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ともしび                 

第四十一号  

 

運命を変える話

 

  誰でも、次のような疑問を持つことがあるのではないでしょうか。

「自分の運命というものは、ひょっとして全部決まってしまっているのではないか。お金はどのくらい持てて、何歳まで生きて、どんな配偶者とつれあうかも、あらかじめ決まった運命があるのではないだろうか。」

  答えは、イエスです。人間の運命はその人が誕生した時点で、九十パ-セント程度は決まっていると言えます。生まれたての赤ん坊を前にして、この子はどんな相手と結婚し、かかりやすい病気はこれで、どんな勤め人になるか、などをはじき出すのは、実はかなりたやすいことなのです。

  しかし、あくまでこれはその人が「何ら精進をしない」場合に限ります。人間の持って生まれた運命が一番劇的に変わりやすいのは、よく言われているように宗教に関してです。宗教家であるとか、何かの神仏の熱心な信仰者とかいった場合は、見事なくらい、生まれつきの運命が変わります。日本で易学を完成させた鶴屋南北(つるやなんぼく)自身、下賤で短命のはずだった自分の運命を、自分でかえていき、この方面の大成者となりました。特に信仰をせずとも、人の道をよく守る律儀な人や、隠徳をつむ人はいくらでも運命など変わります。ですから、先ほどの問いは「自ら精進する人」に関しては、「絶対にノ-である」と言えましょう。

  中国に「陰隲録(いんしつろく)」という書物があります。

宋(そう)の王朝の頃、袁(えん)という少年が早く父を失い、母を助けるために医者になる勉強をしていました。ある日、相当な腕前の易者があらわれ、彼の運命を占いました。

「お前さんは、医者になるよりも役人になりなさい。おしいところで試験には失敗するが、翌年には二番で合格する。中央には配属されず、地方の官吏になるだろう。大して地位は上がらないが順調な人生だ。中央政界には戻ってはこられない。三二歳で結婚し、寿命は六五でつきる。子供はできない。」

  袁は予言の通りに役人の試験の勉強をしました。すると本当に最初の試験はわずかに点数が足らずに落ち、翌年には二番で合格できました。地方に配属されるのも予言の通りで、三二歳で結婚し、言われたように子供には恵まれませんでした。袁は、

「なるほど、本当に人間の運命は決まっているのだな。それならくだらぬことに心を悩ませたり、野心を持ったりするのはおろかなことだ。」

と思い、一種の悟りの境地に達していました。

  ある日、袁は、たまたまそのことをある禅僧に話しました。すると禅僧は大笑いして、

「なんだ、お前さんはくだらない悟りを持ったものだ。生まれた運命が決まってしまっているなら、昔から聖人や偉人が修行や学問をしたのは何のためだ。運命などは自分で作っていくものだ。」

と喝破(かっぱ)したのです。驚いた袁は教えられた通りに、人の道をはずさぬよう努力をかさねました。すると不思議なことに、あれほど的中していた予言が、みんな外れるようになってきました。中央政界には縁がないと言われていたのに、都の長官になれ、出世もできました。寿命も六五を過ぎたのに死にません。何より、四十を過ぎてから「絶対出来ない」と言われていた息子が誕生したのです。

  晩年になってから袁は、息子にぜひこのことを教訓として残したいと思い、「陰隲録」を書きました。この話は、著者自身の経験による実話なのです。このように、人の考え方がかわり、人格がかわるならば、その人の運命もまた変化するわけです。

  では、具体的にどんなことをすれば、運命がかわるのでしょうか。ここでも中国の古典を参考にしましょう。中国人というのは、実は非常に現実的な国民で、はるか昔に、「こうすれば運命はかわる」という「一覧表」を作っているのです。やり方は簡単、夜寝る前に自分の一日の行動を思い出し、「やってはいけないこと」はなかったか、「やるべきこと」をいくつ実行したか、指を折って数えるのです。毎日この点数を積み重ねて、「やるべきこと」の点数が増えるほど、運命はよくなるといいます。(何だかテストみたいですけど…)

  ともかく、これを実践して自分の運命をかえ、一介の農民に過ぎなかった生まれながら明(みん)の大将軍にまで出世し、豊臣秀吉の遠征軍をむかえうった男も実際にいます。来月のともしびにくわしく書きます。お楽しみに。

                        合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院  

 

 

ともしび                 

第四十二号  

 

運命を変える一覧表

 

   先月の続きです。いよいよ実際の一覧表を紹介しましょう。何しろ千年以上前の本ですから、本来はもう少し難しい用語が使ってあるのですが、ここでは、 良いものは、プラス何点、悪いものは、マイナス何点

というように書いて分かりやすくしました。また、「奴隷を売りとばす」とかいった、現代社会とずれている内容は割愛してありますので念のため。

 

