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第百二十一号 

謹賀新年の思い出

2021年のお正月のことです。一生忘れられない経験をしました。当日、息子が「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」という修行に熱心に取り組んでいました。この修行法は、弘法大師がお若いときに取り組まれたので有名です。成功すると超人的な記憶力を手にすることができると言われている、真言宗の中でも最大の秘法と言われています。私はかつて高野山の山の、さらに山の中にある新別処(しんべっしょ)、正式な名前は「円通律寺(えんつうりつじ)」という所で修行しましたが、高野山に住んでいる人もその存在を知らない、本当に秘密の特訓道場で、虚空蔵求聞法に挑戦している修行僧がおりました。100日間をかけて、虚空蔵菩薩の長い真言を百万回唱えるという非常にハードなもので、途中で挫折する人も多いのですが、この秘法のハードルが高いのは、単に真言を百万回あげただけではダメで、終了時に何かしらの超常現象を経験できないと、失敗に終わってしまうという点です。これはとんでもなく高いハードルで、明治以来虚空蔵求聞求持法に挑戦した僧侶は数多いのですが、成功したのは百人ちょっとしかおりません。年に一人以下の成功率しかないことになります。これに成功した人を二人だけ知っていますが、一人は行が終わると、自分が宇宙の中に浮かんでいるのに気がついたそうです。地球や太陽が足元に見えたそうで、本人は感激の涙を流し、あまりの素晴らしい体験のため、人格がすっかり変わってしまって、いたって温厚な人になってしまいました。もう一人は、百万回真言を唱え終わって行が終わったというのに、何一つ不可思議な現象が起きません。失敗してしまったのだと分かって大変気落ちしましたが、無事に最難関の修行を終えることだけは出来たのだから、せめてそのことだけでもお大師さまにご報告しようと奥の院に参拝し、合掌して顔をあげたところ、自分につながる無数のご先祖さまたちの顔が空中に見えたそうです。この人も大感激して、この経験をしたために、やはり人格が変わってしまったそうです。
そのような事情をよく知っているものだから、息子が虚空蔵求聞法に取り組んでいると聞いたときには、よりによってあの最難関の秘法かと思う反面、彼の能力の高さは常々認めていますので、彼ならやりとげるかも知れないと思い、どんな様子なのかと聞きました。本来ですと虚空蔵求聞法は、新別処のような特別な修行道場にこもりっきりになって、誰とも会わず会話も一切交わさず、朝から晩までひたすら虚空蔵菩薩のご真言を唱えなければなりません。ところが息子は自宅に普通に生活していて、修行の時に使っている虚空蔵さんといえば、他のお寺にお参りしたときに500円くらいで買った、虚空蔵菩薩のお姿が印刷されたお札なのです。ずいぶん廉価だなと思う反面、私は武術もたしなみますから、達人のレベルになると鍋の蓋のような身近な物を使って相手を簡単になぎ倒してしまうことも、常々目にしていますので、細かな決まりが重要なのではなく、要は実力の有無ですから、こっちも本気で話を聞いています。私が、
「500円の虚空蔵さんのお姿で修行しても、100日目には超常現象を経験できるんじゃないか。」
と言うと、息子が、
「実は初日から右と左のほうに、並列空間が出現している。」
と言うものだからびっくり
まさかいきなり成功しているとは全く予想外でしたが、ともかくもめでたい話なので、ちゃんとした虚空蔵菩薩像を買うことにしました。彼の言う「並列空間」というのは、我々のいる世界とは別の次元に存在している世界で、私も目撃したことがあります。基本的に我々の空間と一緒なのですが、妙に全体が黄色っぽかったです。見るからに仏さまのおられる世界で、仏像が基本的に金色なのも、この並列空間が黄色っぽい世界なのと関連があるかもしれません。実際には仏さまの体が金色なのは、仏さまの背後から噴き出すオーラが圧倒的な量の金色のガス状のもので、この反射によって仏さまの体が金色に見えるのです。これは2014年に私が大日如来さまのお姿を拝見したときに観察したことです。神さまや仏さまは私たちの心の中におられるのだ、ということをよく言いますが。実際には並列空間に今も、ここに存在しておられるわけです。
さて、真言宗や天台宗では「十三仏」といって、主要な法事ごとに仏さまを変えて法事を行います。当院には大変たくさんの仏さまがおられ、十三仏のうち十までの仏さまが祀られており、残るは虚空蔵菩薩、勢至菩薩、阿しゅく如来の三体を残すのみでした。じゃあ、せっかくだからこの三体を注文しようということになり、正月早々、1月2日に虚空蔵菩薩と阿しゅく如来が届いたので本堂に設置しましたが、28日が初ご命日だから、仏さまに魂を入れるのはその時にしようということになりました。 さて、気になる続きですが次号にまわります。


