、

「私は毎日お経をとなえているのに、なんにもいいことがない。家族は病気になったし、職場もうまくいかない、神も仏もあるか」

となってしまいます。

  南無阿弥陀仏とか南無妙法蓮華経とか唱えてさえいれば、勉強もせずに大学に入れ、出世もできるものでしょうか。そんなに世の中が甘いわけはありません。信仰をもつ人は病気にかからないのでしょうか。お金の苦労がなくなるのでしょうか。いくらなんでもそれは無理というものです。まず自分をふりかえって考えてみますと、意外に自分の側にも落ち度があることが分かったりするものです。

  もう少し具体的に考えてみましょう。たとえばある日、階段から転げ落ちたとしましょう。ものは考えようで、打ち所が悪ければ死んでいたかもしれません。

「ああよく死ななかった、ありがたい。日ごろの信心のたまものだ」

と感謝するのが、信仰をもつ人です。こういう人は、本当に次の災難も、小難で避けられるようになってまいります。

「けがをした、ああ痛い痛い。わしは日ごろからあんなに拝んでいるのに、なぜこんな目にあうのか、まったく御利益がないわい」

と言う人は本物ではありません。いつもぼやくだけで、進歩がありません。私は若い頃からビジネス書を読むのが非常に好きなのですが、一代で会社を興して成功させる人は、100%の確率で徹底したプラス思考の持ち主です。自分にはいいことしか起こらないと、ほとんど確信犯のように信じております。自分のまわりにはよい人が多くて、何かあったら助けてもらえる、だから自分はここまでやってきたと、たたき上げの成功社長は口をそろえて言います。実際にはその社長のプラス思考がもたらした運気が相当な割合を占めていて、プラス思考の人間にはよい運命とよい仲間が集まるようになっているのです。この反対のケースも残念ながら多く、何かにつけてマイナスに考える人は、まるで自分がブラックホールになったように、悪い運気と悪い仲間を吸い寄せてしまうものです。心を変えると運命と人間関係は確かに変わるのです。

  自分の心を変えることによって、いくらでも道は開けることがおわかりいただけたでしょうか。私たちも本当の信仰というものを持ちたいものですね。

 

合掌

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ともしび   

第六号  

 

幸福と不幸の話

 

  「涅槃経(ねはんきょう)」という経典に次のような話があります。

  ある家に、たいへんな美女が尋ねてまいりました。豪華な衣装を着た、品のある女性です。その家の主人が驚いて尋ねてみると、

「私は吉祥天(きっしょうてん)です。私が住み着いた家には、あらゆる幸せが訪れますよ」

というものですから、主人は大喜びです。急いで彼女を招き入れ、手厚くもてなしました。ところが、ふと玄関を見ると、もう一人の女性が門口に立っております。こちらの女性はひどくみにくく、見るからに貧乏たらしいのです。体全体が垢だらけで、着ている衣服もぼろぼろです。

「お前は何者だ」

主人がむっとして言うと、

「私は黒闇天(こくあんてん)だ。自分が行くところ、必ず災難がついてまわる。貧乏神とは私のこと。」

冗談ではありません。こんなのに住みつかれては大変です。主人は早々にこの女を追い出そうとします。すると黒闇天が、

「あんたはばかだねえ、さっきの吉祥天は私の姉だよ。私たち二人は、いつもいっしょに行動しているのだよ。」

はっと気がつくと、福徳の神の吉祥天の姿もいっしょに消えておりました。

  ずいぶん昔のお経の話ですが、現在の私たちが読んでも、なるほどと思える話です。世の中には、いいことと悪いことがいつも対(つい)になっています。人生に対して常にいいことばかりを求めようとするのは、どうしても無理があります。自然のうつりかわり一つを見ても、年中が過ごしやすい春や秋ばかりというわけにはいきません。たまらぬ暑さの夏や、きびしい冷え込みの冬と対(つい)になって、日本の季節はなりたっているのです。世のなかは上を見てもきりがなく、下を見てもきりがないものでありましょう。なんでも不平に思う人には、日の光や風の音までが不満の原因となります。私たちが気持ち一つを切り替えるだけで、ずいぶんたくさんのことは、おのずと解決の道が開けるものです。

  日本の神道では「節(ふし)」という言葉をよく使います。私たちが生きていく上で、不幸なことやトラブルはどうしてもさけられません。信仰の道を歩んでいく中でも、やはり不運なことは起こってまいります。このことを「節」と呼ぶわけです。トラブルにぶつかったときに