プラスの行い

神仏を敬うのは一回につきプラス百点

卑猥(ひわい)な話を聞いて、心を動かさないのはプラス一点

美人を見てやましい心を持たないのはプラス五十点

人の失敗を見て気の毒に思うのはプラス一点

人が喜んでいるのを見て、自分もうれしく思うのはプラス三点

うまくいっている時でも、おごった心を持たないのはプラス三十点

逆境の時にもやけをおこさないのはプラス五十点

他人に働きかけてよいことを行わせるのはプラス二百点

他人のギャンブルを止めるのはプラス五十点

他人の色遊びを止めるのはプラス五十点

他人が堕胎(だたい)するのを思い止まらせるのはプラス百点

他人の家庭が円満にいくように働きかけるのはプラス百点

うそを言わないことは、一日につきプラス五点

困っている人を救うのはプラス五百点

子供を教育して正しく導いてやるのはプラス五百点

橋や公園などの公共施設を直したり、掃除するのはプラス百点

食物や飲み物を人に恵むのはプラス一点

雨具を人に施すのはプラス一点

 

マイナスの行い

神仏をそしるのはマイナス千点

財産問題などで肉親を憎むのはマイナス五百点

自分に意見してくれた人に口ごたえするのは、一件につきマイナス五十点

美人を見てみだらな心をおこすのはマイナス三十点

人の成功を見て嫉妬するのはマイナス三十点

人の失敗を見て愉快に思うのはマイナス三十点

つまらぬことで腹を立てるのは、一件につきマイナス一点

人の秘密をあばいて喜ぶのはマイナス百点

人のかげ口を言うのはマイナス三点

自分のことを自慢に思うのはマイナス一点

婦人にみだらなことをするのはマイナス千点

人を傷つけるのはマイナス千点

浮気をするのは一回につきマイナス五百点

堕胎をするのはマイナス三百点。快楽を追うためだけの結果の堕胎なら、マイナス六百点に倍増される

みだらな遊びや、ギャンブルをするのはマイナス三百点

人の家庭に波風を立てるようなことをするのはマイナス三百点

子供や使用人、部下などをいじめるのはマイナス五十点

たちの悪い人とつきあうのは一日につきマイナス十点

酒に「飲まれる」のはマイナス五点

寝ころがってお経などの、尊い本を見るのはマイナス一点

人の話をこっそり聞くのはマイナス三点

 

いかがでしょうか。プラスよりマイナスの方が点数が相当大きく、なかなか厳しいですね。また、「人を殺す」とか、「盗みをする」などが入っていませんが、こんなことは悪いに決まっていることですので、あえて揚げないようです。  そういえば、徳川時代には武家の奥方たちが、子供たちの教育をするのにこれをよく使っていたそうです。子供が良い行いをしたら糸巻きに赤い糸を「点数の分」だけ巻き、悪い行為ならその分だけ白い糸を巻いて、善行を奨励したそうです。現代の私たちも参考にしたいものですね。ぜひご活用ください。

                        合掌

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ともしび                 

第四十三号  

 

泣きばあさんの話

 

  昔、泣きばあさんという人がいて、毎日毎日泣いてばかりいて暮らしておりました。通りかかったお坊さんが、

「おばあさん、どんなつらいことがあるのですか。わけを言ってごらんなさい。私にできることなら、なんとか力になってあげよう。」

と尋ねました。おばあさんは涙をふきふき、

「私には二人の娘がいて、二人とも一人前になってとついでおります。ところが、上の娘は傘屋に嫁に行き、下の娘はぞうり屋に嫁に行ったものですから、天気の日には上の娘の家が、傘が売れないで困っているだろうと思うと泣けてたまりません。雨の日は雨の日で、下の娘の家のぞうりが売れないで困っているだろうと思うと涙がどうしてもとまりません。そんなわけで毎日泣いているのです。」

とのこと。お坊さんは大笑いして、

「なんだそんなことですか。とんだ見当違いだ。天気の日には下の娘のぞうりが売れるのだから喜べばよい。雨の日には上の娘の家の傘が売れるといって喜べば、毎日喜びの生活ができますわい。」

こんな極端な話でなくとも、人間はほんの少し考え方を変えるだけで、ずいぶん気が楽になるものです。なんでもないことにとらわれてクヨクヨ悩むだけでは将来は全く開けませんし、未来を不幸にしていくだけです。あらゆる宗教が最初に教える内容はだいたい一緒です。それは、

「明るく、陽気に生き、心を楽しませなさい。そうすれば生きる楽しさが味わえます。」

というものです。経済的にどん底だとか、体の状態が悪い人になぜこんなことを教えるのかと思われる人もありましょう。会社がつぶれて首をくくらなければならないかもしれないのに、何が「明るく陽気に生きろ」だ、まったくナンセンスだとしか考えられないかもしれません。しかし、このように不幸な出来事が続くときこそ、「自分自身がマイナスの考え方をする」ことは慎まねばならないのです。

「毎日がなんてつまらないんだ。ああ自分ほど不幸な人間はない。ああつらいつらい。」

こんなことを毎日毎晩言い続けていますと、本当にその人は遠い未来まで真っ暗になってしまい、よいことなど一つもおきてこなくなるから不思議です。このようなどん底の時こそ、反対に気持ちだけでも明るく、前向きな状態に保ち続けることが大切なのです。

  易学には「人相」という分野がありますが、この「人相」とは、単に顔の吉凶だけを見るものではありません。しゃべり方や手足の長さ、座るときのくせや「ねぞう」までが実はこの「人相」に含まれるのです。その「人相」に「歩き方の相」というものがあります。たとえば、