第百二十二号  

謹賀新年の思い出2

虚空蔵求聞持法という秘法に取り組む息子のため、虚空蔵菩薩と阿(あ)しゅく如来を購入したということまでお話ししました。仏像は本堂に設置しましたが、魂を入れるのは初ご命日の1月28日でいいだろうと思って、設置だけしたのです。2021年1月2日のことでした。その晩、私の部屋に息子がやってきて、「お父さん、呼んだ?」と聞きます。「呼んでないよ。ネットニュースでプロ野球のトレードの話なら読んでいたけど。」「部屋にいたら、男の人の声で『おーい』という声が聞こえたから、お父さんが呼んだのかと思って。」
とのこと。どうもおかしい、ひょっとして到着したばかりの仏さまが、早く活動したくて息子を呼びに行かれたのではないかと思い、夜10時になっていたのですが、急いで本堂に行って、その日に届いた仏さま2体に魂を入れることにしました。私は興味津々で、仏さまがしっかり確認できる位置に座り、何か不思議なことが起きるのではないか、万一何か起きたら、絶対に見逃すものかと準備していました。魂入れの祈祷は淡々と進み、はて、息子を呼ぶ声が聞こえたというのは気のせいだったのかと思い始めたその時、私の隣でゴーゴー音をたてて温風を吹き出していたストーブの音が、いきなり途切れたのです。音が止まったというより、ストーブから吹き出していた温風の圧力も一瞬なくなりましたから、止まったのはストーブではなくて、その付近の時間のほうだったようです。一瞬の静寂の中を、本堂横の待合室のほうから、
「キンネベンネン」
という、金属の響きのある、尻上がりの関西アクセントの声が聞こえました。はっとしたとたん、ストーブがまたゴーゴーと音をたて、温風が顔に吹きつけたのです。時間が止まっているのに、それを何秒とか表現するのは矛盾しているのですが、体感として1秒くらいの「制止した時間」でした。
さて、問題はその「キンネベンネン」という謎の言葉です。何か検索したらわかるのではないかとキーボードを叩きかけたところ、
「謹賀新年」
のことだと気がつきました。つまり、仏さまからお正月のお祝いを言っていただいたわけで、まことにおめでたいことこの上ありません。この阿しゅく如来という仏さまは、現在ではあまりお見かけすることがなく、とても珍しい存在となっておられますが、奈良時代や平安時代には熱心に信仰された仏さまで、平安時代に弘法大師がお建てになった東寺にお祀りされているのはこのためです。右手で衣のすそをつかんでおられるのが特徴で、困難に負けない信仰心の固さを表しておられます。薬師如来と同じく現世利益のご利益があり、開運、運勢向上のご利益があります。となると、息子の部屋に「おーい」と呼びに行かれた仏さまは虚空蔵菩薩ということになりますが、虚空蔵菩薩のご利益は成績向上と商売繁盛ですから、両方とも大変ありがたい仏さまです。
さて、仏さまからお正月のお祝いを言っていただくという、大変ありがたい経験をした2021年正月ですが、神さまのほうでも負けじとお祝いをしていただくという経験がありました。毎年この地域では、1月20日に伊勢神楽のご一行、俗に言う獅子舞の人たちが来られて各家を回られます。当院ももともとは神社なので、伊勢神楽のご一行は非常に尊重し、わざわざ休みを取って応対しているほどです。
さてこの年も、無事に伊勢神楽のご一行をおもてなしし、その10日後、1月30日のことです。夕方ごろ、私が本堂前の掃除をしていますと、どこからともなく伊勢神楽の笛と太鼓の音が聞こえてきます。最初は、また獅子舞のご一行が来ておられるのかと思ったのですが、あたりを見回しても伊勢神楽の人たちは見当たりません。ふと気がつくと、笛と太鼓の音は本堂の中から聞こえているのです。これは空耳ではないな、と思ったとたん、ヒュー、ドドンドン、と、笛と太鼓の音がひときわ大きく響いたかと思うと、それっきり何も聞こえなくなりました。当院には伏見稲荷さまをたくさんお祀りしており、そのお使いは言わずと知れた狐さんです。狐さんも大変な数がおられるのですが、特に私と仲がいいのが胡太郎(こたろう)という子で、いつも私に付き添ってくれているのですが、ちょうどその日、職場からの帰りの電車の中で、10日前に録画した伊勢神楽のムービーを再生して見ていたのでした。それを胡太郎も見ていて、さっそくそれをまねて、獅子舞の様子を再現してくれたのでした。よく、熱心に信仰していたら神さまや仏さまは我々に寄り添って、見ていてくださるのだということを言いますが 、あれは気休めなどではなく、本当のことなのだと痛感した出来事でした。まさか数時間前に私が見聞きしていたことを、再現してもらえるとは思いませんでした。こういう経験をしますと、人生何があっても最後は何とかしていただけるだろうという安心感があります。この点で信仰というのはまことにありがたいもので、少し前までは日本人は多かれ少なかれ同様の安心を持っていたように思いますが、この代わりは社会的地位や名誉や財産や、科学技術では代わりはつとまりそうにありません。

