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ともしび                 

第三十一号 

才におぼれぬ心というもの

 

  塚原卜伝(つかはらぼくでん)という有名な剣術家がおります。卜伝は弟子に

「隙(すき)があったらいつでも打ち込んで来い」

と言いましたので、家に住み込んでいた弟子は、卜伝先生の隙をうかがって打ち込んでいこうとするのですが、どうしてもそのチャンスがありません。ある日、卜伝先生が鍋で料理を煮ているのを見て、

「隙あり!」

と叫んで木刀を振り下ろしたところ、卜伝先生は鍋の蓋でそれをはっしと受け止めてしまいました。弟子は

「お、恐れ入りました」

と言って平伏したというエピソードが残っております。

もう一つ、こんな話もあります。彼が滋賀県を旅行中、琵琶湖を舟で渡っていた時のことです。一人の武士が乗りあわせていて、自分の腕自慢をしていました。

「俺は日本一の腕前だ、だれだれにも一撃で勝った、誰それも俺の剣の前にはしっぽを巻いて逃げ出した。」

などと散々に言うものですから、舟に乗り合わせた人たちもへきえきとしておりました。卜伝も最初は黙って聞いていましたが、あまりに武士がしつこいので、

「剣は、人に勝つことよりも、人に負けぬよう工夫することだと思いますが、いかがでござろうか。」

と言いますと、武士は怒るのなんの、

「ほざきよったな!おぬしも武士のようだが、俺の『人に勝つ剣』と、おぬしの『人に負けぬ剣』とやらで勝負をしようではないか。」

「そなたがお望みならお相手をいたしましょう。しかし、人がいるところでは危ない。あの離れ小島で勝負をいたすというのはいかかでござろうか。」

武士もそれに応じて、船頭に命じ、離れ小島に舟を向けました。

  島に舟が着きますと、武士は早速飛び降りて身構えました。卜伝先生はと言うと、船頭からさおを受け取るやいなや、いきなりそれで岸をひと突きし、舟を岸にこぎ出してしまったのです。

卜伝いわく、

「いかがかな、これが戦わずして人に負けぬ剣の極意でござる。さらばじゃ」

武士はじだんだ踏んでくやしがりましたが、後の祭りというお話。

  犬については、弱いものほどよく吠えるという傾向があります。自分の才能を過信してうぬぼれを生じたときが、その人の成長が止まるときであるとも言えます。ふた昔前のバブル経済の頃の経営者の羽振りのよさは、もう語り草となっています。今となっては想像も出来ませんが、その頃は土地と株式にさえ投資すれば、いくらでももうかる時代だったのです。そのころの経営者には、心のどこかに、この武士と同じような慢心があったのではないかと思います。ところが、バブルが崩壊し、不動産や株が値下がりしだすと、有頂天だった人々が今度は真っ青になってしまいました。なぜなら借金だけは値下がりせず、どんどん膨らんでしまうからです。

ちょっと羽振りがよくなれば増長する、落ち目になれば悲鳴をあげるが、その反省が長くは続かない、俗世の価値観で進むかぎりは、こんなことの繰り返しになってしまいます。これでは人間的な進歩は望めません。信仰を通じて自らを振り返り、勝っておごらず、負けてくさらずの姿勢を養いたいものです。

  その意味では、早めに挫折を味わうのは決して悪いことではありません。

「死なない程度に苦労する」

のはとてもよいことです。(もちろん苦労で死んでしまっては元も子もありませんが、それほどの挫折はめったにありません。)考えてみれば、地球の資源は限られているのに、人口だけはあいかわらず増えているのが現実なのですから、生きていくのに苦労するのは当たり前なのです。就職は大変だわ、資源は限られてきたわで、昔より今はずっと暮らしにくくなったように思いますが、考えてみれば自然界で生きていくのは弱肉強食、それこそ食うか食われるかの大変な世界です。生きにくくなってしまった現在の状況のほうが、本来の世の中なのではないかとも思えます。

  生きていくというのは、大変なことのほうが多いのです。だいたい、お釈迦さまが悟りを開かれて、最初に言われた言葉が「人生は苦である」でした。普通でしたらそこで人生に絶望してしまうところでしょうが、幸い信仰のある人には指針と将来への見通しがあります。神仏への敬虔な気持ちをよりどころに、人生の荒波を乗り越えていきたいものです。

        合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院      

 

 

ともしび                 

第三十二号 

 

信じられるものとは

 

 あなたは、誰が言ったことならば信用しますか。一つのことがらに対しても、ある人はこう言い、またある人はこう言うなど、情報源によって内容が変わってしまうことも結構あります。報道メディアでも、会社によってとりあげ方が違うなどいくらでもあります。最も気をつけなければならないのがインターネットで、検索すれば一発で答えが見つかるのはいい点ですが、間違った情報もかなり載っています。「yhaoo知恵袋」などには「○○さんが死んだというのは本当ですか?」などと質問がよく出ていて、