「自分はあんなに信仰しているのにこんな目にあった、まったく御利益がない。もう信心などやめた。」

と、さじを投げてしまう人はしょせん、それでおしまいの人です。この程度で挫折するのでは、本当の信仰心をもっていたとはいえないでしょう。

  たとえて言うなら、いわば丸太から彫刻を作るようなものです。木を削っていくと、その中から、表面には現れていなかった「節」が出てまいります。「節」が出たからといってそこで削るのをやめてしまったら、何もできはしません。逆に、「節」があるからこそ、こちらがどれだけ熱意をもって木を削ろうとしているのかが、はっきりとわかるのです。うその信仰と本当の信仰との違いは、ここでこそはっきりするといえましょう。神仏はちゃんとそこを見ておられます。

 竹にも「節」があります。竹は多年草(たねんそう)に分類されており、要するにそのあたりに生えているススキやエノコログサと変わりません。単なる草なのになぜ竹があんなに頑丈なのかというと、数十センチごとに「節」がついているからなのです。「節」のない部分に試しに刃を入れてみると、一発で根本まで裂けてしまいます。世の中には小さい頃から恵まれた環境で育った人がいますが、こういう人はトラブルに見舞われたが最後、とたんにガタガタになってしまいます。死なない程度に苦労するということは絶対に必要なことで、この苦労のことを「節目(ふしめ)を越える」と言い、苦難を乗り越えることに人生は頑丈なものに変わるのです。小さい頃から辛酸をなめつくしたという人の人生は確かに大変でしょうが、そのことによって少々のことではびくともしない、心の丈夫な人が出来上がるのもまた事実です。漫画家のペンネームで、「これはやられた」と思いますのが、

・しりあがり寿(しりあがりことぶき)さん→いかにもめでたい

・辛酸なめ子(しんさんなめこ)さん→これはスゴイ。ある意味「確信犯」であります

の二つですが、辛酸なめ子さんなどは「友達から『薄幸そうだ』と言われる」ためにこのペンネームをつけ、それを逆手にとって逆にメジャーな人になってしまっています。何しろ、ネーミングのインパクトが抜群ですから。

  真面目な話に戻って、「友人」について考えてみてもよろしいでしょう。よく言われるように、自分が権力の絶頂にあるとき、または裕福なときに寄ってくる人たちは、本当の友人とはいえません。本当にたよりになる友人とは、どん底まで落ち込んだときにも、以前とかわらぬ付き合いをしてくれる人のことです。信仰もこれと同じなのです。「節」にぶつかったときにこそ、信心が本物か、にせものかが問われるというものなのです。

どうしようもなくなった時には、

「これは神仏が自分に与えられた試練なのだろう。こんなときに全力をつくすのが、本当に教えを受けた者というものだろう」

と考える人こそが、「節」をのりこえて、もうひとまわり大きな人間となれ、これまで以上の人生を送れるわけです。その時にすがれるものとして、信仰に勝るものはないでしょう。

合掌

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高野山真言宗清涼山不動院

 

 

ともしび 

第七号  

 

身も心も預かりもの

 

  「世の中には、ひとつとしてわがものというものはない。すべてのものは、ただ因縁によって、自分のところに集まったにすぎないのである。すべてのものは私たちが、一時的に預かっているだけにすぎないのだ。」

「法句譬喩経(ほっくひゆきょう)」というお経にあるお釈迦さまの言葉です。  ふつう、私たちは自分の財産、自分の地位、自分の名声はことごとく自分の所有物であると思っております。しかし、財はいつ減るかわからず、地位はいつ失われるかわからず、名声にはいつ傷がつき、悪名にかわるか知れたものではありません。さらには、この私たちの身体すらも、本当に自分の自由になる所有物ではないのです。たとえば、今ここで、自分の身体が傷つけられたとします。血がほとばしり、このままでは命にかかわる事態としましょう。