 

 

第百二十三号

狐さんとて実際は

 当院は真言宗の寺院ですが、真言宗自体が非常に神社と縁が深く、東寺の守り神が伏見稲荷さんですし、当院自体がもともとは神社であったため、龍神さんや鳳凰さん、伏見稲荷さん、祇園さん、杉姫稲荷さんといった、実にたくさんの神さまをお祀りしています。それぞれの神さまの霊験談は盛りだくさんすぎて書ききれないくらいなのですが、お参りの方でときどき、信仰をしているのにご利益がないと嘆かれる方を目にします。これは結構勘違いをしてしまう問題でして、神さまだろうが仏さまだろうが、最初は請求をするのではなく、まずは感謝から入らねばなりません。
 当院はもともと祈祷寺ですので、いろいろな悩みを抱えた方がいらっしゃいます。その中で時々、「請求書的祈り」をされているなあと思うケースに遭遇します。祈りには、「請求書的祈り」と「領収書的祈り」があると言われます。
請求書的祈りとは、健康になりたい、お金が欲しい、出世がしたい、一戸建ての家に住みたい、親孝行な子供が欲しい、苦しまずにポックリいきたい、死んだら極楽に行きたい、というように、次から次へと請求をしていく祈り方です。困ったときの神頼みという言葉もあるように、困難にうちひしがれて神さまや仏さまにすがるのは自然なことですし、真言宗が加持祈祷を盛んにやる以上必然だと思うのですが、こうやって書き出しただけでも非常に虫のいいことをお願いしているのが明白になってきますし、一つの願いがかなったらその次、それがかなったらまたその次と、どんどん欲望がふくらんでいくだけのタイプの人が、少なからずいます。実態はどんどん欲望が肥大していって我欲の固まりになっていってしまっているわけで、残念ながら信仰の道に一番遠いのはこのタイプの人であるとも言えます。何でもかんでも拝んでさえいれば願いがかなうわけではありません。また、人間はしょせん、短絡的な物の考え方しかできませんし、先々のことなどわからないものです。たとえば一戸建ての家を手に入れたいというのが望みで、それがかなわないと嘆いていたとしましょう。しかし、もし深刻な病気にかかったりしたら、一番の願いは健康の回復になって、一戸建ての家の問題などどうでもよくなるはずです。子供さんが非行に走っても、借金トラブルが発生しても同じで、考え方を変えるなら、一戸建ての家をどうこう言っていられるのだから、その他にはそう深刻な問題は発生していないわけで、それこそ神さまに感謝しなければなりません。
