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ともしび                   

第二十一号  

 

日本猫を探す話

 

  ペットブ-ムとやらで、家庭で大事にされているかは別にして、ちまたには猫があふれております。野良猫を見かけぬ町はないという状態ですが、最近言われていることに

「日本猫がいなくなった」ということがあります。

そもそも、日本猫とはどんなものかといいますと、

『丸顔で胴が長く、毛が短い。背は低く小太り、しっぽが短い。』

という猫のことです。しっぽを除いてもう一度これを読み返すと、昔の日本人体型の特徴とほとんど同じです。偶然の一致なのか日本の風土がこのような体型を作るのか、非常に面白い話です。

  その日本猫が、実は今の日本には全く見当たらないのだそうです。舶来のシャムやペルシャが逃げ出した野良猫と混じりあってしまい、ほとんどが混血児ならぬ混血猫なのだそうで、言われてみれば最近の野良猫には、目が金色とか銀色のが増えています。我が家にも掃いて捨てるほどたくさんの猫がいて、人間の家族の2倍以上の数が我が物顔で暮らしているのですが、連中にも外来の血が色濃く混じっているのは、顔や体型を見ても明らかです。

  もっとも、これは決して猫に限ったことではなく、われわれ日本人についても同じことが言えます。かつての丸顔で胴長の体型から、最近の若者はスラリと背が高く、彫りの深いいわゆる「ソ-ス顔」の者が増えました。体が成熟する年令も低くなる一方です。しかし一方で、かつての日本人が長所としていた、礼儀正しさと勤勉さが受け継がれているのかというと、ちょっと不安になってしまったりします。猫の混血化が国の将来にかかわることはありませんが、次代をになう若者がずれた方向へ飛んでいってしまうと、これは笑い話ではすまなくなってしまいます。

  礼儀正しさと勤勉さは、相当古来からの日本人の美徳でした。有名な中国の歴史書『魏史倭人伝(ぎしわじんでん)』は、日本の国を、

「住民は小柄で、粗末な家に住むが、大変礼儀正しく、道で年寄りに出会うと礼拝をしてうやまう。そして非常に勤勉な国民である。」

というように紹介しています。これが書かれたのは、日本では邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)の時代ですから、千七百年も昔です。こんなに長い伝統のあることでも、いったん崩れてしまうと早いものでありまして、今では敬語をちゃんと使える若い人に出会うとびっくりしますし、「親はさぞかし立派な人だろう」と思ってしまいます。しかし、考えてみれば、ふた昔ほど前にはこれは当たり前のことだったのではないでしょうか。日本猫を捜すのは相当大変ですが、場合によっては「日本人捜し」をしなければならないかもしれません。

  とはいえ、これは若者ばかりの問題というわけでもありません。このような若者を育てたのは他ならぬ中高年層です。中年や老齢の方々は、その昔、親から

「人のためになることをしろ」

「おてんとうさまに顔向けができないことをするな」

「阿弥陀さんの言うことを聞け」

などと言われて育てられた方たちです。ところが、いざ自分が子供を持ったとき、昔のようなやり方で育てた親御さんが何人おられたかというと、ちょっと怪しかったりします。下手をすると戦後の経済成長の風潮そのままに、

「自分だけもうかればいい」「自分だけが出世すればいい」

という生き方になってしまい、子供にもそのような価値観を植え付けてきたのかも知れません。神仏を敬うとか、目に見えないものへの敬虔(けいけん)な態度を持ち続けるとかいうことが、ないがしろにされてきたのだとすれば、古きよき時代を懐かしむより、今からでも「次の世代への本当の教育」を考えるべきではないでしょうか。当寺院にはかなりお若い方のお参りが多いのですが、若い方が信仰心がないとか礼儀がないとか、そんなことは全くありません。本当の教えを聞く機会さえあれば、若者であろうが老人であろうが、本質にたどり着くことができます。

  蛇足ながら、「本当の日本猫」は実際には少し残っております。ただそれは日本ではなく、実はアメリカにおります。というのも、六十年ほど前に日本を訪れたアメリカの猫の愛好家が、日本猫のかわいさ、すばらしさに夢中になり、何匹かを持ちかえって向こうで育てていたのです。当の日本人が、日本の文化のよさに気がつかないというのはよくある話でありまして、私は少々合気道やら茶道やらをたしなみますが、困ったことに外国人の方のほうが伝統文化の習得には熱心でありまして、肝心の日本人がまったく無関心ということが相当見受けられます。アメリカにだけ残ってしまった日本猫は、今や名前も「ジャパニ-ズ・ボブテイル」と変わってしまいまして、血統書もついて今では一匹が十五万ほどします。といっても、要するにこれは「昔の普通の日本猫」なのです。全く本末転倒の話でありまして、外国人の有段者に日本人が軽く投げられてしまっている状況と、相当似たものを感じてしまって苦笑してしまう今日この頃です。

合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院  

 

 

ともしび                   

第二十二号  

 

いろは歌の話

 

  「いろはにほへと…」に始まる「いろは歌」は弘法大師の作として有名ですが、その意味をご存じない方も多いと思われます。ここで一つ説明をいたしましょう。「いろは歌」は日本語の五十音を一つずつ使って作られているので、覚えれば自然に日本語の基礎が身につきます。そのため、昔は寺小屋のお手本として重宝されましたが、内容にもまた、深い教えがこめられております。