「あらま、あの有名人の○○さんが死んじゃったのかしらん」

と思ってよく読むと、これがほとんどの場合、同姓の人間の死亡を勘違いしたもの。世の中にはそそっかしい人間がこんなにもいるのだと思う次第です。

 それにしてもメディアの力というのは偉大なもので、当寺院も昨年夏に弘法大師ゆかりの品を展示させていただき、それが新聞やタウン誌、有線放送などで取り上げられ、一躍名前を知られることになりました。取り上げられ方が「日本で唯一といってもいいくらいの、神仏習合の寺」という内容でしたので、かなりの方が「神と仏を一緒に祀っているという寺はここか」と言って訪ねて来てくださいます。報道のイメージの力というのはたいしたものだと思う次第です。

 報道というと、もう数年前のことになってしまいましたが、家族旅行で和歌山に行ってきました。和歌山というと総本山の高野山がすぐ連想されますが、この時は違いまして、わざわざ宿泊までして「貴志(きし)駅のたま駅長」を家族で見に行ったのです。「たま駅長」というのは全国初の猫の駅長であります。和歌山県に貴志線というローカル私鉄がありまして、利用客も少なく、廃線の危機に瀕していました。その頃、終点の貴志駅という駅舎に野良猫が三匹住み着いていたのですが、廃線になると猫たちの行き場がありません。売店のおばちゃんが猫の行く末をかわいそうに思い、社長さんに

「なんとかこの猫たちが路頭に迷わないようにしてもらえませんか」

と頼みに行きました。社長さんは連れられてきた三毛猫を一目見た瞬間、

「そうだ、この猫を貴志駅の駅長にしよう!」

と思いついたのです。当然社員たちは大反対です。

社員「猫を駅長にするって、社長、気は確かですか?」

社員「絶対にやめてください」

社長「そうか、そんなにみんな反対するのか」

社員一同「そうです」

社長「ならば、ワシはやる」

社員一同「えっ!?な、何で?」

社長「みんながそれだけ反対するということは、常識では考えられないということだ。これだけ常識外れのことをメディアに発表すれば、珍しさから新聞もテレビも飛びつくに違いない。だからワシはやる」

めちゃくちゃ先見の明のある社長さんで、予想通りというか、

「貴志駅の駅長に猫を任命しました」

と発表し、駅長の帽子を作ってかぶせただけ(総費用は2万円)なのに、メディアが珍しさからじゃんじゃん取り上げるようになり、宣伝効果は13億円分にもなってしまったそうです。今や、たま駅長は和歌山県の観光特別大使までつとめる人気ぶりです。実際に貴志線に乗ってみたところ、失礼ながらほとんど『近江鉄道』と同じで、本当にローカルな鉄道でした。まっ昼間にもかかわらず結構な人が乗っているので、

「このうちどのくらいの割合の人が、たま駅長を見に行くのだろう?」

と思っていたら、なんとほとんど全員だったのにはビックリ!社長の思惑(おもわく)恐るべしといったところですが、この社長さんの秀逸なアイデアの基本には、

「かわいそうな野良猫を何とかしてやろう」

という慈悲心の発露があったのは間違いありません。それが結果的に大ヒットにつながり、「ニャンコ一匹で赤字ローカル私鉄が見事に立ち直った」という現代版招き猫・サクセスストーリーができたわけです。アイデアの勝利と言えばそれまでですが、この社長さんの慈悲の心がなければ、ここまでの大成功には至っていないでしょう。

 このようにテレビや新聞が取り上げれば、私たちはすぐに信用してしまいます。しかし実際のところは、人間が報道する限りうそもまじりますし、間違いも当然あります。どこまで信用できるかというと疑問符がつくこともあります。信じて間違いがないのは自然の摂理であり、人と人との心のつながりであり、神仏のみ教えに他ならないのではないでしょうか。

                         合掌

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高野山真言宗清涼山不動院

 

 

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第三十三号 

 

クローンで幸せになれるのか

 

 クローン技術の進歩はめざましく、今や500万円出せば猫のクローンを作ってもらえる時代になりました。ところが、猫の毛の色は微妙な条件の違いで偶然に決まるようなものらしく、例えば白猫のシロちゃんが死んでしまって、クローンを作ったところ、生まれてきたのは真っ黒な猫ちゃんだったりするのです。「毛の色が変わっただけで同じ猫でしょう」と考える人もいるでしょうが、どっこい、猫の毛の色と性格は非常に密接に結びついています。

黒猫=フレンドリー

灰色猫=おっとり

白猫=時々神経質だが頭が良い

茶トラ猫=ズボラ

だと言われております。私は以前、飼い猫のお腹の調子が悪くて獣医さんに連れていったところ、猫を一目見た看護婦さんが、

「この子はおおざっぱな性格でしょう」

と、ずばりと言いあてたのでびっくりしたことがあります。

「な、なんでそれが分かるんですか!?」

「だって茶トラの子でしょう、茶トラの猫は性格がテキトーですもん。」

と言われて、ガーン。となると、死んでしまったシロちゃんのクローンを作って、それがクロちゃんになって帰ってきてしまったら、性格も全然違う猫になってしまっているわけです。つまり、

―確かにクローン猫なんだけど、元のニャンコではなくなっているー

わけでして、どう考えてもこんなニャンコに500万出すより、別の新しいニャンコを飼った方が早い。そうなりますと、

「亡くなった息子を、死んだ妻を生き返らせたい」

と願ってクローンの試みが今後なされたとしても、果たして同じキャラクターができるんでしょうか。また、仮にクローン生成に成功したとしても、誕生した息子や妻のコピーはどう言うのでしょうか。