稲荷さんのお使いといえば言わずと知れた狐さんですが、伏見稲荷の神さまの眷属(けんぞく=お使いのこと)を何年か行い、その功績が認められると位が上がることが知られています。これは狐さんたちにとってとても名誉なことなのですが、なんと、位をあげてもらうためにはしっかり「お金」が必要になるそうです。江戸時代の話ですが、近江八幡のお寺に(まるで私みたいですが)狐を使っている住職がいました。ある時狐が、このたび伏見稲荷で位をあげてもらうことになったのだが、その費用が足りないので援助してほしいと言うのです。住職は、神の使いの位をあげてもらうにも金がいるとは驚いた、援助してあげてもいいが、そもそも、どうやって狐のお前さんが金をためることができたのだと聞くと、本堂の賽銭箱に入らずに、外へはねかえって落ちたお金を拾って貯めておいたと答えたそうです。実はものすごく地味な貯金をしていたという話。
もっと積極的な狐さんの話も伝わっています。同じく江戸時代の頃ですが、ある侍が年寄りのお坊さんと仲良くなり、趣味のことやら和歌のことなど、いろいろな話をするようになりました。お坊さんはとても博学で、実にいろいろなことを知っており、侍は常々感心していました。ある日、お坊さんが侍に語るには、実は自分は齡(よわい)1000年になる狐で、このたび伏見稲荷にご奉仕する役を仰せつかったので、貴殿とはお別れとなる、別れの宴を持ちたいのでお越しいただきたいというのです。告げられた場所に行くと、山海の珍味が山のように出される豪華な祝宴なので、侍が、
「あまりに豪華な宴なので、申し訳ないが疑問に思う。妖術で化かされて馬のくそでも食わされているのなら後免こうむりたいし、本物の山海の珍味だったとしても、これだけの物を用意するには、まさか人を騙して金など巻き上げたからではあるまいな、自分も武士のはしくれだから、人からかすめ取ったもので飲み食いはできない。」
こう言いますと、狐は、
「不審に思われるのはもっともだが、決して妖術でも人を騙して金を得ているわけでもない。自分は秘伝の薬の調合法を知っており、1000人いる部下が人間に化け、それを京都の町に立って売っている。その売り上げが全部自分の元に集まるので、このような祝宴ができる。すべてまっとうに働いて得た金だから安心されるがよい。」
こう言われて侍は納得し、狐と別れの酒宴を楽しんだそうです。こちらの狐さんにいたっては、本格的な製薬業にまで乗り出しているのがすごいですね。位をあげてもらう資金も潤沢だったようで、人間に助けを求めるどころか、このように豪華な酒宴まで開いてくれており、お金には全然不自由しなかったようです。
私もつくづく思うことですが、狐さんたちはとても働き者で、経済観念が実にしっかりしています。狐さん自身が働き者で商才にたけているので、我々人間も同じように頑張らないとよい結果は出ないのだということが、私が常々感じることです。お互い目の前のやるべきことに全力を注ぎましょう。