 

  「いろはにほへと  ちりぬるを」

この言葉を漢字を使って書きますと、

  「色は匂へど  散りぬるを」  となります。その意味は、

  「美しい色や、よいにおいのする花も、いずれは散ってしまう運命である」

 

  「わかよたれそ  つねならむ」  この言葉は、

  「我が世  誰ぞ  常ならん」となります。意味は、

  「自分だけがいつまでも生きていられるわけではないのだ。花がいずれは散ってしまうように、誰もがいずれ死をむかえる」

 

  「ういのおくやま  けふ(「きょう」と読む)こえて」

  「有為(うい)の  奥山  今日越えて」

  「人生に限りがあるなら、世の中のつまらぬことにわずらわされて一生を終わるのはもったいない。俗世の山は今日にも越えてしまおう」

 

  「あさきゆめみし  えひ(「い」と読む)もせす」

  「浅き夢見じ  酔(え)いもせず」

  「俗世の生活は、寝ていてはかない夢を見ているようなものである。悟りをひらいて極楽の里で静かに休もう」

 

  ざっと解説するとこのような意味になりましょう。さらに、この「いろは歌」は、『涅槃経(ねはんぎょう)』というお経の中にある、これまた有名な話を、わかりやすくいいかえたものなのです。そのお話とは、

  はるか昔、雪山童子(せっせんどうじ)という修行者がおりました。あるとき、この童子が修行のため山の中を歩いていると、人食い鬼が崖の下で、

「諸行無常、是生滅法(しょぎょうむじょう  ぜしょうめっぽう)」

と大きな声で唱えておりました。これは弘法大師が、

「色は匂へど  散りぬるを    我が世  誰ぞ  常ならん」と訳した言葉です。「どんなものでも命には限りがある、自分だけがいつまでも生きられるわけではない」という意味でしたね。

  雪山童子は世の中のありさまを歌ったこの言葉に感心し、鬼が次の文句を言うのを待っておりましたが、いつまでたっても言いません。鬼は、

「お前の体をおれに食わせてくれるなら、次の言葉を言ってやろう」

と言うのです。童子はなんとしても聞きたいので、その申し出を受けました。すると鬼は、

「生滅滅己  寂滅為楽(しょうめつめつち  じゃくめついらく)」

と唱えました。この部分を弘法大師は、

「有為(うい)の  奥山  今日越えて    浅き夢見じ  酔(え)いもせず」

と訳されたわけです。意味は前にも書いたように、

「俗世にわずらわされることはやめて、仏の教えによって本当の幸せを得よう」というものでした。

  童子はこの言葉を聞いて非常に喜び、かたわらの木にこの言葉を刻んで、これを後世の人々が自分の修行の指針にするようにと願いました。そして、

「約束通り、私の体をお前にあげよう」

と言って、崖の下の鬼をめがけて飛び込みました。すると五色の雲がたなびいて童子の体を受け止め、鬼は仏の姿に変わって消えたといいます。

  これはかなり有名なお話だったようで、法隆寺の国宝のお厨子(ずし)にはこの雪山童子の物語が世界最古の油絵で描かれております。それにしても、「いろは歌」一つとってみても、貴重な教えが込められているものですね。指針とするべきものは、身近なところにいくらでもあります。皆様もともに仏道に精進いたしましょう。

        合掌

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ともしび                   

第二十三号  

 

死について

 

  『ジャ-タカ』というインドの物語集にのっているお話です。

昔、インドにアッサカという王様がおりました。王様にはとても美しく、きだてのよいウッパリ-というお妃がおり、王様は大変このお妃を愛しておりました。ところが、世の中というのは残酷なもので、ウッパリ-は病に倒れ、あっけなくこの世を去ってしまいます。

  王様は悲しみのあまり食事ものどを通りません。毎日、お妃のなきがらを自分の王座のとなりにおいて、嘆き悲しんでおりました。家来たちはなんとか王様をなぐさめようとしますが、どうしようもありません。そんな数日が過ぎた日に、ヒマラヤから仙人がやってきました。この仙人は大変な霊能力を持っております。仙人は、

「もし王様が望まれるならば、お妃が生まれ変わった場所を教えてしんぜよう。生まれ変わった彼女と話をさせてあげることもできますぞ。」

王様は大喜びで、さっそく妃のいるところに案内するよう命じました。

  仙人は王を連れて庭に出て、

「ここにおります。」

「いったい妃はどこじゃ、どこにもおらんではないか。」

「いや、王の足もとにおります。踏んでつぶさぬようにしてくだされ。」

仙人が指さす方を見ると、二匹の虫が牛の糞のかたまりを運んでおります。

「王よ、この一匹がウッパリ-妃です。今ではあなたを捨てて、牛の糞を食べる虫の妻になっております。」

王様の驚くのなんのって、たちまち顔色がまっさおになりました。

「そんな馬鹿なことがあるものか!いいかげんなことを言うと、いくら高僧でも容赦をせんぞ!」

仙人は、「それならば」といって、真言を唱えました。そして虫に呼びかけると、

「王様、おなつかしゅうございます。ウッパリ-でございます。」

と、鈴を鳴らすような美しい声で虫が返事をしたではありませんか。王は、ぎょっとしましたが、なんとかこらえて質問をしました。

「お前は生前の私がいとおしいのか、それとも今の虫の夫が好きなのか」

とたずねますと、

「たしかに前世では王様に愛されて幸せに楽しく暮らしておりました。けれども、今の私に前世のことが何になりましょうか。今では牛の糞を食べる虫の夫がいとおしくてなりません。」