「自分は何のために生まれてきたのか」

誰かの思い出の代わりに誕生させられる人生というものは、一体何なのでしょうか。息子のクローンならば、死んだ子供の代わりではなく、自分は自分で別の人生を生きていきたいと言い出すかもしれません。そしてそれを止める権利は誰にもないわけです。配偶者の身代わりクローンなどはもっと事情が複雑になるでしょう。相手が細胞分裂の状態から再び成長するのを待っているうちに、こっちが老化して死んでしまうことも考えられますし、成長したらしたで、

「あんたみたいな人は嫌い。働きは悪いし酒飲みだし、別の人と結婚するわ」

なんて言い出されても困ったことになります。

「約束が違う、お前は妻の代わりだ」

なんて言っても通用しそうにありません。

「何よ、産んでくれなんて言った覚えはない。勝手に産んどいて余計な干渉するな」

まるで非行少年のセリフみたいですが、こう言われてはおしまいです。アップル社の創設者であの『マック』を作ったスティーブ・ジョブズが死んだとき、世界中は大騒ぎで、

「惜しい人を亡くした。コンピューター業界の偉人だった。」

と言われ、「ジョブズの言葉」なんてのが格言としてもてはやされるようになりました。しかし、私もかなりコンピューターは、昔からやっていたから知っていますが、スティーブ・ジョブズって生前は

「奇人 変人 極悪人」

でしたよ。どう考えても成人君子じゃありません。めちゃくちゃ特異な才能がある人なのは事実ですが、とにかくとんでもないキャラで、それがまたカリスマ性につながってしまうという、気持ちいいくらい突き抜けた人でありました。ジョブズが亡くなった時、

「もしジョブズのクローンを何人も作ったとしたらどうなるだろう」

と、いうことを息子と話したことがあります。その結果は、

「ジョブズのクローンだったら、それぞれが『俺こそが才能No1だ。お前なんかゴミだ!』と言い出して大げんかになるだろう」

となって、二人で爆笑したことがあります。

 笑い話は別として、科学がいくら発達しても、しょせんはこんなものでありまして、自然の摂理の完璧さに追いつくのには相当の年月がかかりそうです。科学技術がいくら進歩しても出来ないことはあるし、大昔からお釈迦さまとかイエスさんとかが説いている道を外れずに生きていく方が安全確実と言えるのではないでしょうか。

                         合掌

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第三十四号  

 

四苦八苦の話

 

  一年のたつのは本当に早く、人生は実に短いものです。限られた時間と機会を十分に生かして、私たちも本当の教えを学びたいものです。神道の神歌(しんか)にも、

 

  世の中の  言葉の海は  広けれど 神の教えに  など及ぶべき

訳 世の中には言葉が海のようにあるけれど、どのような言葉も神の教えには及ばない

 

といったものがありますが、本当に大切なことは何かということをしっかりと考えて、毎日の生活をよりよいものにしたいものです。

  私たちはとかく、つまらぬおしゃべりやうわさで貴重な時間を無駄に使いがちです。お釈迦さまの時代にも、人間というものはよくむだ口をたたいていたらしく、弟子の中にも人のうわさ話しばかり好きなものがいて、お釈迦さまがお叱りになったということが仏典に出ております。

「お前たちがなすべきことが二つある。それは正しい言葉と、尊い沈黙を持つことだ。」

というのが、その時の言葉ですが、どうも現代に生きる私たちにも耳の痛い話であります。ひま人な人はややもすると、「誰々がもうけた」とか「こんな服を着ていた」とか、人のうわさでもちきりになりかねません。井戸端会議もストレスの発散になるのかもしれませんが、世の中の真実を見つめることなく、一日を無駄に過ごすのはやはりもったいない気がします。

  いい加減な気持ちでいるかぎり気がつきませんが、いったん何かのトラブルで頭を抱えれば、世の中には本当に、自分の思い通りになることはごくわずかしかないということがわかってきます。仏教では俗世を「苦しみそのものである」ととらえております。その「苦しみ」をもう少しくわしく言えば、

「生・老・病・死」

の四つということになります。

「老」とは文字通り「老いを迎えること」ですし、

「病」は「病気になること」、

「死」は「死ぬこと」です。

  ただ、この中に「生」が入っているのが意外ですね。この世に生まれるのが苦しみだというのは、ちょっとわからない気がしますが、私たちが苦しんだときには「いっそ生まれてこないほうがよかった」と思うものです。わが身の不幸を嘆く子供の中にも、「なんでお母さん、私を生んだの」という人がいます。これなどある意味では、「生まれてくることがかえって苦しみになってしまう例」と考えられるかもしれません。