第百二十四号

狸さんの場合は

当院でお祀りしているのは圧倒的に狐さんが多いのですが、一体だけ狸さんがいます。この狸さんはもともと、旧家の神棚の中に入っていて、神さまとして祀られていたものです。私がその家の神棚の処分を頼まれ、魂を抜く祈祷を行いましたが、一つだけなかなか成功しません。これはよほど力のある神さまだろうと思い、処分はせずに当院できちんとお祀りしますと宣言したところ、やっと魂を抜くことができました。どんなすごい威力のご神体が入っているのだろうとドキドキして扉を開けたら、なんと中身は狸、意外な展開に驚いたものです。狸は「他抜き」といって、他の者を抜き去ると言われ、商売繁盛のご利益があると言われています。お店にはよく信楽焼きの狸の置物が飾ってあるのはそのためです。私が神棚の処分に行った旧家も、もとはずいぶん盛んに商売をされておられたので、この狸さんをお祀りしていたようです。
私たちの感覚でいうと、神さまの使いだったり、場合によると化かされたりするのは狐と相場が決まっていますが、四国では圧倒的に狸です。実は、これには弘法大師が関係しておられるのです。
弘法大師はある狐を大変可愛がっておられたのですが、狐ときたら、お大師様の擁護があるのをいいことにだんだん増長し、人を化かすなどの悪さをするようになりました。これを見てお大師様はご立腹になり、今後、本州との間に鉄の橋がかかるまで、四国に狐は入ってはならないとおっしゃいました。それ以後、四国からは狐がいなくなり、代わりに狸が天下を取ったと言われています。現在では四国に鉄の橋がかかったので狐連中も進出しているはずですが、いまだに四国においては狸が圧倒的に優勢です。
同じく人を化かす動物と言われている狐と狸ですが、その性質は相当違います。狐はあくまで「稲荷神さんのお使い」なのですが、狸の場合は、狸そのものが神さまとして四国のあちこちの神社に祀られています。私が出向いた旧家の神棚も、ご神体は狸そのもので、それ以外にお札などは全く入っていませんでした。
また、狐と狸とでは、外見からも容易に想像できますが、性格がまるで異なります。狐さんは商才にたけた働き者で現実主義者と言えますが、狸さんは愛嬌と個性があって、非常に庶民的、結構間抜けな失敗も多いのです。ぶんぶく茶釜のお話でも、茶釜に化けたものの火にかけられて熱くてたまらず、正体がばれてしまいます。とにかくユニークで個性あふれる狸が多いので、いくつか紹介しておきましょう。
愛媛の喜左衛門狸は、お国のために日露戦争に参戦したことで有名で、敵国ロシアの将軍、クロパトキンの手記にまで書かれています。そこには、
「日本軍の中に、ときどき赤い服を着た兵士が現れる。彼らをいくら銃撃しても平気で進んでくる。そして、この兵隊を撃つと我が軍の兵士は目がくらむ。彼らの赤い服の後ろには、?の中に『喜』と書いてある印がついていた。」
と、本当に書いてあるのです。喜左衛門狸が妖術でロシア兵をたぶらかしていた様子がよくわかります。また、荒野で日本軍の兵士が迷って途方に暮れていると、先方に提灯の光が見えます。仲間が迎えに来てくれたのだと思って追いかけると、いつのまにか本隊に戻ることができたとも言います。このような後方支援もしてくれたのでした。また、山に化けて敵兵をひっくり返したりもしました。
香川の禿(はげ)狸は大昔、矢で撃たれて死にかけているところを平重盛(たいらのしげもり)に助けられ、それ以後は平家の守護にあたり、平家が滅びたあとは屋島寺の守護神となったと言われています。自分が見てきた源平合戦の様子を妖術で見せるのが得意で、先に紹介した喜左衛門狸と化け比べをすることになり、禿狸が得意の源平合戦の様子を見せると、喜左衛門狸は数ヵ月後に大名行列を見せてやると言います。約束の日時に指定された場所に出かけると、とても立派な大名行列が行われていて、禿狸が、
「敵ながらあっぱれだ。よく化けたものだ。」
と言って篭(かご)の前に出ていくと、それは喜左衛門が化けたものではなく本物の大名行列だったため、警護の侍はびっくり仰天、すんでのところで斬り殺されそうになり、ほうほうのていで逃げ出したそうです。喜左衛門狸はその日時に大名行列が通ることを知っていて、一杯食わせたのでした。日清、日露戦争ではこの狸もたくさんの子分をつれて満州に出征し、大活躍をしたと言われています。
芝右衛門狸は大の芝居好きで、大阪の芝居小屋まで毎日通っていましたが、木の葉を金に見せかけてそれで入場していたので、入場料に木の葉が混じっているのを不審に思った芝居小屋の連中に犬をけしかけられて命を落としてしまいました。この狸を殺してしまった芝居小屋では客の入りが悪くなり、祠を建てて祀ったところ元にもどったと言います。
このように、狸さんがらみはとても面白いエピソードばかりですので、次の号でも紹介しましょう。