と答えました。王様はさすがにあぜんとして、家来たちに命じ、妃の遺体を葬るように命じたといいます。

  他人と死別したときは、その恩愛の情はなかなか断ち切れるものではありません。どうしても気が動転し、一人でこの世に取り残された孤独感にさいなまれます。仏教の説く「生者必滅(しょうじゃひつめつ)」の道理はいかんともしがたいもので、いつまでも生きている人間などはおらず、こういうときは

「世の中にはどうしてもあきらめなければならぬ問題もある」

ということを身にしみて思い知らされます。ただ、一定の時間が心の傷をいやしてくれたなら、残された者のつとめとして、故人の分まで有意義な人生を送るのが筋(すじ)というものでありましょう。いつまでも仏壇の前で「あんたさえ生きていてくれたらよかったのに」と、何年も何年も涙を流され、ぐちをこぼされては、そういう気持ちはわかるにしても、死んだ人のほうもたまらないのではないでしょうか。自分から好きで死んでいる人などそれほどおりません。

  大切なのは、肉親や知人の死から、あとに残された者が何を学び取るかではないでしょうか。故人に対する本当の供養は、亡き人があの世で安心して眠りにつるような生活を生き残ったものがすることではないでしょうか。

 

散る桜  残る桜も  散る桜

 

という歌があります。

「散る桜があって、その一方でこの世に残っている桜があっても、それもいずれは同様に散る運命にある」

という意味です。しょせんわれわれの一生もいつ絶えるとも知れないはかないものです。その短い人生を十分に活用して、み仏の教えを少しでも実現させ、後世へ伝えていくのがわれわれの責任と言えるのではないでしょうか。

合掌

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ともしび                   

第二十四号  

 

「請求書的祈り」について

 

  アラビア人の頭を「コ-ン」と割ってみると、中に入っていた脳みそには、「コ-ラン」と書いてあったという小話があります。アラビアではいまだにイスラム教が盛んで、毎日の生活は経典のコ-ランなしには暮らせません。彼らにとって、コ-ランは命の次に大切なものであって、明けても暮れてもその「聖なる言葉」を口ずさみ、外国にいても必ず毎日聖地の方角を向いては礼拝をしております。

  私たち日本人がその様子を目にすると驚いてしまうものですが、イギリスやアメリカといったキリスト教の国でも、日曜日は教会に行って礼拝するのが当然のことですし、東南アジアでは仏を敬うのが人間にとって一番大切なこととされます。お隣りの韓国では儒教の教えがいまだにきちんと守られており、電車やバスでお年寄りに席を譲るのは当たり前、いい若いものがわれ先にすわっていたりすると、まわりの乗客がくってかかったりしかねません。

  ギャロップ世論調査というのによっても、世界七十カ国のうちで「一番信仰心が薄い」のはやはり日本だそうです。「いや、そうじゃないよ」と言われる方もあるかもしれませんね。

「神社仏閣には盆正月にたくさんの人がお参りするし、宗教団体もたくさんあるじゃないか。」

と言われるかもしれません。確かに宗教は盛んのように思えますが、実はその「質」が、日本と外国では決定的に違うのです。

  というのも、私ども日本人はなんのかんの言っても、宗教を都合のよいときだけに利用するだけになりがちだからです。いわゆる「困ったときの神頼み」です。

  この、「困ったときの神頼み」は「ともしび」の一番最初の号に書きましたように、決して悪いことではありません。だれもが挫折して初めて自分の限界を知るのであり、高慢の鼻柱をへし折られてこそ、み仏の声に耳を傾ける姿勢が出来るものだからです。しかし、日本人の場合、

「なんとかなったらそれでおしまい。」

「病気が治ればもうおさらば。」

ということが多いため、一つの願いがかなったら次々にまたトラブルが発生し、それにまた追われてしまうということになりかねません。問題なのは煩悩を生じる心であって、仏の声に耳を傾けるようにならないと、次から次へ不満の種がわいて出るからです。