  さらに、この「生・老・病・死」の四つの苦に加えて、仏教ではさらに四つの苦しみがあると説きます。

その一つは、「愛別離苦(あいべつりく)」

  これは愛する者と別離をしなければならない苦しみです。

二つ目は、「怨憎会苦(おんぞうえく)」

  これは、自分が憎み恨む者と会わなければならない苦しみです。

三つ目は、「求不得苦(ぐふとくく)」

  自分の求める物が得られない苦しみがこれです。

そうすると、もう私たちの体はみんな苦ばかりである、ということになってしまいましょう。

四つ目の苦がこれです。「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」といい、

  私たちの肉体と精神はすべて苦であるということです。

  この四つの苦を先ほどの苦に加えて数えます。四苦に四苦を加えて八苦になりますから、ここから「四苦八苦」という言葉ができました。

  こうやって世の中を見直してみると、さまざまな苦しみがあるものですね。ただ、これはあくまで俗世の話でありますし、仏の教えに従わず、一人一人が自分勝手なことをやっている限りの話です。お釈迦さまはこのような苦を解決するためにこそ仏教を開かれたわけですし、苦しみの原因となっているさまざまな欲望や愚かな考えを抑制する方法を教えてくださっています。私たちも機会あるごとにおのが生活をふりかえり、お釈迦さまの言葉の意味をかみしめたいものです。

 

                         合掌

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ともしび                 

第三十五号  

 

金は生かして使うべし

 

  ずいぶん前ですが、テレビのマンガでこんな内容のものがありました。

あるところに、大金持ちのくせにたいへんなケチがおりました。主人公はなんとか彼を説得して、難民たちへの基金に対して、いくらかの寄付をしてもらいたいと考えております。考えてみれば、こんなに厄介な問題はありません。どうしたら彼をその気にさせられるかということに知恵をしぼった結果、まずはその「ケチの大金持ち」を料亭に招くことにしました。宴席には超一流の料理が並べられております。ところが、彼はその料理を見るやいなや、烈火のごとく怒り出します。

「難民たちが飢え死にしかけていると言うから話に乗ってやったが、この料理は何だ。こんなもったいないことにむだ使いをするお前たちに、寄付する金はびた一文もない。」

  頭から湯気を立てて帰ってしまいました。たしかにこのケチの言うことにも一理あるような気もします。そこで主人公たちは一計を案じました。

今度は、もう一度彼を接待するのに、デパ-トの食品売り場を使ったのです。なぜデパ-トの食品売り場を選んだのかといえば、そこにある「試食コ-ナ-」を利用するためなのでした。

  「試食コ-ナ-」ならば、食品は少ししか食べられないとは言うものの、全部が「ただ」です。何か所もまわれば、さすがに腹もいっぱいになるもので、さすがのケチもこの珍案にはすっかり機嫌を直して、難民の基金に寄付をしてくれました。

  ポンと、一億円です。

ケチはケチでも、生きた金の使い方を知っている男です。たかがテレビアニメでしたが、見ていた私も「うーん」とうなってしまいました。

それに対して、私たちは同じようにはいきません。誰かの接待となれば、

「少しでも高いものを注文せねば損だ」

とばかりにはりきってしまうでしょうし、自分のための出費となれば急に財布の紐をしめることになりかねません。ちょうどさっきの男と逆になってしまいます。自分のことだけを思って貯めた金は、貯めれば貯めるほど汚くなり、自らの品を落としてしまいます。ほどなく、神仏の代わりに黄金の輝きに対して礼拝することになってしまいます。仏さまの金ぴかと、金銭の光とではちょうちんと釣鐘ほどの違いがあります。あくまで私たちが金を使うのであって、決して金に使われるような人間にはなりたくないものです。

  江戸時代にも似たような話があります。大阪に「大根屋小右衛門(だいこんやしょうえもん)」という大金持ちがおりました。なぜこんな変な名前がついたかと言いますと、彼はもともと野菜の行商から身を起こし、大根を一本一本、それこそ丹精(たんせい)をこめて商いをし、ついに莫大な財産を作りあげたからです。そんな苦労をしたものですから、小右衛門は金持ちになってからも、毎日おかゆとか、菜っ葉ばかりを食べてきりつめた生活をしておりました。世間の人は、

「なんと金にきたないやつだ。だから金持ちは嫌なんだ。」

とかげ口を言いあいました。

  あるとき、大阪の川という川をどぶさらえしようかという計画がもちあがりました。川をきれいにしておかないと、すぐに疫病が発生するのです。川ざらえはいいけれど、何しろ大阪も「八百八橋」というぐらいで川が多いのです。全部の川ざらえをしようと思えば、本当に莫大な費用がかかります。そこに千三百両を寄付したのが、他ならぬ小右衛門でした。自分の生活をきりつめても、世のためには惜しげなく金を出すというのは、なかなか出来ることではありません。この小右衛門が床の間に掛け軸にして掛けていたという歌が残っております。

 

  朝はかゆ  昼一菜(ひるいっさい)に  夕茶漬け(ゆうちゃづけ)

                          後生(ごしょう)大事に  身のほどを知れ

訳 朝は粥を食べ、昼のおかずは一つだけ。夜はお茶漬けのみ。健康に気をつけ、自分の身のほどを知って生活せよ

 

  小右衛門の生活にくらべれば、私たちのほうがはるかによいものを食べておりますし、ぜいたくな暮らしをしております。そのくせに「公共のためになにかしようか」という心のゆとりがあるかといえば、大いに疑問です。ともすれば「質素」という言葉を古くさいとして敬遠してしまいがちな私たちにこそ、このような掛け軸がいるのではないでしょうか。同じ金を使うなら、少しでも世のため、人のために使えるようになりたいものです。

 

合掌

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ともしび                 

第三十六号  

 

「人間」という文字について

 