「胸を張って堂々と歩くのは自信があらわれている証拠であり、運勢も上向きである。こういう人は信用できる。」

といったような内容です。こんな項目もあるのです。

「うつむきかげんに肩を落として歩くのは、運気が下降し、不幸が相つぐ凶相である。精神的にまいると、みなこの歩きかたをするものである。だが、不幸なときこそ、肩をはって背筋をのばし、堂々とした姿勢を保たねばならない。そうでないとどんどん不幸なことばかりが起きるものである。」

何のことはない、仏教の教えと全く同じなのですね。「思う一念岩をも通す」と言いますように、人間の精神の働きというのは決してばかにできません。必ずできると強く信じる人は、いつか本当に開運してしまうものなのです。たとえうそでも、無理やりにでも、プラスの考えを持つということは不幸な状態のときに大切なことなのです。

  とはいっても、そんな明るい楽しい将来をにわかに信じろというのも無理な話です。それでこそ「信仰」の生活が生きてまいります。世の中の人間すべてに裏切られたとしても、神仏は決してその人を見捨てたりはしません。み仏の教えを学び、身を慎んで他の人に少しでもほどこすことを続けていけば、この浮世への考え方もおのずと変わってまいりましょう。自分のことばかりを考えていた頃には気がつかなかった、人の心の本当のぬくもりが感じられるようになってくるものです。自分がみ仏の大きな慈悲で生かされているということに、お互い、早く気がつきたいものですね。

                                                              合掌

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ともしび                 
第四十四号  

 

人生の方向音痴

 

  個人的な話ですが、私はかなりの方向音痴です。地図がないととても動けるものでなく、車に乗るとちゃんと目的地についてしまう人を見ると、感動さえ覚えます。もっとも最近ではカーナビが非常に発達し、音声ガイドでどこへでも正確に連れて行ってくれるようになりましたので、大変助かっております。そうそう、方向音痴と言えば、消防庁が行った実験結果が以前新聞に出ていました。
  その実験とは、実際に火事で煙りが出れば見通しがきかないので、そういう場面を想定し、つま先の少し前くらいしか見えないように深い帽子をかぶって行われました。最初は矢印のついた迷路を歩き、帰りは矢印をはずして、道順を思い出しながら戻るというものです。ずいぶん難しい実験のようですが、一度では出来ない人でも、何度もこれをくり返していくと、大多数の人はほぼ正確に戻れるようになったそうです。しかし、何人かはどうしても成績があがらない、いわゆる「方向音痴」の人間が残ってしまいました。科学的に統計をとってみても、こういう人間が実際に存在することが証明されたわけですね。
  道順をちゃんと覚えてしまう人はうらやましい限りなのですが、これが人生の道順となればどうでしょうか。毎日の忙しい生活の繰り返しの中で、いったい自分はどこに向かって進んでいるのか、人生の目的は何だろうかという、極めて基本的な問いすらも持たないまま過ごしてしまうのは、とても残念に思います。人間は弱いもので、どうしても惰性に流れやすいものです。そしてそういう状態の時には、自分の生活をふりかえる謙虚さも薄れがちになり、判断力も甘くなってどうしても失敗をしがちになります。
  ヘロドトスの「歴史」にこんなエピソ-ドがあります。古代ペルシャ帝国のダレイオス王が、スキタイ軍と対戦しました。ある日、スキタイ軍からダレイオス王に使者が送られてきましたが、使者は普通たずさえるべき文書を持っていませんでした、かわりに持ってきたのが、
小鳥とネズミ、カエルと五本の矢です。使者は
「ペルシャ人に知恵があるなら、贈り物の意味を自分で考えろ」
と言って引き上げてしまいました。ダレイオス王は、
「ネズミは地中に住み、カエルは水中に住む。スキタイは降伏し、土と水を献じるつもりだろう」
と解釈していました。のんきな話です。ペルシャ軍の指揮官の解釈は違いました。
「ペルシャ人どもよ、お前たちは鳥になって天に舞い上がるか、ネズミとなって地中に潜るか、カエルとなって水中に飛び込むかしない限り、この矢に当たって無事帰国することはできないであろう。」
実際にはスキタイは総攻撃の準備をしており、ダレイオスは部下の意見をいれて途中で方向転換したからよかったものの、危機一髪のところで命を落とすところでした。ダレイオスは普段の安穏とした生活に慣れてしまって慢心の心が出たようですが、彼が恵まれていたのはしっかりした部下を持っていて、危ういところで彼に導いてもらえたことです。一国の王なればこそ優秀な人材が配下にいて相談できましたが、われわれ一般の人間ではとてもこうはいきません。いったん災難などの壁にぶつかったり、悲しみのどん底に落ちたりすると、世間の風というのは冷たいもので、頼りにしていた友人や取引先も態度が変わったり、羽振りのいいときには下へも置かぬもてなしだったものが、手のひらを返すような扱いを受けることも多々あるものです。
  人生は絶対にまっすぐ進めません。山があれば谷もあり、紆余曲折のない生涯もありえません。そういうトラブルのたびごとにお金や出世、名誉を夢見て生きてきた人は意気消沈してしまい、人生の方向を見失ってやけを起こしがちです。そんなときこそ、人生の行く手を照らす信仰という名のともしびが要り、私どもを導いてくださる神や仏にすがる必要がありましょう。この点、キリスト教の教えも同じです。動物のなかで羊は全くの方向音痴の動物で、自分ではどこにも行くことができません。したがって、羊には必ず羊飼いが必要です。聖書では、人間をこの羊にたとえ、イエス・キリストを羊飼いにたとえています。人間は羊のように自分だけでは人生の目的地を知ることは出来ません。キリストは羊飼いのように、人間を迷う事なく正しい道に歩ませてくれるとして、「羊飼いと羊」のモチ-フはあちらの絵画などに実に良く登場しております。  私たちにとって「羊飼い」にあたる方が神なのか、仏なのか、阿弥陀様なのか、お大師様なのか、人それぞれご縁によって異なりましょう。ただ、まっすぐにみ教えを信じ、精進の道を歩むことだけは忘れないようにしたいものです。