新聞に以前乗っていた話ですが、ある人が交通事故を起こしました。その人は神社で交通安全のお札を買い、車につけていましたので、

「お札をつけておいたのに事故を起こした、どうしてくれる」

と、神社にどなり込んだそうです。無駄に行動力だけはある人です。神主さんに

「あなたねえ、猛スピ-ド出せば事故を起こすのは当たり前でしょう。そんな事故で命が助かったのをまず感謝しなさい。」

と言われて、さすがに恥ずかしくなって引き下がったそうですが、日本人の信心というのはこの程度のことが多く、不幸の種を自分で作ってしまうことになりかねません。

  このように、日本人の祈りは気をつけないと「請求書的祈り」になってしまいます。「請求書的祈り」とは、

「金がもうかりますように」

「出世しますように」

「恋人ができますように」

と、困ったことがあったら神仏のところに行き、請求をするわけです。かなえばそれでおしまいとなり、うまくいかないと、

「お願いしたのになんともならない、神も仏もあるか」

となるわけです。

  これに対して「領収書的祈り」というものがあります。これは、

「今日もおかげで無事に暮らせました」

「いつも気がつかない『おかげ』をいただいて、ありがとうございます。」

といったものです。浄土真宗のお坊さんには、

「神仏に対してはただひたすら感謝をしなさい。具体的に何かを祈ってはいけない」

とおっしゃる方が時々おられますが、これはこの「領収書的祈り」のことを言っておられるのです。真言宗の場合、

「そうは言っても目先のことを何とかしてあげないと、どうしようもないだろう。仏道はそのあと説けばよい」

と、現世利益である加持祈祷をとりあえずは行いますが、宗教に対する態度としては、浄土真宗の方の主張は正しいと私も思います。請求書的祈りとは一つ間違うとエゴイズムの祈りになってしまいます。せめて私どもだけでも、毎日の暮らしに感謝ができる態度を身につけ、出来るだけ領収書的祈りをしたいものですね。

        合掌

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高野山真言宗清涼山不動院    

 

 

ともしび                   

第二十五号  

 

「恩」というものについて

 

「おれは誰を頼っても生きてはいない」とか、

「おれは一人で勝手に生きてきたんだ。誰の世話にもなっていない。」

などと言う人が結構おられます。しかし、考えてみればこれほどおかしな言葉もないわけで、今日食べたごはんやおかずは自分で作ったものではありません。自分で畑を耕し、種まきから借り入れまですべて一人でやったものだけを口にするならともかく、他の人を煩わせた結果をいただいて生きていながら、「誰の世話にもなっていない」はずがないのです。着ている服にしてもそうです。どうせ誰かが作って、誰かが運送し、販売してくれたものを身にまとっているわけで、山のなかでひとりっきりで自給自足の生活でもしない限り、威勢のいいセリフは吐けないというのが本当のところです。

  中学や高校になるとたいがいの子供さんが言う、

「生んでくれと頼んだ覚えはない。」

「親が勝手におれを生んだんだ。」

も同じであります。お腹の中から「今度は生まれたくない」などという声が聞こえてきたら怪談です。芥川龍之介の小説『河童(かっぱ)』の中には本当にこのようなシーンが出てきます。妊娠した河童の母親はお腹の中の子供に向かって

「生まれたいか、生まれたなくないか」

を質問し、子供が生まれたくないと答えた場合、その子は水のように流れてしまうと書かれています。この世に生まれてきたくなかった芥川の心情がよく分かる箇所で、この小説を書いてほどなく彼は自殺してしまっています。どこかで歯車が狂ってしまった人生であり、小説の執筆程度で人間を救うのには無理があるのだということが分かります。

  現代人はとにかく、自分の家庭だけが全世界であるかのように考えますし、自分の生涯だけが歴史のすべてであるかのごとく思いがちです。しかし、実際のところは、われわれが今日あるのは過去の成果ですし、またわれわれの生活は未来の成因ともなっているわけです。もしご先祖さまの一人でも欠けていたら、私たちは今ここに存在することもできません。そう考えますと、「誰の力にも頼らずに生きてきた」などという言葉は、大岩から生まれた孫悟空(そんごくう)くらいしか言えないのが本当のところです。

  もうずいぶん昔になりますが、アメリカのテレビ番組で「ル-ツ」というのがありました。主人公はクンタ・キンテという黒人です。彼はアフリカで父から、次のようなことを教わりました。

「この世の中は三つのグル-プで出来ている。一つは今この世に生きて、物を食べたり話したりしているグル-プ、二つ目はもう死んでしまって目には見えないが、過去に生きてこられたご先祖のグル-プ、三つ目はこれから生まれてくるわれわれの子孫のグル-プ。それらによって世の中は成り立っているのだ。お前は三つのグル-プの真ん中にいる。お前が今あるのは、ご先祖のグル-プのおかげであり、子孫のグル-プもまた繁栄するように、お前は部族のほこりを持って、男らしく生きなければならん。」

実に核心をついた教えです。私たちは、スタートの地点から大きな恩を受けて人生を始めているわけです。その恩とはちょうど「空気」のようなものです。空気がまわりにあるの当たり前のことであり、それに恩恵を感じる人などはめったにおりません。しかし、ひとたび真空状態に置かれたら最後、大抵の人間は二分ともちません。落磐事故で閉じ込められた場合や、海の底で酸素が切れかけたときなどには、ふだん何とも思わない一リットルの空気が、何百万円もの値打ちを持つことがわかります。恩のありがたさもこのようなものでしょう。

  俳人の中村草田男(なかむらくさたお)が、次のようなことを書いていました。

彼は中学生のころは、なにしろ戦前ですから「国の恩」「家の恩」「師の恩」などといったものをさんざん教えられました。ところが彼にはどうも「恩」というものが実感としてわかりません。そこで先生に、

「恩というのは何ですか。」

と質問したそうです。先生はこう答えました。

「君がこれから十年も二十年もたってから、ふと昔の出来事を思い出したとする。それらの思い出がなつかしくてたまらないことがあったら、それら一切がすなわち恩だと思いたまえ。」

  これも本当の話でしょう。いくら自分だけで生きていると言い張っても、実際には毎日われわれは誰かの世話になっております。ただ本人がそれに気づかないだけの話なのです。感謝の念は誰に対しても持つべきであり、それが神仏のご加護でもあるのだということになりましょうか。