 「人間」という文字には、いったいどんな意味があるのでしょうか。字づらだけを見ると、「人と人との間」という意味のように思えます。しかしこれではもう一つ意味がはっきりしません。では、次に「間」という文字を辞書で引いてみます。この字がどんな使われ方をするかといいますと、

  床の間  間のび  間ぬけ。

もう一つ「人間」という言葉には当てはまりません。そのほかはどうかと思ってさがすと、こんなのがありました、

  「出会い」という使われ方をすることがあるそうです。「人間」という言葉の、もともとの意味はこれかも知れませんね。つまり、「人と人が出会って人間になる」ということです。自分一人だけではしょせん「人」に過ぎません。自分と他人とが「出会って」こそ、はじめて「人間」という関係が生まれるわけです。この文字はそういうことを語っているのかも知れません。

  我々が地球で最強の生物になり、文化も持てたのは次の三つの条件によると言われております。

一つは、火を発見したこと。

二つめには、道具を発明したこと

そして三つめは、集団行動をとるようになったことです。

  現代の私たちのような生活をしておりますと、この「集団行動の重要性」を大して感じはしません。しかし、原始時代には、集団で行動するかしないかということは命にかかわり、「人」が単独で行動するということは、そのまま死を意味しました。というのも、その頃はサ-ベルタイガ-とか大型のクマとか、マンモスとかいった狂暴な生物がいっぱいおり、これらに襲われたら最後だったからです。「人」はいわば地球でもっとも弱い生き物でした。鋭いキバもありませんし、逃げ足も遅く、体毛も生えていないために何かを身にまとっていないと体をこわして死んでしまいます。

  このように、「人」は単独ではあまりに弱いので、グル-プを作るようになりました。そして体の不自由な者や女子供は、みんなで協力して猛獣やきびしい自然から守ってやるようにしたわけです。集団でまとまった「人」は、いつしか相手のことを思いやるやさしさや、全体のことを考える心のゆとりも身につけ、「人間」となったわけです。

  ところが、現代では皮肉なことに、この「人と人との結びつき」ほどうっとうしいものはなく、対人関係のストレスが私たちの悩みの七、八割を占めるほどになってしまいました。会社などでいざ自分が人を使ってみると、その苦労は並大抵のものではないということがわかります。昔から「人を使うのは苦を使うことである」ともいいます。実際、人にまかせず自分だけでやっていくのがよほど気が楽でしょうが、人間一人でできる範囲は本当にごく限られております。みんなで協力しないことには生きていけませんから、一人一人がここというところでぐっと「がまん」をし、他の人間を思いやるゆとりを持つことが大切になってきました。

  また、原始時代の人間は共同生活をするのにも楽な面がありました。そのころの人々の願いはまことに単純明快なもので、

「食べたい」

「眠りたい」

「子孫を残したい」

この三つくらいしかありませんでした。ですから個人の要求がぶつかることも、現代よりはかなり少なかったわけです。逆にいえば、この三つの願いだけが、ないがしろにできない基本的なものであって、その他の「いいかっこうがしたい」とか、「あの人より早く出世したい」などという願望はその後登場した新入りです。考えてみれば、となりの人より「ダサイ」服を着ることは、別に命にかかわることではありません。このように、私たちを悩ませるストレスの大部分は、私たち自身の見栄や世間体が作り出した、実体のないものとも言えます。どうせ悩むなら、もう少し悩みがいのあることで時間をさきたいものです。

  このような、現代の私たちにぴったりの真言があります。

    「おん  にこにこ  腹立てまいぞ  そわか」

腹が立ったら、この真言を二十一回くりかえして唱えてみましょう。腹の虫がおさまり、人と人とをうるおいでつないで、本当の「人間関係」を作ってくれるかもしれません。

 

                         合掌

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第三十七号  

 

ロシアの魔法びんの話

 

 あるお坊さんが旧ソ連を旅行した時の話です。今は経済的にもう少しましになりましたが、ソ連当時は物資がいつも不足していました。そのお坊さんはお茶が好きなのでお茶の葉を持参しましたが、そのお湯でずいぶん困ったそうです。ホテルで何回も頼んでやっとお湯がもってきてもらえるのですが、それがガラスの容器に入って出てくるのです。寒い国ですし、これではすぐに冷めてしまいます。お坊さんは、

「申しわけないが、魔法びんに入れて持ってきてくれませんか。」

と言いますと、

「魔法びんなど手に入りませんよ。店先でときどき見ますが、あんな高いものは買えません。」

  この状況は、いわば世界標準と言えます。よそからのもらい物に魔法びんはよくついてきますので、日本の家庭では余ったぶんがしまいこまれていることも多いでしょうが、豊かでない国の人には大変な財産なのです。日本ではプラスチックの使い捨てライターが普通に使われていますが、あれが旧東ヨーロッパに輸出されると、向こうの業者さんがドリルで穴を開けて金具を取り付けます。あちらではライターが高級品なので、ガスがなくなったら補充して使うのが当たり前、使い捨てにするなどありえないそうです。牛乳を買うときでも、牛乳瓶持参が原則。こちらから持っていった牛乳瓶に中身だけ注いでもらって買うのが当然となっています。