「頼む、血液よ止まってくれ、お前は私のものだから止まれ」

と、いくら頑張ったところで血は勝手に流れるものです。また、悩みごとにさいなまれたときに、

「神経よ、お前はどうしてそんなに私を苦しめるのだ。お前は私の持ち物なのだから、悩むのをやめろ」

というように、いくら頼んだところで一向に悩みはなくなりません。もし、自分の意志でそうしたものをコントロ-ルできるなら、医師や神仏の力を借りる必要はないでしょう。

  こうしてみると、世の中のすべてのものは、人間であれ、その他のものであれ、どれひとつとして「わがもの」というものはないことがわかります。みんな私たちは一時的にあずかっているにすぎません。それにもかかわらず、人間は「これは私のものだ」と言い張って争いを起こします。お金や地位がなければ生きていけないのも事実ですが、これらにこだわって争ってばかりの人生も実に味気ないものでしょう。それらにとらわれる、こだわるのは煩悩(ぼんのう)のなせるわざです。

 不動院では毎月の法要で「現代語訳のついたお経」をお唱えしています。礼拝の言葉から真言まで、全て現代語訳がついており、必要に応じて住職が補足説明も加えています。そのお経の中心にあたるのが「般若心経(はんにゃしんぎょう)」ですが、同じことを説いています。「世の中には一つとして絶対のものはない。全て仮りのものに過ぎず、それを永遠なものと思い込むことから、人間の苦しみのほとんどは発生している」という教えです。これを仏教の言葉では「空(くう)」と申します。そして

「本当にあてになるものなど無い」「絶対だというものも無い」

ということが何度も繰り返されております。その結果、般若心経には「空」という言葉が六回、「無」が二十一回も登場します。いかに何度も強調されているかが分かります。

  もう一つたとえ話をいたしましょう。お釈迦さまが祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられたとき、お弟子たちに四人の妻をめとった男の話をされたことがあります。その男は第一の妻を一番愛して大事に扱い、第二、第三の妻はそれなりに扱い、第四の妻は下女のようにただ働かせるばかりでありました。あるとき、彼は遠い異国へ旅立たねばならない用事ができ、第一の妻を呼んで同行してくれないかと頼みました。ところが彼女は

「いくら愛していても、そんなところへ行くわけにはまいりません」

と、ことわってしまいます。そこで第二の妻に頼むと、これもむげに断わられてしまいます。第三の妻に頼むと

「城の外くらいまではお見送りいたしましょう」といいます。

  仕方がありません。とうとう第四の妻のところへ行き、同行してくれるよう言うと

「喜んでお供しましょう」

とのこと。やむなく彼は、第四の妻を連れていきました。

  お釈迦さまはそこで、次のように説くのです。

「弟子たちよ、実はこの男の旅立つ異国の国とは、死の世界のことである。そして第一の妻とは人間の肉体のことで、いくら生前にそれをかわいがっても、あの世に道連れにすることはできない。第二の妻とは財産で、これらも死ぬときにはあの世にもっていくことはできない。第三の妻とは家族や友人で、死んだのときには野辺の送りぐらいはしてくれても、とてもあの世まではついてきてくれない。しかし、第四の妻とは人間の心で、生前はないがしろにしているが、これこそあの世までつきそって離れないものなのだ。」

「人間の本性は、その棺をおおってからわかる」とも言いますが、生前にどんなことをなしとげ、どんな影響を世間に与えたかは、やはり当人が死んでからでないとわからないということが多いようです。その肉体が消滅しても、なおかつ後々の人へ伝えられるなにものかが残っている人、こういう人になりたいものであります。財産や地位といった「一時の借りもの」を返しても、なおかつ残っていく何かがほしいものですね。

  神道の教えを和歌に詠んだ、神歌(しんか)をご紹介しましょう。

 

富めるとも  貧しきとても  死ぬときは  白き衣と  悔いとくるしみ

(訳 金持ちであっても貧しくても、死ぬときには白い衣を着て、悔いと苦しみしか残らないものである)

 

地位も名誉も死後に残すのは至難のわざですが、「徳」だけは残ります。悪いことをすれば「悪徳」が残ってしまいますので、残された家族や子孫が迷惑をします。ぜひ、良い方の徳を残していきたいものであります。

合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院

 

 

ともしび  

第八号  

 

言うはやすく行うは難し

 

  中国の唐の時代の非常に有名な詩人に「白楽天(はくらくてん)」という人がおります。この白楽天がある僧侶に向かって質問をしました。

「和尚、仏教とはいったいどんな教えですか」

僧侶はすぐに「七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)」のことである、と答えました。「七仏通戒偈」とは非常にわかりやすい仏教の実践項目で、次のようなものです。

 

諸悪莫作(しょあくまくさ)    もろもろの悪をなすことなく

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)  もろもろの善を実行し

自浄其意(じじょうごい)      自らその心を浄(きよ)くすること

是諸仏教(ぜしょぶっきょう)  これが仏陀の教えである

 