        合掌

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ともしび                   

第二十六号 

時間は「生命」である

 

  私どもは時間というものを、とかくぼんやりと考えがちです。

「あの人は時間にル-ズだ」とか、

「約束に遅れたことのない人だ」とか、この程度の意識にすぎません。

  しかし、よく考えてみますと、この「時間」というのは、人間がどんなに努力しても自由にできない大切なものです。たとえば、お金はなくしたら、人から借りることができます。必死に働いてなくした分を補充することもできます。時間ではとてもこうはいきません。一度失った時間は、絶対に取り戻すことができないのです。まして、人から時間を借りるなどは到底出来ません。「何が一番大切か」と問われたら、ほとんどの人が「生命だ」と答えることでしょう。しかし、これも考えてみると、「生命」は、「時間というものがずっとつながる」ことによってなりたっているのです。二十年たてば私たちはみんな、大人になります。四十年たてば、だいたいの人が家庭をもっていることでしょう。六十年たてばみんな老人になっており、八十年たてば、かなりの人が死を迎えているのではないかと思います。つまり、「時間の流れ」とはそのまま、私たちの生命の流れのことであるとも言えましょう。

  その昔、この「時間」というものに、信仰にも似た神秘性を認めた人たちもいました。それが他ならぬ「易学」を完成させた中国人たちです。この方面は私も専門ですが、中国の占いは、そのすべてが「時間」を絶対的なものとしてとらえることから成立しています。

  たとえば、人間の性格や一生の運勢を九四パ-セントの確率で予測できるという「四柱推命(しちゅうすいめい)」などの占術は「その人の生年月日、生まれた時間」だけを使って、ありとあらゆることをはじき出します。その根底には「人間がどんな時に生を受けたかで一生は決まる」という考え方があります。また、「雑占(ざっせん)」といって、失せ物、結婚、選挙、試験、お産、病気、願望一般など、さまざまなことを占う占術は、ほとんど例外なく、「依頼する人が、何月何日の何時に頼んだか」だけで作ります。「依頼された時間」という、たったこれだけの要素をもとに作った占術が、ほとんど的中して立派に実用になるのだから、まったく不思議としか言いようがありません。

  人間の生きられる時間などはたかが知れています。これだけ大切な時間を無駄に使うのはぜひ避けたいものです。ある人がぶらぶらするばかりの日々を十年続けたとすると、この人は自分の寿命を十年短くしているのと変わらないことになってしまいます。反対に、大会社を一代でおこたりした人は、共通して時間を大切にしています。ものすごく忙しいはずなのに、なおかつ常人の何倍もの仕事をします。成功する人はやはり違いますね。アメリカなどには、一人で2つも3つの仕事をかねている人がざらにいます。みんな、「時間の使い方」がうまいのでしょう。

  そういえば、高校の頃、ある通信教育を受けたことがありました。その講座には「時間の作り方」という小さな冊子がついてきたのです。こんなのまでついてくるのだから、今にして思えば、本当に親切な講座だったものです。

  その冊子は、題名からすればどんなすごい内容かと思えば、何のことはありません、要約すればたったこれだけのことで、

  「だれもが毎日、短い時間を捨ててしまっている。あなたが学校や会社から帰ってから、どんなことをしているか、一日分でいいから分刻みで細かくメモを取り、ぼうっとしている時間や、ただぶらぶらしている時間はないか、チェックすべし。無駄な時間がたとえ五分ずつでも、全部の時間を合わせると一時間程度はあるはずだ。その時間でこの講座の内容を勉強しなさい。」

  内容としては実に単純なことです。しかし、こんな単純なことにも、みんな意外に気がつかないもの。さっそく計算してみますと、私の場合も本当に二時間近くの無駄な時間がありました。このコツを覚えてからは、特に夜遅くまで起きていなくても勉強時間がとれ、大学にも無理なく入ることが出来ました。

  反対に、「もっと時間があればいい仕事ができたのに」とか、「まとまった時間さえあれば、俺はかならず大きな仕事をする」とか言っているうちは、何事も完全には出来ないのではないかと思います。

  神様は公平で、誰にでも一日二四時間が与えられています。たとえ短い時間でも決してむだにせず、時間を大切に、有効に使いたいものです。人のためになることをするとか、家業に精を出すとか、反省のひとときを持つとかして、人生を無駄な時間で削らないようにしたいものです。

        合掌

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ともしび                 

第二十七号  

 

善は急ぎすぎることがない

 

「善は急げ」と言います。とかく私たちは「そのうち、そのうち」と、頑張れば何とかなることでも先送りをしてしまい、しかもなにかと理由をつけて嫌な仕事をさけてしまいがちです。よく、

「納得できる理由があったらこれをやるが、得心(とくしん)がいくまではおれは何もやらん。おれはいったん『うん』といったら、ものすごくがんばるんだから。」

などと言う人がおりますが、こういう人にかぎってなかなか一人前に間に合いません。その実態は、理由をつけてさぼりたい事が多いようです。人生は短く、自由になる時間はもっと限られています。これは大切だと思ったことは、明日と言わず今すぐにでも実行したいものです。