  戦後すぐの日本も同じようなものでした。駐留アメリカ軍のごみ箱から食べ物をさがし、彼らが捨てた品物は闇市で飛ぶように売れました。現代の豊かさは日本が偉大な国になったためだともいえましょうが、かつて繁栄をほこり、世界を牛耳っていたアメリカが今、犯罪と失業に悩んでいるのは決して他人ごとではありません。アメリカ人が国をおかしくしたのは、ぜいたくに明け暮れたためですが、今度は日本が同じことをしています。昔はテレビと車と冷蔵庫が三種の神器と言われ、この三つを手にした生活をすることが日本の庶民の夢でしたが、我々の暮らしはどんどん華美になってきてしまいました。

  魔法びん一つとっても、指一本のワンタッチでお湯が出る、ファジ-制御で適温を保つなどと、さまざまな工夫がこらされてくるようになりました。手が不自由な人のためにこのような仕組みをつけているというなら話は別ですが、少々重くても、手で魔法びんを持ってお湯を注ぐくらいが何の労力でしょうか。今の日本では「便利」という言葉がそのまま「ぜいたく」を意味する場合が増えてきているのかもしれません。「電動はみがき機」には私はどうもなじめず、自分の歯ぐらいは自分で磨いたらどうかと思ってしまいます。「電動卵のから割り機」が出たこともありましたが、これだけはさすがに、「もういい加減にしてくれ」という気がしたものです。

  人間はもともとサルの仲間と大してかわらなかったものでした。それが文化を持ち、理性を持つようになったのは、

「手を使うことで脳が刺激され、頭がよくなったから」

からだと言われております。実際に幼児には指先の訓練が大切で、ものをつかむ、ちぎるといった行為をなるべくたくさんやらせると、知能の発達によい影響があると言われており、保育園などでは指先をなるべく使わせるようにしているものです。

  ところが、何事も便利さが最優先される現代では、自分の手を使うとか、指先の仕事をするというような機会は本当に少なくなってしまいました。

「電動鉛筆削りはよくない、子供は自分で鉛筆ぐらい削れるようにならないといけない。」

といったことが言われていたのは、もう四十年も前のことです。今や、ナイフで鉛筆が削れる子や、りんごの皮がむける子は果たして何人いるのでしょうか。

ここで考えてみたいことがあります。最近の青少年の引き起こす犯罪は、

「すぐにかっとなり、先のことをほとんど考えていない。」とか、

「これでも人間のやることか、というくらいに非常に残忍な行動に出ることがある。」

などが特徴です。どうも「人間的」ではなく、「まるで先祖がえりをしたような動物的な行動をする」という傾向があるように思えます。もちろんこれにはさまざまな原因がありましょうが、あまりにも便利になりすぎた生活が、「がまんする・工夫する」といった美点を流し去ってきたということも影響を与えていないとは言えないように思います。私たち日本人は、「物で栄えて心で滅ぶ」ことのないようにしたいものです。

合掌

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ともしび                 

第三十八号  

 

曲がったキュウリの話

 

日本のス-パ-にはまっすぐなキュウリしか並んでおりません。自分で種をまいて育ててみると分かりますが、何もしないとキュウリは基本的に曲がっていきます。実は曲がったものの方が味がよく、栄養価も高いのですが、なぜか日本では人気がありません。商品が売れなくては仕方がありませんから、農家は一本一本のキュウリにおもしをつけてまっすぐにのばしたり、血のにじむような努力を重ねています。その手間が価格に反映されるので、日本の野菜は価格が高くなってしまいます。曲がっていようが何であろうが、刻んでしまったら同じはずですが、味や栄養といった本質的なことよりも、外見のきれいさや珍しさが日本人には尊重されるのです。

最近はネット通販が盛んになって、色々な商品を簡単に買うことが出来ます。我が家で人気なのが「訳あり激安品」です。焼き豚とかウナギとかベーコンとか、色々な商品があるのですが、どれも規格外のため通常の半値から3分の1で売られています。規格外とは言っても、

焼き豚ならば「端っこ」

 ベーコンならば、「切れている」「肉厚すぎる」「端っこ」

 ウナギならば、「普通の商品より小ぶり」

などが理由で市場に出せず、このような激安品になるのですが、焼き豚やベーコンの端っこはどう考えても普通の箇所よりおいしいし、肉厚すぎるベーコンなんて素晴らしすぎます。普通の商品より小ぶりなウナギは、身がしまっていて実際には普通のものよりもっとおいしかったりします。こんなお得なものが規格外になってしまうのは、いかにも日本ならではのことです。

そういえばパン屋さんに行きますと、サンドイッチを作るのにパンの耳をバッサバッサと切り捨てていますが、その耳をどうするのかと思ってみていると、どう見てもゴミ箱に捨てられてしまっています。あんなもったいないものはありません。

 私は高野山で修行したため、炊事・掃除・洗濯を全てやりますが、中でも料理は仏道修行の真骨頂と言われています。精進料理の本質を一言で言うと「慈悲(じひ)」だと言われております。相手の命を頂いて我々が生きていられる以上、少しでも無駄にせずいただくのは当然のこととされています。具体的にはカブラやダイコンは皮をむいても其れを捨てることなく、陰干しにしてそれでダシをとります。ダシをとったあとも決して捨てず、刻んで味噌汁の具にしたりきんぴらにしたりして、全部食べるのが当たり前となっています。「へた」の部分も残しておいて、それだけを煮付けにして一品のおかずを作ったりするくらいです。