 

合掌

 

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ともしび                 

第四十五号  


雨が降れば傘をさす
  私的な事を書きますが、私は経営関係の本を読むのが非常に好きです。経営者ほど厳しい道はありません。人がいいばかりでは会社はつぶれ、だからといってがめつく儲けるばかりでは人がついてきません。管理職などは本当に大変で、部下を動かすにはまさに自分の骨身を削らねばなりません。
  まさに人生の真実をある程度は体得しないと、会社などはおこせないのではないか、そんなふうにも思えます。数ある経営者のなかでも有名なのがあの、「経営の神様」松下幸之助です。大正七年に奥さんとともに始めた小さな電気屋から、世界のナショナルを育てた松下氏も、何度も、「死んだほうがましだ」という苦労の時期を過ごしました。
  松下氏は、終戦後の五年間財閥家族に指定され、公職から追放されました。そのために借金が当時の金額で二億数千万円(現在の物価に換算すると天文学的数字です)、その利子だけで年間一千万円を超える経営状態だったそうです。しかも、内外合わせて六十七カ所あった工場のうち、半分以上が休止、物品税の滞納で、日本一の滞納王となってしまっていたそうです。当時を思いおこして、
「あのときは、本当に身も細る思いを毎日しました」
と著作に書いておられますが、他人には想像もできない大変さだったでしょう。松下氏のすごいところは、よりによってこんな時期に「PHP研究所」を作り、青少年の教育・育成に取り組んだことです。「雨が降れば傘をさす」という言葉は、この公職追放の大変な時期に体得した言葉だということです。
  くわしくはPHP研究所の講演で、このように述べられたそうです
「われわれが生きているこの宇宙は、一定の法則によって動いています。人間はもとより、この宇宙の森羅万象(しんらばんしょう)、ことごとくがその法則、その真理によって生かされています。
  宇宙の法則とか真理とかいうと、大変むずかしく聞こえますが、そうむずかしく考える必要はないのです。雨が降ると、外へ出れば濡れるのが宇宙の法則であり真理です。ですから、その真理にしたがって、濡れないようにするには傘をさせばよい。そういうことを考えるのが科学であり宗教です。」
  「宇宙の真理などむずかしいものではない、人間は当たり前のことのありがたさに気がつかないだけだ」こういう内容のことは、宗教の派を問わずどこでも言われてきております。
  真言僧は修行を重ね、最後に世の中すべてのものが、大日如来の庇護のもとにあることを知り、草木一つにも如来の働きを見て感激の涙を流します。禅にいそしむ僧は、瞑想の中からすべてのものが仏の慈悲を受けているのを悟り、すべてが大光明を放つのを知ります。浄土宗や真宗では「阿弥陀如来の教えとは自然法爾(しぜんほうに)のことなり」と説きます。「自然法爾」とは、この世のすべてのものが阿弥陀如来の恩恵をすでに受けている、人間はそれに気がつかないだけ、というものです。
  神道も、人間は生まれながらにして神様の恩恵をこうむって生きている。あらゆるものを素直に受け取れば、神のおかげがいただける、と説きます。
  ずいぶん以前ですが、「地獄」という映画を見たことがあります。閻魔大王の裁きの場面で、罪人たちに生前の罪が問われます。裁きの場には閻魔さんの大声がこだまします。
「お前たちに聞く。物事に感謝をしたか?  うそをつかなかったか?
  人に親切にしたか?  物を盗まなかったか?」
罪人たちはそれぞれ、
「なんだ、こんな簡単なことが人生の真実だったのか!こんなことなら幼稚園から習っている内容ばかりだ」
と思うのですが、あとのまつり。大切だということは知っていても、当たり前のお説教の文句ですので、誰もまじめに守った者はおりません。罪人たちは非常な後悔をしながら、次々に地獄に落とされていくという内容でした。
  悟りを得るとか、人生の真実を追求するというと、私たちはとかくむずかしい本を読み、むずかしい理屈を理解しないと駄目だと思ってしまいがちです。実際は全く反対で、人として生きていく道はあまりに当たり前のことすぎて、誰もがその大切さに気がつかないだけではないのでしょうか。
  ちょうど、空気が私たちの命に欠かせないものでありながら、まわりに豊富にありすぎて、そのありがたさに気がつかないようにです。
                                                              合掌
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第四十六号 