  『百喩経(ひゃくゆきょう)』に次のような話があります。

昔、愚かな男がおりました。お客を家にむかえることに決まったので、牛乳をしぼってふるまうつもりでおりました。そこで男は、

「当日にたくさんの牛乳があったほうがいい。それなら、牛の中にためておいて、お客がきた日に一度にしぼりだそう。」

と考え、雌牛の乳首を一ヵ月の間、糸でしばっておきました。

  さて、一ヵ月後、いよいよお客を招いて宴会を開くという時になり、愚か者は一生懸命乳をしぼろうとしますが、なにしろ長い間糸でしばったままだったものですから、乳は枯れてしまったのか、それとも中で腐ってしまったのか、いずれにしても全く出ません。料理が出ないお客たちはかんかんに怒って帰ってしまいました。世間の愚か者もこのようなもので、

「いつか金持ちになったら、人に施しをしよう。」

などと考えますが、いつまで金持ちになるのを待っていたらいいのやら。へたをすると盗難や火事にあったり、そのうちに死んでしまったりで、思いついたときに施すにこしたことはない。その愚かさは乳しぼりの男と同じようなものである。

と、大体こんな話です。そういえば能(のう)を大成した世阿弥(ぜあみ)が、著書の『風姿花伝(ふうしかでん)』に似たようなことを書いています。

  世の中の人は、能をうまくなろうと思いたつと、必ず、

「人に知られずにこっそり練習して、まず上手になろう。笑われないぐらいにうまくなってから、人に見てもらおう。」

と考えるものである。しかし、こういう考えのうちは絶対にうまくならない。まだ自分が下手なときから、人前でできるだけ発表の機会を持たなくてはならない。人前で笑われ、恥をかくことによって、度胸もつくし、今度こそはがんばろうという気持ちになるものだからである。「あす人に見てもらおう」ではなく、思い立ったら今すぐでも人前でまず演じてみるべきである。

  いつかは自分にもできると思って、今すぐすべきことをしないで遅らせてしまうと、チャンスも逃げ、永遠に宝物を取り逃がしてしまうものではないでしょうか。じっと待っているだけでは、大したものは自分の手の中には転がり込んではこないでしょう。

  もっとも、積極的と無謀とは同じではありません。やみくもに突っ走ればかえって傷を深くすることもあります。ただ、それは人間だけの浅知恵だけにたよって行動している限りのことで、信仰に生きる人には、神仏が自然とお導きをしてくださるものです。ちょっと見には不幸な出来事も、長い目で見れば

「ああ、あのとき自分を見つめることができたことが、今の自分の財産になっている。」

といったこともあります。神道の神歌に、

 

  おのおのの  力のほどに  舟漕(こ)がば

                        明日の  潮路(しおじ)は  神に任せん

 

というのがあります。その意味は次のようなものです。

「自分たちは一生懸命舟をこげばよい。潮によってどこに流れ着くかは、神様にまかせるとしよう」

私たちがいくら限られた知恵をしぼってあれこれ心配してみても、問題はなかなか解決しません。なるようにしかならぬ時期も、たしかにあるものです。自分のできることを力一杯やったうえで、あとは神仏のお導きにわが身をまかせてこそ、おのずと道が開けてくるものでありましょう。このような生き方こそまさに、「人事をつくして天命を待つ」というものではないでしょうか。

        合掌

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ともしび                 

第二十八号  

 

地獄湯と極楽湯の話

 

あるところに、地獄湯と極楽湯が隣合わせにあったそうです。地獄湯も極楽湯も満員です。地獄湯のほうはけんかが絶えません。やれひじがぶつかったとか、お前の湯がかかったとか、お互いにがみがみとけんかばかりしていて、殴り合いをしている者もおります。

ところが、極楽湯は平和そのものです。みなが和気あいあいと、楽しみながらのんびり湯につかっております。極楽湯のほうが広くて、ゆったり入れるからでしょうか。そうでもありません。地獄湯と極楽湯は全く同じ広さですし、中に入っている人数も同じなのです。では、なぜ差が出るのでしょうか。

地獄湯は、みんなが自分で自分の体だけを必死になって洗おうとしますので、けんかになるのです。せまい風呂の中ですから、相手のからだがぶつかるたびにお互いがいらいらし、いがみあいをしております。ところが、極楽湯では、みんながまるくなって一つの輪をつくってすわり、お互いが前の人の背中を洗っているのです。道理で争いが起こらないはずですね。

世の中にあるお金も物も、その量には限りがあります。ある者が一人占めをはかれば、他の人はあぶれてしまうのが当然です。地球の全部の面積のうち七割は海です。人間が住める陸地の部分は、全体の三割しかありません。その三割の中でも、砂漠やけわしい山、凍りつく氷河などの部分の占める割合はかなりのものですから、私たち人間は本当に、地球のごく一角にこびりついて生きているに過ぎません。それなのに現代人は大きな顔をして石油や木材を使いたいだけ使うものですから、エネルギ-は底をつきかけてくるわ、地球の自然環境のバランスまでおかしくしてしまって、このままでは、へたをすると地球ごと滅んでしまいかねません。

こんな地球規模のスケ-ルの大きな話は別として、地獄湯的な考え方は私たちの毎日にかなり浸透してしまっています。最近、「子供のわがままが目に余る」とか「人の言うことを聞かない」とこぼす親の方が本当に増えました。こうなってしまった原因には社会の風潮もあり、学校教育の欠陥もあり、テレビやマンガの影響も大きいでありましょう。しかし、何にもまして決定的なのは家庭でのしつけの変化です。