  もっとわかりやすく言えば、悪いことをせず、善いことを行い、心を清い状態にすること、これが仏の教えだということになりましょうか。

  白楽天はこの文句はとっくに知っていたので、

「そんな簡単なことですか。そんなことは三歳の幼児だって知っていますよ。」

と言って笑いました。僧侶はすかさず

「三歳の幼児だって知っていると言ったが、それならあなたはこれを実行していますか。三歳の幼児でも知っているかもしれないが、八十の老人でも行うのは難しい。」

と答えると、白楽天は二の句もつげず謝ったそうな。本当のことを言うと、これは実話ではないのだそうです。私もつねづね、

「あの枯れた感じの詩を作る白楽天にしては、この発言は不用意だなあ」

と思っておりましたので、やっと納得できた次第です。もっともこのエピソードはかなり有名で、禅宗の曹洞宗(そうとうしゅう)を開いた道元禅師(どうげんぜんし)もこの話について言及しておられます。間違った話を広められた白楽天としてはいい迷惑でしょうが、この話は「わかる」と「できる」とは全く異なるということを示した逸話として広く知られております。

  私たちはとかく、むずかしい理屈をこねさえすれば、人間が進歩したように感じたり、勉強をしたような気分になったりするものです。しかし、いくら仏陀の教えが立派だとはいっても、それを実行に移さなければ、それこそ絵に描いた餅にすぎません。極端な言い方をするなら、理屈は二の次でいいのです。仏教をただ単に知識として知っているだけでは、一般の学問とかわりません。たとえ少しずつでもいましめを守り、生活に役立たせていかねば、それは宗教ではないのです。

  教えの勉強などまったくせずとも、行動をつつしんで道に到達した人もたくさんおります。 お釈迦さまの弟子にチュ-ラパンタカという人がいましたが、この方は大変頭が悪いので有名でした。他のお弟子たちがお釈迦さまに、

「どうかチュ-ラパンタカを弟子に迎えるのはおやめください。あいつは大変物覚えが悪くて、何か覚えるなどということがまったくできません。仏教の教えなど到底学べませんので、悟りがひらけるわけがないと思います。」

と口々に言いました。しかし、お釈迦さまはどうしても聞き入れられません。仕方なくみんなでチュ-ラパンタカにお経を教えはじめました。

  ところが、一番最初の部分の、たった一行めがまずわからないのです。お弟子たちは毎日毎日、彼に最初の一行を朝から晩までくりかえし教えましたが、どうしても頭に入らないのです。あまり毎日同じことをくり返しているので、修行場で小使いをしていた子供が先に内容を聞き覚えてしまい、あくびをしながらすらすらと暗唱するしまつ。根気強く教えていたお弟子たちもさすがに頭にきて、彼につらくあたるようになってしまいました。

  チュ-ラパンタカが一人で嘆き悲しんでいますと、お釈迦さまが通りかかりました。事の次第を聞いてお釈迦さまは一本のほうきを与え

「これで塵(ちり)をのぞこう、と言いながら掃除をするだけでよろしい」

とはげまされました。彼は言いつけ通りのことを黙々と実行しているうちに、師の教えである、

「人の世の迷いは塵(ちり)や垢(あか)なり。知恵はこれ心のほうきなり」

(=人の世の心の迷いは、ちょうど塵や垢と同じである。知恵は心のほうきで、これで掃除をしてきれいにしよう)

という意味を身をもって知り、同期の者のなかで最も早く悟りを開くことができたのです。彼を日頃からばかにしていた人々は仰天しましたが、チュ-ラパンタカは、おだやかにほほえむだけでした。

彼などは先ほどの話とは逆に、知ることより、行うことに黙々とはげんだわけです。どちらが好ましいことかはお分かりでありましょう。 私は神道の神主の資格も持っておりますが、神道には教典がありません。あるのは「行事」だけなのです。新年にはこのような行事を行う、六月末には夏越(なごし)の祓(はら)いを行う…などなど、決められた時期に決められた行事を執り行うのみで、教典がなく「行(ぎょう)」しかありません。「根本教典がないから神道は宗教ではない」とおっしゃる方が時々いらっしゃいますが、果たしてそれはどうなのでしょうか。正しい行いだけでも立派な信仰の道であると私は思うのです。百の理屈より一の実践が尊いのではないかと考えております。