お金持ちになる方法

初詣でに行ってみんなが願うことといえば、家内安全と、「お金が持てますように」の二つが代表的でありましょう。お金持ちになる方法は確かにあります。もっとも、本当はお金をどう使うかが一番大切で、
「富は糞尿と同じで、それが蓄積されている間は悪臭を放ち、ふりまけば土地を肥やす」(誰が言ったのか知りませんがいいセリフですね)
という言葉もあるのですが、まあ世の中に先立つものはお金ですし、「ともしび」も景気のよい話から始めることといたしましょう。
  お金のような現実的な問題は、最も現実的な思想「易学」の文献を参考にします。「自分には関係のない話だ」とお思いの人もおられるでしょう。たとえば、サラリ-マンなどは毎月の給料が決まっています。ちょっと考えると一人一人に大した差がつきそうにないように思いますが、実際には同じ程度の給料でも、そのうちの一人はサラ金に追われ、もう一人は郊外に家を建てるというようなことが起こったりします。この差は、何によるのでしょうか。
  お金が身につかないのは、ちまたではやれ、墓が悪いからだとか、家相のせいになったりしますが(中にはこれが本当に原因のときもありますけど)、実際にはほとんどその人の性格が原因になっています。大体が金銭に対する計画性がない人が多く、大きな買い物をしたり、人を集めておごったり、他人の借金の保証人担ったりします。要するに、いい格好をしたがるわけです。これではお金がたまるわけがありません。こういう人は、百万手に入れば百万使ってしまい、一千万くれる人があれば、すぐに残らず使ってしまうものです。
  だいたい人にいいところを見せたがるのは、自分に自信のない人、そして信仰心が薄い人に多いものです。信心をしている人なら、百万のお金でもてなすより、まごころが大切であり、神仏もそのほうがはるかに後押しをしてくださるということを知っています。結局、易学の話も、仏教や神道の話と結論は同じになってしまいますね。
  では、今度はお金持ちになれるこつを述べさせていただきましょう。
まず、言うまでもないでしょうが「無駄なお金を使わない」ことです。これは「ドケチになる」こととは違います。「ドケチ」というのは、無駄金ばかりでなく、人間としての付き合い上、出すべきお金まで出したがらないことで、これでは昔から悪名高い近江商人(?)と同じになってしまいます。
  そして、どんなに苦しくても貯金をすることです。子供に教育費がかかるとか、家のロ-ンとかいろいろ理由をつけて、貯金をしない人が結構います。しかし、実際にはそういう人に限って、使わなくてもいいところにお金を使ってしまい、無駄が多いものです。無駄金をおさえた上で、たとえ苦しくても、一ヵ月に一万でも二万でも貯金をすることです。
  三つめには、「お金をばかにしない」ということです。易学の実例でこういう人の話が報告されていました。その人はお金を手にすると、「おお、よく来てくれたね」と、おしいただいてから財布にしまいます。使うときは「行っておいで」と言ってから送り出すのだそうです。本人は「私はお金を大切にするから、喜んで集まってくるのですよ」と言うのですが、なるほど、実際にその人のところにはお金がよく集まるのです。
  反対に「金なんか天下の回りものさ」とかなんとか言って、お金をばかにしているとか、「千円以下の金はばかばかしいから、道に落ちていても俺は拾わない」などと言っている人のもとには、お金は入ってもすぐ出ていってしまいます。うそだと思ったら実行してみてください。この「お金をばかにせず、感謝して使う」ということはそうとう重要な要素らしく、参考にした易学の関係書三冊ともに、同じことが書いてありました。
  最後に、これは意外に思いますが、ほんの一部でいいから毎月貯めて、老人ホ-ムに寄付するとか、ボランティアなどに役立てることだそうです。自分の収入の一部を公共のために寄付しようとする心は尊いもので、その真心はまわりまわって、大きく社会から帰ってくるそうです。財界の大御所がだいたい公共施設や信仰する宗教などに寄付をしているのもそのためで、一つは税金対策でもあるのですが、もう一つがこの「陰徳積み」のためだそうです。まあ、「陰徳を積む」のに一番いいのは、人に対してやさしい笑顔で接するとか、困っている人を助けるとかいった行為を心がけるのが一番ですけどね。絶対に「金額の多少」ではありません。まあ、人の道をはずしては、お金持ちになるのもままならぬということでしょう。

 

合掌

 

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ともしび                 

第四十七号  

無財の七施

 「慈悲の心を持って人にほどこすこと」を「布施(ふせ)」と申します。他人に自分の財産の一部などを与えることで、自分の「執着する心」を離れるという意味があります。「布施」のことを古代インド語では「ダ-ナ-」と言います。「ダ-ナ-」に漢字をあてはめたのが「檀那(だんな)」です。一般の家庭は父親の生計で成り立っていますから、その家に金品を運んでくる「旦那(だんな)」という呼びかたが定着しました。また、僧侶に食事や住居をほどこす家のことを「檀家(だんか)」と言うのもここからきています。私たち現代人も、がめつく会社にもうけさせるだけのやり方をそろそろ考え直して、他人のために何かができるような心の余裕が持ちたいものですね。