そんな調子ですから、私がパン屋さんで大量に捨てられているパンの耳を見たりすると、もうもったいなくてもったいなくて、あれを使った料理レシピの一つでも考えてやりたくなってしまいます。耳つきのサンドイッチがあっていいとは思うのですが、現物にはなかなかお目にかかれません。私たち日本人は実用的な国民でないというか、外見や見栄だけにこだわってしまう傾向がありそうです。

  「百喩経(ひゃくゆきょう)」にこんなお話があります。

昔、貧乏な男が一人おりました。隣近所の者は彼をばかにして、ずいぶんとつれないしうちをしましたので、男は奮起して行商に出、苦労の末故郷に錦をかざることになりました。そこで彼は十頭ばかりのラクダの背中に金銀財宝をくくりつけ、自分はわざとぼろをまとって行列の一番最後についていきました。以前はあれほど冷たかった近所の者が、こんどはもみ手をして迎えます。ところが、肝心の主人が見つかりません。やっとのことで最後のぼろをまとった男がそれだと気がつくと、みんなは下へもおかぬ扱いでまわりにむらがりました。男はそこで、

「あなたたち、何か間違いをしていませんか。あんたがたが本当に用があるのは、前のラクダの背中に乗っているお客でしょう。」

と言ったということです。私たちも生涯に一度でいいから、こういうセリフを言ってみたいものです。

  どうも私たちには、外見で相手を判断することが多く、粗末な身なりならばかにし、立派な服装や地位の相手ならぺこぺこする傾向があるように思えてなりません。肩書きに弱いのもやはり日本の特徴で、やれ社長とか相談役とかを名刺にごちゃごちゃつけたがるようです。これもキュウリを無理やりまっすぐにするのと同じ次元の話になるのではないでしょうか。一番大切なのはその人の中身なのですが、これがなかなかわからないものです。せめて私たちだけでも、外見や物珍しさにまどわされることなく、真実を見つめていたいものであります。その真実とは、とりもなおさず神仏の教えにほかならないのではないでしょうか。

                         合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院   

 

 

ともしび                 

第三十九号  

 

誰かのために役立つ人生

 

  「女性は男性よりも迷いが少ないものだ」と言われることがあります。実際、中年で自殺する人には圧倒的に男性が多いものです。これはなぜでしょうか。思うに、女性は子供を育てるからではないでしょうか。母親が子供を育てるのは、いわば無償の奉仕です。

「このミルクをやったら損か得か」とか、

「おしめを替えると何か利益があるか」

などといったことを考えながらでは、とても母親はつとまりません。女性は少々つらいことや苦しいことがあっても「子供のために」と思ってがまんをする場合が多いものです。

  しかし、男性はこうはいきません。子供にべったりではありませんので、大体の人が仕事に生きがいを見いだそうとしますが、こういう場合に、

「自分だけがもうけたい」

「自分だけが出世できればよい」

と考えてしまうと、あとが大変です。大体が自分のことばかり考える人というものは、面白くもなく、またうるおいもないものです。当然のことながら世の中に取り残されます。いつまでも自分だけが人生の勝利者でいられるほど、世の中は甘くはないようです。何かでつまずいたが最後、人生の敗北者になるしかたがない、ということになってしまいがちです。

  それに対して、たとえわが子であっても、自分以外の「誰かのために」と思って頑張れるというのは救いがあります。この点では、女性の方が生きがいを見いだしやすいかもしれません。男性が仕事をするにも、自分のことよりも「お客のため、世の中のために役に立つように…」と考えられたら本当にすばらしいでしょうね。

  まあ、そんな境地に至るのは難しいとしても、自分の願いや要求ばかりを追求していくと、いずれは大きな壁にぶつかってしまうもののようです。

「自分はよい大学を出たのに、誰も才能を認めてくれない」とか、

「おれは仕事ができるのに、上役が認めてくれない」

などといったぐちをこぼすのも、自分だけの利益を追求していった結果、他人に相手にされなくなり、ひがんで世をすねた末ということでは寂しいですね。自分ではいくら天才のつもりでも、仕事ができると思っていても、他の人が認めてくれなければ話になりません。単なる自己満足に過ぎないのです。本当に頭がよく、仕事ができる人ならば世間のほうがほおっておかないものでしょう。他人に認められるためには、自分の頭脳が仕事が、誰かのために役立つことが必要です。そう考えてみれば、「自分だけではなく他人のためにも役立つように」と考えて努力している人にはかなわないことがわかってきます。

  キリスト教では、子を思う母親の無償の愛情を最高のものと考えます。仏教もこの点は同じでして、母がわが子を思うような気持ちをもち、その思いをあらゆる人に及ぼしていけば、この世の中は平和にいくでしょうね。

俗世はこの点が反対です。隣人に対しては、ねたみとそねみとやっかみを感じこそすれ、人の不幸をわがことのように思う心のゆとりなどなかなか持てません。だいたいが、

「あの人は自分よりもうけている」

「あの人の家は自分のより立派だ」

「あの家はみんなで海外に旅行に行った」

などといったことを比較して、泣いたり、笑ったりして心をすりへらしているわけです。いずれはとなりの家と、家具の大きさや愛車の値段まで競争しなければならなくなります。世間一般の常識にあわせることも大切ですが、こんなことに振り回されるのは、よけいな心配の種となるだけでしょうね。