昔の家庭のしつけは、言わば極楽湯の考え方でした。

「ボロは着てても、世の中につくせよ」とか、

「ご先祖さまに顔向けのできないことはするな」

などといった叱り言葉は、どこの家でも普通に聞けたものです。昔の親は、自分自身が神様仏様に対して敬虔でしたから、子供に対しても断固たる自信を持ってしつけができたわけです。

ところが今では、どうも主流は地獄湯のしつけのようです。子供が学校に入れば、隣の子を一刻も早くけおとして、よい成績をとらせる風潮があります。  それでいて、口だけは、

「この子には、思いやりのある子に育ってほしい」

などと言ってみても、子供はねじれていく一方になりかねません。わが子の幸せを願わぬ親はおりませんが、自分の子を大事にすることが、

「なんとしてもほかの子供をおしのけよう」

に変わってしまってはいけません。

また、意外によく見受けられるのが、

「お父さんみたいになっちゃだめよ、あんたはちゃんと勉強しなさい。」

というような言い方です。言わば親父はだめな見本で、子供は「親父みたいに負け犬になるな」と言われるわけです。これも子供にとってはつらいものでしょう。というのも、もし受験や就職で失敗したら、今度は自分が敗北者になって、

「まったく、お前もろくでなしなんだから。きっとお父さんに似たんだわ」

などと言われるのが目に見えておりますから。

物やお金よりも、心の豊かさを受け継いでいってもらうようにするのが本当の教育ではないでしょうか。かつての古きよき日本をささえてきたのは、「極楽湯のしつけ」です。せめて私たちだけでも、相手を思いやる心をもち続けたいものですね。

このような神歌(しんか=神道の教えの歌)があります。

    もろもろの  人の悩みを  わがことに

                      思うぞ  教(のり)の  始めなりけり

この歌の意味は

「たくさんの人の悩みを自分のことのように思うのが、神の教えの始めなのである」

ですが、これは仏の教えにもそのまま当てはめることが出来ます。

        合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院   

 

 

ともしび                 

第二十九号  

 

格言はいかが

 

ベッケルリンの言葉

「人生は海、船頭は金である。船頭がいないと、うまく世渡りができない」

メナンドロスの言葉

「貧乏人が本当のことを言っても、なかなか信じてもらえないものだ」

福沢輸吉の言葉

「世の中に、何がこわいといっても、暗殺は別にして、借金ほどこわいものはない」

いずれも「なるほど」と思えるセリフばかりです。たしかに世の中、お金がないと生きていけません。しかし、それも程度があるようで、お金のために無理をしすぎて失敗してしまっては元も子もありません。

「愛情はお金で買える」

という言葉もあります。これを言ったのは、あのホリエモンです。一時は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、インサイダー取引で告発されたとたん、会社の実態が業績を水増ししまくった、たいへんなシロモノであったことがバレてしまいました。彼は東大を卒業後、イケイケドンドンで会社をひたすら大きくし、金と権力で周囲の者をひれ伏させてきたわけですが、金と欲だけでつながった人間関係は、それこそ「金の切れ目が縁の切れ目」です。いったん落ち目になると手のひらを返すように見捨てられてしまうのがオチです。その点、人間関係のつながりは財の多少に左右されることは、はるかに少なくなります。

たしかに、お金も名誉も地位も、ある程度は必要です。人間が生きていく活力は、それらを手にする努力から生まれるとも言えましょう。ただ、どんなにがんばっても、それらはしょせん、減りもすれば傷つきもするし、我々を無条件に幸福にしてくれるわけではないということを忘れてはなりません。国王も庶民も、生まれるときと死ぬときは裸です。百万トンの米を貯めても、末期には粥のひとさじも喉を通りませんし、部屋にいっぱいの衣装を持っても、死ぬときは一枚の経帷子(きょうかたびら)が着られるに過ぎません。

  般若心経はとても短いお経ですが、そのわずか二七六文字の中に、「無」という文字が二一回、「空」という文字は七回、「不」という文字も九回使われています。あわせて三十九回にもわたって、「否定の教え」が説かれているのです。これを「一切否定(いっさいひてい)」とも言います。一切否定とは、俗世の考え方や価値観を否定することによって、我々をもっと自由で、本当に充実した生き方に導こうという考え方です。私どもはどうしても先入観や見栄にこだわってしまい、本当の真実に目を向けないでいてしまいがちでが、信仰に精進することによって、少しでもおろかな生き方から脱したいものです。

不動院にはかなりたくさんの「会社の社長さん」がお参りにいらっしゃっていますが、成功する方はおしなべて

「社会への奉仕 > お金」

を生活信条にして働いておられます。世間一般ではとかく

「社会への奉仕 < お金」

と考えられている風潮がありますが、どの社長さんも

「それはおかしい。まずは他の人に喜んでもらうことが第一で、お金はあとからついてくるもの」

とおっしゃいます。いつも私はそれを聞きながら、

「だからこの会社は発展するのだな。」

と思います。目先の欲にばかり目を奪われ、どうやったら人を出し抜いて儲けられるかを考えている限り、部下が信頼してついてきてくれません。企業は人で支えられていますので、部下の心が離れたら会社はおしまいです。パナソニック(旧ナショナル)を創った松下幸之助さんや、ソニーの盛田昭夫さん、トヨタの豊田喜一郎さんなど、著名な創業者の人生をたどってみますと、