  さて、布施というのは執着を離れることだと言いましたが、物や金を持っていなかったら施しができないかと言うと、そうではないのです。何一つ持っていなくても人に施すことは出来ます。それを「無財の七施」と言います。

①身施(しんせ)

  自分の身をもって、体を使って人のためになることをしてあげる、これが身施です。インドの説話集「ジャ-タカ」に次のような話が載っています。

  山の中に、うさぎときつねと猿が仲よく暮らしていました。古代インドの神様がこれを見て、

「あの三匹は仲よく暮らしているが、本当はどのくらい仲がいいのだろう。あの中で一番優しい心を持っているのは誰だろうか。一度試してみたいものだ」と思いました。そこで神様はおじいさんの姿にばけて、山の中へ入っていきました。そして、

「わしはもう何日も物を食べておりません。どうか何かめぐんでください」

と頼みました。きつねは湖に行って、魚を取ってきました。猿は山へ行って、木の実を取ってきました。ところが、力の弱いうさぎは何も取ってはこれません。それを見て、きつねと猿はうさぎのことを「お前は能なしだ」さんざんにけなしはじめました。うさぎは悲しい顔をして、

「私にはこれしか施すものがありません。」

と言うなり、たき火の中に飛び込みました。自らの体を焼いて、肉を老人に食べさせようとしたのです。神様はうさぎをあわれに思い、彼を助けて月の世界に連れていったということです。「お月さんのなかでうさぎが餅をついている」と子供の頃に聞かされたでしょうが、多分この話がもとなっているのでしょう。  うさぎほど極端な話までいかなくとも、たとえば常に身なりを清潔に保つなども立派な身施にあたるのではないでしょうか。不潔な身なりは人に迷惑をかけやすいものです。

②心施(しんせ)

  これは、心で人に施しを与えるということです。たとえば、不安にさいなまれたり、心配事のある人の相談に乗ったり、励ましてあげたりすることがこの内容にあたりましょう。

③顔施(がんせ)

  人と接するときは、笑顔で接することです。苦虫をかみつぶしたような怖い顔ばかりしていれば、幸福のほうで逃げていってしまいましょう。

④眼施(がんせ)

  常に人に好感を持たれる、おだやかな目つきをすることです。

⑤言施(ごんせ)

  言葉ひとつで人を再起不能にするぐらい傷つけることもできます。また反対に相手を幸せにもできます。言葉使いにはくれぐれも気をつけたいものです。⑥房舎施(ぼうしゃせ)

  「房舎」とは住居のことです。住居を常に清潔に保っていれば、人に休んでもらうこともできるわけです。

⑦正座施(せいざせ)

  たとえば、電車やバスの中で、老人や足腰の弱い人に席をゆずってあげるなどがこれにあたりましょう。

  一部の新興宗教などには「徳積みをする」と称して百万単位のお金を出させる所があったりしますが、あまり感心できる話ではありません。お金で物や見栄なら買えましょうが、心の豊かさが買えるわけはないのです。大切なのはやはりまごころでありましょう。今日からでも出来る施し、「無財の七施」をお互い心がけたいものですね。

                                                             

 合掌

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ともしび                 

第四十八号 

子供が疲れない理由

  子供と遊ぶのは楽しいものの、いつも閉口するのは相手のタフさであります。とにかく遊びに飽きません。何十時間動いても平気ではないかと思われるくらいのスタミナを持っております。平安時代に出来た「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」という本には、当時の流行歌が載っていますが、その中に、

「子供というのは、まったく遊びをしに生まれてきたのだろうか。よく体がもつものだ。大人はかなわない。」

というような内容のものがあります。千年前の人も同じことを考えていたのかと思うとほほえましい限りです。

  子供の不思議さは、まだあります。事故などにあっても、めったにけがをしません。結構な高さからコンクリ-トの床に落ちたりしますが、大人なら骨折とか、瀕死の重症になりかねません。それが意外に子供ですと、かすり傷程度で済んだりします。ビルの何階かから誤って赤ちゃんが落ちて、奇跡的に助かったとかよく報道されたりします。あんな場合に大人なら。まず即死でしょう。これは、子供は体重が軽く、体がしなやかで、やわらかいという原因によるものでしょうが、それだけでもありません。一番重要なのは、

「子供はよけいなことを考えないから」ではないでしょうか。

床に落ちても、ころんでも、子供は無理に力を入れて体をかばいません。また、遊びのときは、本当に心から楽しんで、無垢になりきっています。だから疲れず、けがも非常にしにくいのではないでしょうか。

  生まれたての赤ちゃんなら、本当に無垢そのものです。他人を恨むこともなければ、憎んだりすることもありません。赤ちゃんが泣くのは、不平不満をぶっつけるというよりは、泣くことが唯一の伝達手段だからと言えましょう。「おなかがすいた、おっぱいが飲みたい」とお母さんに伝えているだけと言えます。  いつの時代もタフな子供にくらべて、現代人はやたらと「疲れた、疲れた」と口にするようになっているようです。そして現代ほど人々が「疲れた」という言葉を発する時代はかつてなかったのではないかと思われます。ちまたにあふれるスタミナドリンクにはものすごい種類があり、製薬会社の最大のヒット商品です。また、医学がこれほど発達しているのに、病人の数はいっこうに減っていないようにも思えます。