  誰かの役に立って生きることを仏教では「慈悲の心」と呼びます。「慈母観音(じぼかんのん)」として観音さまがよく信仰されております。観音さまは非常にやさしい仏さまで、私たちのような欠点だらけのような者でも、実の子供のようにいつくしんでくださいます。私たちも観音さまの百分の一でも千分の一でも、まねをしたいものですね。相手に勝とう、相手を見下してやろうと考えている限り、実りのない争いはやむことがなく、平穏な心も持つことはできません。相手の痛みをわがことのように思うことから、神仏への道は始まるものです。いやしくも神仏の教えを学ぶ私たちは、誰かのために少しでも役立つ人生を送りたいものです。

                         合掌

522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地

電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679 

高野山真言宗清涼山不動院

 

 

 

ともしび                 

第四十号  

 

相手の幸せを祈る心

 

 「寒さも厳しい今日この頃です。お身体にはお気をつけください。あなたさまのご健康と、ますますのお幸せをお祈りいたします。」

  今、誰かに手紙を出すとすれば、大抵の人はこのような文面で結ぶでありましょう。しかし、「ご健康とお幸せをお祈りいたします」などと書きはしましたが、実際に仏前にぬかずいて、相手の健康と幸せを祈願する人はまずいないものです。この言葉は日本人にとっては、単なる美辞麗句(びじれいく)であり、受け取ったほうもこのことを別に本気にはしません。

  ところが、このような手紙を外国人が受け取ったとすると、少々事情が違ってきます。外国人の場合は、その人が本当に仏像の前で自分の幸せを祈ってくれたと思うそうです。というのも、キリスト教徒などは、寝る前にベッドのそばにひざまずいて、肉親や友達や、お世話になった人々の幸せを神に祈る習慣があるからです。ですから仏教徒の日本人も、同じようなことをしてくれたに違いないと思うわけであります。

  文化の違いと言えばそれまでですが、このことは「口で言うだけで誠意がない」と言えなくもありません。ベッドの前で相手のために祈るのも尊いです。日本人が「祈る」のは正月参りの行事においてか、さもなくばよほど困ったとき、いわゆる「困ったときの神頼み」くらいで、ふだんは神棚や仏壇などをお忘れの方も結構あるやもしれません。毎日必ず礼拝するキリスト教徒やイスラム教徒のほうが、どうしても熱心と言えるでしょう。これではちょっと恥ずかしい気もします。

  もし、私たちが本当に仏の前にぬかずいて、相手の幸せを祈ることができたら、その心がいずれ相手に伝わるやもしれません。ともかく、相手の幸せを祈ることを繰り返していけば、やさしい心、あたたかい心の輪が広がっていくことだけは間違いないでしょう。よく、

「人間など信じられない。世の中には親切な人などいない」

といって悲観する人がおりますが、そういう場合は、まず自分自身が、

「あの人を信じてまかせてみよう。他人に親切にしよう」

と考えたことがあるかどうかをもう一度、思い起こしてみたいものです。他人への思いやりや愛情がやや出しおしみ気味で、自分だけは特別扱いになっているならば、これはちょっと困ったものです。

  「金は天下の回りもの」などと言いますが、愛情についても同じことが言えるかもしれません。他の人にどんどん愛情を与えていけば、それはめぐりまわって、自分に帰ってくるようにも思います。とにかく、常に他人の幸せを祈れる人になりたいものです。

  電車に乗っていると、車掌さんが切符をあらためにきます。こういうとき日本人の大抵の方はちょっとイヤな顔をして切符を差し出し、車掌さんが「ありがとうございました」と言っても、ほとんど返事をしません。ところが、外国人はこういう場合にはだいたい、「サンキュ-」と軽くお礼を言います。これは「自分の席を確認してくれてありがとう」という意思表示らしいのですが、私たちもできればこうありたいですね。相手が職務上の義務で行った行為でも、自分に対してしてくれたことに感謝をするというのは、いいことには違いありません。このような気持ちが持てる人は、周囲の人の心まで暖かくすることができるのではないでしょうか。

  以前、テレビで人生相談の番組を持っているお坊さんが

「私のところによく相談の手紙がくる。深刻な悩みなので、こちらも一生懸命に考えて助言の手紙を出す。ところが、ほとんどの場合はそれっきりで返事が来ない。坊主は困っている人を助けるのが当たり前と考えているのかもしれないが、それでは寂しい。」

と言っていたことがありました。それに対して他の出演者が

「他人の行為に対して感謝できない人だからこそ、いつまでも悩みがつきないのですよ。」

と言っておりました。はがき一枚でもよいから「頑張ります」と言える人、誰かにお世話になったり、好意を受けたりしたとき、素直に感謝の気持ちが持てる人になりたいものですね。人間関係はみな、好意を受けた人がそれを他人にかえすことからなりたっております。長くて苦労の多い人生を明るく楽しいものにしてくれるのは、何といってもよい人間関係です。せめて私たちだけでも、相手を思いやり、幸せを祈る心を持ちたいものですね。

                         合掌

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