合掌

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ともしび  

第九号  

 

人生は水車のごとく

 

  私たちの人生はちょうど、一昔前に川岸にみかけた水車にたとえることができましょう。その下の部分は水流にしたがい、上の部分は水流にさからって回っております。すべてを水中に入れれば回らずにおし流され、水からはなしてしまえば、今度は水車が回ることがありません。

  この水車と水流との関係は、自分というものと、世間というものとの関係に似ております。こちらが世間の中にどっぷりつかっていたでのでは、どうしても人間的な向上がないでしょう。そうかといって世間から浮き上がってしまっては、ただの偏屈者になってしまいます。自分の身の半分を世間にひたして世間なみの生活はし、残りの半分は世間の流れに逆らってでも、本当にやるべきことをやるという、いわば二刀流を使い分けないと人生はうまくいきません。このかねあいがむずかしいところです。

 とかく私たち日本人は、このようなバランスをとって生きるのがどうも苦手のようです。お国のために戦前は敵艦に体当たりしたかと思えば、戦争に負けたとたん、昔のうるわしい人情までも捨ててしまって権利、権利の一点張りになってしまったような感じもします。何事にせよほどほどというのが一番大切なのですが、よく考えないと極端から極端へ走ってしまうことになります

「百喩経(ひゃくゆきょう)」には次のような話があります。

  あるところに愚か者がおりました。友達に夕食に招かれ、料理に手をつけてみるとまるで味がありません。そこでそのことを友達につげ、塩加減を調節してもらいました。すると今度はたいそうおいしくなりました。愚か者は、

「これはなんて味のよい塩なのだろう。これをもっとたくさん入れれば、もっとうまくなるに違いない」

と考え、帰りにその塩を分けてもらいました。家に帰ってさっそく、その塩を料理にたっぷりふりかけてみましたが、塩からいばかりでちっともおいしくありません。これは自分の舌がどうかしているのかと思い、今度は塩ばかりなめ続けたらとうとう病気になってしまいました。

  人生の塩加減の大切なことがわかりますね。お金がなければ暮らせませんが、「全ては金だ」「もうけこそが第一だ」と、利益ばかりに突っ走れば、守銭奴(しゅせんど)の道に落ちます。だからといって世を捨て、家族を捨て、山のなかで一人で暮らすわけにもいきません。それはこの世の中から逃げているにほかならないのです。世俗の中に暮らしながらも、なお清廉(せいれん)な心を持って生きていくのが理想です。

  仏教ではそのような生き方をもっとも好ましいものとし、仏さまにもその理想の姿を追いもとめました。それが「菩薩(ぼさつ)」です。「菩薩」という言葉はくわしくは、

「もうほとんど悟りを開いていらっしゃるのだが、あえて仏にならないで、人間のままでいらっしゃる方」

という意味になります。仏様になれるのに、なぜわざわざ「菩薩さま」は人間のままでいて、人間世界にとどまっていらっしゃるかというと、その方が私ども凡夫を救いやすいからなのです。

  さとりを開いてしまわれた仏さまは、この世にはおられません。たとえば阿弥陀さまは、西のかなたの極楽にいらっしゃいますし、お釈迦さまも薬師さまも同様に、この俗世間からは姿を消されています。たとえばここで、私たちが困りぬき、救いを求めるとします。こういう時にはどんな方に一番相談をしやすいでしょうか。多分、自分の近くにおられる、身近な方ではないでしょうか。このように菩薩さまは、私どもを少しでも救いやすいようにと、わざわざご自分のさとりまでなげうってくださっているのです。菩薩さまと言えば、「観音菩薩」や「地蔵菩薩」がよく知られています。つまり、あの、観音さまやお地蔵さまのことです。

  仏教では菩薩の生き方をよく蓮(はす)の花にたとえます。蓮の根の部分は泥の中深く埋もれていますが、だからといって花まで泥だらけにはなっていません。泥の中からきれいな茎がのび、汚れのないまことに美しい花を咲かせます。おもしろいことに、神道の神歌(しんか)にも、

 

濁(にご)り江(え)の水に育つも蓮花(はちすばな)

                            なお清浄(しょうじょう)の色を忘れず

訳 濁った水の中に育つ蓮の花だが、それでもなお、きれいな色を忘れていない

 

というのがあり、仏教や神道の別なく、このような生き方が理想とされたということがわかります。私たちも、まずは無理のない善行を積むことから始めて、蓮の花のように生きたいものでありますね。