 

 

第百二十五号

狸さんの場合は2

当院でお祀りしている、一体だけの狸さんの話をしています。狐さんと比較しますと、先月号でエピソードをちょっと紹介しただけでも、とにかく面白く、かつ肝心なところが抜けているのが狸らしいところです。先月号で紹介した「芝右衛門狸」は入場料を、葉っぱをつかってごまかしたのが見つかって、運のつきになってしまいました。
毎日葉っぱを使って入場していたらバレそうなのに、こういうとんまなことをやってしまうのが狸さんならではではないかと思います。これが狐さんだったら堅実に貯金するとか、製薬業などで本格的に儲けますし、そもそも芝居などの娯楽にうつつを抜かしたりしません。この手の道楽は家業を傾けることが多いので商家では昔から固く禁じられており、芝居にハマった狐など一匹もいないのです。また、世の中には狐が書いたとされるものが結構伝わっていますが、書か和歌が非常に多く、達筆だったり結構すぐれた内容の歌だったりします。それに対して狸は、ほとんどが絵なのも面白いところで、教養に行きやすい狐と、娯楽に走りやすい狸の性格の違いがよく出ています。
また、狐と狸はその社会システムが相当違うようで、狸の場合は実力主義のところがあり、四国の覇権をめぐって金長(きんちょう)狸と六右衛門(ろくえもん)狸が死闘を繰り広げ、両者とも死んでしまっています。金長狸は正一位の位を授かるのが夢で、あと一歩のところだったのが、この狸戦争でかなわなかったといわれており、四国中を巻き込んだこの大戦争は「阿波狸合戦」として知られ、実際に1939年に映画にもなりました。製作したのは当時倒産の危機にあった大映ですが、この映画の大ヒットで会社が持ち直し、感激した社長が費用のほとんどを寄付して神社を建立しています。この神社には、いまだに芸能関係者や舞台関係の人の参拝が多いそうです。アニメ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」にも金長狸や先に紹介した狸神社が登場し、こちらも大ヒットしました。
狸さんの場合は覇権をめぐって戦争になってしまいましたが、狐さんでこのような抗争は聞いたこともありません。狐さんの場合、伏見稲荷にご奉仕して実績を積むというプロセスが確立していますし、最後は官位をお金で買っています。現実的といえば現実的ですが、まるっきり官僚の出世みたいな感じになってしまいますので、映画にして面白くなるのは圧倒的に狸さんのほうです。例の阿波狸合戦でも、最初は、金長狸は正一位の位が欲しくて六右衛門)狸のところに弟子入りしていたのです。金長狸の才能が抜群なので、六右衛門)狸は自分のあとを継がせようとし、娘の婿に迎え入れようとします。ところが金長狸は、六右衛門)狸の性格が残忍なのでこれに嫌気がさし、婿入りの話を断ります。六右衛門)狸は、この話を断るということは、金長狸が自分を追い落として四国の頭領の座を狙っているのではないかと疑い、それがきっかけで戦争になってしまいます。「地域の親分」同士の抗争がこの話には投影されているのではないか、と言われるくらい人間そっくりの展開で、この内容で映画を作ったら面白いに決まっています。まるで任侠(にんきょう)映画ですから、大ヒットしたのも当然の結果と言えるでしょう。
実は当院の周囲に住んでいたのは、もともとは狸のほうでした。信楽の狸というと大福帳と酒瓶をぶら下げているスタイルですが、本当にお酒が好きで、奈良漬けの甕(かめ)を割っては酒粕を全部なめてしまうのです。結構な損害ですが、狸は顔がかわいいので誰も怒る気にならず、家の者もしたいようにさせていました。そもそも、先代住職は踊りの師匠でいろいろなところに公演に行っていたくらい、正真正銘の芸能関係者ですので、だからあの頃は当院の周辺は狸だらけだったのだなあと思います。
 となると、実利的な商売繁盛のご利益が欲しければ狐さん、楽しく明るく暮らして、適当にお金がまわっていきますようにという、少々虫のいいお願いをするなら狸さんなのかもしれないなあと思います。何しろ狸さん自身がそういうタイプなのですから。外見からも容易に想像できますが、典型的な庶民派が狸さんです。
 この話を書いていて気がついたことがあります。日清、日露戦争で四国から狸さんが大挙して戦争に参加し、大活躍をしたことは有名ですが、なぜか太平洋戦争には全く参加していません。他の眷属(けんぞく)たちは太平洋戦争においても、ちゃんと日本軍の手助けをしており、ゼロ戦の周りを天狗が飛び回って敵を攪乱してくれたとか、九尾の狐が野原に火をつけて敵軍を後退させ、日本軍の兵士を助けたとかの話が多数伝わっているのですが、なぜか四国の狸さんだけは太平洋戦争には全く参加していないのです。理由は分からないのですが、私はひょっとすると、狸さんが庶民派のせいではないかと考えています。日清戦争や日露戦争は戦争を始めるだけのやむにやまれない事情もあり、それによって国力も上がり、非常にうまくいきましたが、太平洋戦争の場合、どう考えもアメリカに勝つなど無理な話ですし、庶民がやたら犠牲になったのが太平洋戦争なので、大衆派の狸さんは従軍を断ったのではないかという気がします。そう考えると、庶民の味方狸さんというのも、とても魅力的に思います。