  なぜ現代人は疲れやすく、病気にもよくかかるのでしょうか。肉体面よりは、精神面にその原因があるでのはないでしょうか。昔の人はだいたいのんびりしていて、おおらかで人がよい傾向があったのではないかと思います。アフリカなどに行けば今もそんな感じです。一時「ブッシュマン」という映画がヒットしました。主人公のニカウさんは生粋のアフリカ人です。お金をあげても使う方法がないので、ニカウさんには出演料として牛や馬がたくさん贈られたそうですが、その財産を彼は親類縁者にすぐ分けてしまったそうです。日本人ならあきれるような人のよさですが、アフリカの部族にはこれが当然で、自分が物をもらったら人に分けあたえるのが常識なのです。そういえば、ああいう人たちが胃炎や精神衰弱になったということを聞いたことがありません。

  神道関係の本を読んでいましたら、

「子供が疲れず、大人ばかり疲労するのは、こういうわけである。子供は無垢で無邪気であるから、神の気が自然に入るから疲れない。それに対して大人は、心を消耗させる気持ちを持つから、神の気が入らないように壁を作ってしまう。必要のない余分な働きによって、人は疲れるのである。」

  とありました。まさにこれが真実なのではないかと思います。その本には

「心を消耗させる気持ち」として、次のようなものがあげられていました。

 

    憎しみや恨み

    ぐちや不平不満

    取り越し苦労

    持ち越し苦労(昔のことをくよくよ思い悩むことのようです)

 

  現代人が疲れやすいのは、心を使うからではなく、頭を使うからでもなく、よけいなことを考えて、不必要な「サビ」を作るためのようです。肉体の疲労なら薬や滋養のある食物で回復しますが、精神のすさびは信心と反省でしかいやせないでありましょう。私たちも、子供のように純粋な心で神仏にむかいあいたいものですね。

合掌

522-03  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地
0749-48-0335        高野山真言宗清涼山不動院

ともしび                 

第四十九号 

 

幸せになる訓練を

  「ああ今日はここが痛い、あそこの具合が悪い。いっそ死んだほうがましだ。どうせわしなんて長生きできない。」

  「ああ今日はなんて暑いのだろう。お天道様はわしを焼き殺す気か。」

  口を開けばぶつぶつぐちばかりこぼす人というものがいるものですが、こういう人は残念ながら幸せになったためしがありません。苦虫をかみつぶしたような顔をして暮らす人に、福の神は訪れてくれないのです。するとそういう人は、良いことがおこらないのでますますぐちをこぼし、ぐちをこぼせばまた福が逃げていくという悪循環におちいりがちです。

  「人相」というと、ほとんどの方は易者が大きなメガネで相手の顔をのぞきこんで、

「ウ-ン、あんたには死相が出ておる」

とか、

「剣難(けんなん)の相が出ておる。用心しなされ」

とか言うものだと思っておられるようですが、実際には顔の相のほか、姿勢や歩き方、しゃべり方、寝相までが「人相」には含まれます。むしろなにげないしぐさを判断するほうが、顔や手を見るよりよほどよく的中するものです。

たとえば、

「きょろきょろしながらつばを道端に吐きながら歩く人は、心がいつも落ち着かず見栄っ張りのことが多い。取引の相手などの場合は用心すべし。」

「相手としゃべるときに目を見ないでいる人は、よほど話に興味がないか心の中にうそのある人である。」

などと書いてあるのですが、犯罪心理学にも似たような指摘があり、なるほどとうなずけるような内容なのです。

その易学のテキストにはこうも書いてあります。

「凋落(ちょうらく)の相というものがある。肩を落とし、うなだれて猫背で歩く相である。こういう歩き方をする人はどうしても運勢が落ち、不幸にあいやすい。一般の人でも会社が倒産したりすると、こういう姿勢で歩くものである。しかし、だからといってこういう姿勢で生活していくと、どんどん不幸になってしまうものだ。かえって不幸なときこそ、胸を張り、背筋をのばして堂々と歩くべきである。そうしていると自然と運勢のほうもよくなってくるものである。」

  易学の指摘にもあるように、姿勢や心がけを変えていくと、本当に運勢の方も好転していくものです。信仰をもつ私たちはなおさら、この点を心がけていきたいものですね。

  その中でも特に、「ほほ笑む」とか「感謝する」という訓練をするのは効果がいちじるしいものです。本当に一円の元手もいりません。明日とは言わず今日からやってみましょう。

  具体的には、特に楽しくなくても鏡に自分の姿を映し、笑い顔を作ってみるのです。悲しいときや悩みが多いときには、難しいでしょうが先にもあげたように、意識的にでも鏡の前に座って笑顔を作るのです。最初は苦虫をかみつぶしたような笑顔でかまいません。訓練を重ねていくと、自然と本物の笑顔が出てくるようになり、難しい状況も本当に好転してくるものです。