「この人、お坊さんやったほうが適任なのではないか?」

と思われるほど、公平無私、本当に世のため人のために一生懸命働くということを信条にしてがんばってこられています。だからこそ部下が、「この社長のためなら死んでも悔いがない」というくらい頑張り、現在の大企業の礎(いしずえ)となったのでしょう。

最初にお金の格言をいくつかあげましたが、次のような言葉もあります。

ホラティウスの言葉

「金はよい召し使いだが、場合によっては悪い主人になる」

江戸時代の川柳

「金持ちの  心配やはり  金のこと」

ただ、私は次の格言が一番好きなのですけど。

ツルゲ-ネフの言葉

「金は天下の回りものだ。ただ、いつもこっちをよけて回っていくのが気にくわん」

        合掌

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ともしび                 

第三十号  

 

心の濁りを払う

 

「怒りくるった人は、善いことでも悪いことだと言いたてるが、のちに怒りがおさまったときには、火に触れたように苦しむ。」

『釈迦自説経(しゃかじせつきょう)』というお経にある言葉です。「火に触れたように苦しむ」ほど反省や後悔ができる人は、まだ上等なほうとも言えましょうが、とかく私たちは怒ったり、ねたんだりすると、物事がきちんと見られなくなります。

  かつてお釈迦さまがこのような質問を受けました。

「ものが正しく見えなくなるときは、どんなときでしょうか。」

「もし、ここに器があるとしよう。その水が濁っているとしたら、人は自分の顔をうつして、ありのままに見ることができない。それと同じように、人の心がさまざまな欲望で濁っているときには、心が澄みきっていないから、ありのままにはうつらない。

 また、もしその水が火にかけられて沸騰(ふっとう)しているとしたらどうだろうか。やはり、そこに顔をうつして見ることはできないだろう。それと同じで、人の心が怒りにかきたてられているときには、やはり何事もありのままに見ることはできない。

 さらに、その水に苔が浮かび、草でおおわれているとしたらどうだろうか。いくらそこに顔をうつそうとしても、ありのままに顔をうつして見ることはできないだろう。それと同じことで、人の心が愚かさや疑いにおおわれていては、物事をありのままに見ることはとうていできないのである。」

立腹して心がかき乱れていると、相手を正しく見ることができません。その心の斧(おの)は、他人を傷つけるどころか、やがて自分自身まで傷つけることにもなってしまいます。ただ、このことは頭ではわかっていながらも、なかなか実行できないことでして、職場の人間関係なども、はじめはちょっとしたいさかいから出発して、お互いが親の敵のように憎み合ったりします。なかなか顔がうつる水のような心が持てません。

もっとも、「人間関係の難しさ」は割合に「暇な時間の多さ」にも関連している面もあるのではないでしょうか。というのも、『一言多くて、他の人から敬遠されるタイプ』というのは大体、あまり大した仕事をせずにひまな毎日を送っている人である、という場合が目立つからです。たとえば明日食べるものがないとか、不治の病であと半年の命だとかいう時に、「人間関係が複雑で」とか、「あの人のあの言葉が頭にくる」などと言っている余裕はありませんよ。要するに、他人の欠点が目につくだけ、その人が「ひま」なのです。

いずれにせよこだわりのない、澄んだ状態に心を保ちたいものであります。そのためには、「こだわりをなくそう、なくそう」などといくら頑張っても難しいところでありましょう。一番なのは、仕事か趣味にわれを忘れるほど打ち込むことではないでしょうか。余計なことを考えるひまがなくなります。当寺院には精神を病んでいる方もたくさんお参りされますが、結論をずばりと言ってしまうと、そういう人は「ヒマ」なので余計なことを考えるのです。生きるのが精一杯ですと、そんな余裕がありません。食べていくのがやっとの発展途上国にはほとんどうつ病がありませんが、それはこういう理由によります。

昔、サトリという動物がいました。このサトリは、相手の心を読むことができるのです。ある日、サトリはきこりが斧(おの)をふるっているそばにやってきて、「ばか、のろま」と、きこりを散々にからかいました。

「お前は、おれをつかまえてなぐってやろうと思っているだろう。」

そのものずばりです。きこりは慌てて、知らんふりをします。

「お前、知らんふりをして、おれが油断するのを待ってつかまえようと考えているだろう。おれが横を向いたら、斧を投げる気だな。」

「…」

「こう言いあてられては、たまらんと思っているな。」

「…」

あまりに心の中を読まれるので、きこりはサトリのことをあきらめ、からかわれるのにも相手にならないようにしました。そのうち、だんだん木を切るのに夢中になり、サトリのこともすっかり忘れておりました。その時、ふとしたはずみで手がすべり、斧が飛んでいってサトリにぶつかりました。サトリはあっけなく死んでしまいました。無心で仕事をするきこりの心の中は、サトリでも読めなかったのです。

  こんなに極端な話ではなくても、心が怒りにみちていれば、それは自然と顔にも出ますし、相手に伝わってしまうものです。そのことがますます人間関係を難しくしかねません。先の話のきこりのように、私たちも他人を気にするよりは、自分の仕事にはげむようにするのが一番でしょう。他人を気にしているヒマがあったら、働いたほうが得というものです。                             合掌

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