合掌

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ともしび  

第十号  

 

さかさメガネで見る話

 

  だいたいアメリカの学者というのは、突拍子もない実験をするのが好きです。ずいぶん前に、「バイオスフェア2」という、「小さな地球を作る」実験が行われました。まず、甲子園の何倍といった広大な土地にガラス張りの巨大なド-ムを建て、中には山や野原や海を作り、海の波までも人工的に作り出して地球そっくりの環境にします。そこに科学者のチ-ムが乗りこんで、丸二年の間、外と全く接触をせずに暮らしてみるというもので、現在のエコ環境を考える実験の最初とも言えるものでした。さて、三十年前のアメリカの心理学者ストラットンの実験も、実に珍妙でした。

  彼はなんと、「外界が逆さまに見えるメガネ」を作ったのです。上下、左右がこのメガネをかけると、全く逆さまに見えます。人間は頭を下にし、足を上にして歩いているのが見えます。外へ出ると道は頭の上にあり、足の下に青空が広がっています。歩いていてポストをよけようと思っても、左右も逆に見えるものですから、自分のほうから思い切りぶつかりにいってしまいます。一番困るのはひげをそる時だそうで、さぞかし怖かったでしょう。彼はこのメガネをかけて八日も生活しました。ご苦労なことです。

  ところが、人間の慣れとはこわいもので、五、六日を過ぎるころには、そうメガネの中の逆さまの世界が苦痛ではなくなってきました。逆さの世界も、慣れてしまえばたいして苦痛になりません。最後の日には、普通の生活には困らないほどになっていました。ストラットンが本当に驚いたのは、実はメガネをはずした九日目のことです。

  メガネをはずしたとたん、彼には非常に変な景色が見えました。人間が足を下にして歩き、天は上にあり、地は足の下にある世界です。つまり私たちの普通の世界ですが、さかさメガネの世界に慣れてしまった彼には、何とも不思議な感じのする光景でありました。しばらくは歩くのにも困りました。

  これが有名なストラットンの実験です。ひまなことを考える奴だとお思いの方も多いでしょうが、私たちには彼のことは笑えないでありましょう。というのも、私たちも、とかくこのような「メガネ」をかけてものを見てしまうからです。さすがに上下左右がさかさには見えませんが、「先入観」というものでくもってしまったメガネはかけてしまうことは多いものです。俗に言う「色メガネで見る」とはこのことでありましょう。私たちはとかくひとがらや誠意よりも、地位、肩書き、財産、権力などで相手を評価してしまうものであります。有名ブランドの物なら飛ぶように売れますが、名前の売れないメ-カ-のものとなると見向きもされません。本当に大切なものは何かということを、常に心にとめておきたいものであります。

  とんちで有名な一休禅師(いっきゅうぜんし)が大人になってからの話です。非常にごうまんな、大金持ちの家から使いがきて、

「明日は父親の一周忌にあたる。禅師さまにお越しを願いたい」

とのことです。一休さんは乞食坊主の姿で玄関に現れ、

「ごめんくだされ、当家の主人にお目にかかりたい」

と言って入っていきました。家のものは禅師を乞食坊主とばかり思い、散々になぐってたたき出してしまいました。

  今度は一休さん、お供の者を従え、緋(ひ)の衣に金らんのけさをつけ、威儀を正して門をくぐります。今度は主人がぺこぺこして迎えますし、門の外には見物の人だかりの山ができています。しかし一休さんはにこりともせず、

「ご主人、さきほどは痛いもてなしをしていただき、かたじけなかった。」

「は、痛いもてなしとは何でございましょうか。」と主人。

「何をかくそう、先ほどの乞食坊主はわしでござるよ。」

「えっ、何とおっしゃいます。」

「みすぼらしい姿で来れば下男にたたかれ、金らんのけさをまとえばこの通り、下へもおかぬもてなしじゃ。そんなに金ぴかの衣がお好きなら、この衣にお布施をつかわされてはいかがじゃ。乞食坊主よりはるかに功徳がござろう。あっはっはっは」

大笑いして衣をその場にぬぎすて、後もふりかえらずに帰ってしまいました。金持ちの主人はすっかり恥じ入ってしまったといいます。

  地位や肩書きばかりを追ってあくせくしているうちに、いつの間にやら私たちは本来の自分まで失ってしまいがちです。こんなときにこそ、神仏に祈る気持ちを思い出したいものですね。

合掌

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