  この、「笑う」ということは相当体に良いようで、過日も新聞にあるホスピスの治療の方法について紹介されていました。ホスピスとは、ご存じのようにガンなどで余命いくばくもない患者さんが収容されている施設ですが、そのホスピスでは何と、患者さんに漫才を見に行かせる治療を取り入れているそうです。漫才を聞いて大笑いした患者さんは薬がよくきき、延命の効果もあり、中には本当にガン細胞が小さくなってきて治ってしまう人までいるとか。正式な医療機関が治療に取り入れる時代ですから、我々もこの「笑いの効用」を放っておく手はないでしょう。笑いには昔からいろいろなことわざがあります。

  「笑いは人の薬」

  「笑う顔に矢立たず」

  「笑うて損した者なし」

  おもしろいもので、笑いについて否定的にとらえた言葉などお目にかかりません。古来からその効果がよく知られていたのでしょう。私たちもできるだけ笑顔を心がけ、まわりの人にもほほえみをたやさないようにしていきたいものですね。それが何よりの「幸せになる訓練」なのです。

                                                             

合掌

522-03  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

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ともしび                 

第五十号  


角を矯めて牛を殺す
  毎年に秋頃になると、奈良の春日大社では「鹿の角切り」が行われます。近年ではすっかり観光名物になりましたが、本来の意味は、伸びた鹿の角で参詣の人たちがけがをしないように、角を切るのだそうです。このときあまりに角を切りすぎますと、傷口からばい菌が入ったりして、肝心の鹿が死んでしまったりします。これでは何にもなりません。牛でも同じことで、あまり角の格好ばかり気にして切りすぎると、牛そのものを失ってしまいます。
  「角を矯(た)めて牛を殺す」ということわざはこのことを言っているわけで、「少々の傷を直そうとして、大きな害を招くこと」を言います。
  中国にも、非常によく似た話があります。
  後漢の頃と言うから、大体二千年ほど前のことでしょうか。ある所に大きなコブをもった人がおり、日常生活にも不便でたいそう困っておりました。ある人が気の毒がってコブを切り取ってやりましたが、肝心の本人まで死んでしまいました。他の人が、手術をしてやった人をせめたところ、その人は、
「わしはコブを取り除くことしか年頭になかった。本人は死んだけど、コブは取り除けたぞ」
ケロリと言ったそうです。
  いかにも昔話によく出てくる、「おろか者の話」ですが、私たちだって、笑ってばかりもいられません。手術をした人はコブにばかり気を取られて大失敗をしでかしましたが、私たちも同様に、
「目先のつまらぬことにまどわされて、大きな害を招いている」
ことはないでしょうか。対人関係のトラブルなどは典型的なものです。嫁と姑、上司と部下、妻と夫、いずれも大体がほんのささいなことから、いがみあい、時には冷たい、時には熱い戦いに突入していくわけであります。
「味噌汁の味噌は、赤味噌か白味噌か」
でけんかになり、本当に離婚になった例もあります。テレビ番組一つとってみても、中年以上の方は時代劇がお好きでしょうし、若い人ならトレンデイドラマとか、バラエティになるでしょう。こんなささいなことでもちゃんと、家庭不和のもとになるのだから大変です。お年寄りは、
「うちの若いもんは、つまらん番組ばかり見おって、なんじゃあの~とかいう『歌うたい(歌手とは言わないことが多い)』は!」
とお怒りになられますし、若い人は、
「うちのおじいちゃんたら、なつメロ番組か時代劇ばかり見るんだから。何よあれ、あんなワンパタ-ンのお芝居のどこがいいの!」
とこぼされたりするものです。
  しかし、考えてもみましょう。お年寄りがある程度「おじんくさい」のは当然のことです。七十にも八十にもなって、外車を乗り回したりディスコに行っていたりしたら、ちょっと首をかしげなければなりません。首かしげるどころか、腰の骨でも痛めて寝こんでしまうでしょう。反対に若い人が、あんまり地味すぎるのも考えものです。盆栽いじりやゲ-トボ-ルばっかりしていたら、「この人、ほんとに大丈夫だろうか。かくれたところで変なことしてないか」と心配になりますね。
  お年寄りにはお年寄りの生き方があり、若い人には若い人の生活があるのです。それを無視して、むりやり自分たちの尺度を押しつけようとするからややこしくなるのではないでしょうか。目に余るひどいなら正さなければなりませんが、それ以上を要求して、相手を自分の思い通りにふるまわせようとするのはおろかです。そんなことは国王か独裁者にしかできません。
  牛の角で言うならば、角が少々不格好でも、とにかく最低必要な程度、人を傷つけない程度に短ければいいのです。それ以上を無理強いしても、事態は悪くこそなれ、良くはなりますまい。あとは、不格好な角の部分、人間でいうなら「欠点の部分」には目をつぶり、その他のところに目をやりたいものですね。牛ならば、角が不格好でも、牛乳をよく出す牛もいるでしょうし、働き者の牛もおりましょう。そんな「長所」の部分に目を向けていかないかぎり、相手と自分の相違点が、十あれば十のいがみあいがあり、百あれば百の不毛の戦いが続いていくのではないでしょうか。
  こざかしい人間の浅知恵で生活していく限り、毎日はこのように、「精神的に、とても疲れる」ものになっていくでありましょう。信仰を通じて、相手の長所にも目がいく心を作っていきたいものですね。
                                                              合掌
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