 

 

第百二十六号

蛇さんの話

 狐さん、狸さんの話が続いたので、今月は蛇さんの話をします。当院の裏、名神サービスエリアに登っていく途中にはお地蔵さんがおられますが、このお地蔵さんが姿を現されるときには、真っ黒で首の所だけ金色の輪のついた蛇で現れるという言い伝えがあります。もう亡くなりましたが、私の叔母が小さい頃、真っ黒で金色の輪のついた蛇が現れ、雷雲と共にその姿が消えていったのを目撃したと言っていました。近年でも実際に、当院の世話方の人が、お地蔵さんの前掛けがふくらんでいるので、ひょとして、と思ってめくってみると、言い伝えの通りに真っ黒で、首に金の輪のついた蛇がいたと言っておられました。
お稲荷さん「髙廣大神」を祀っておられた檀家の方が、一緒に商売繁盛の神さまとして祀られていたのが「白玉龍王(しらたまりゅうおう)」さんです。名前に反して実際は二十センチくらいの真っ黒な蛇だと言い伝えがあったそうで、お稲荷さんとあわせて不動院におさめた次の日の朝、飼い犬が吠えるので様子を見に行ったら、言い伝えの通りに二十センチくらいの真っ黒の蛇が、家の中から外へ出て行くところだったそうです。それを見て檀家の方は、
「ああ、白玉龍さんが不動院に行かれるのだなあ。」
と思ったそうです。
 また、当院に最初からお祀りされていたのも龍神さまで、ご利益は商売繁盛と開運と言われています。何せ昇り龍ですから縁起がとてもよろしいです。歴史を調べてみますと、最初に神さまのお使いとしてあがめられていたのは蛇で、それが証拠に神話時代には、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治していますし、三輪山のご神体が蛇だったという伝説もあります。その一方で狐さんや狸さんが神話に登場することは皆無で、古来は蛇さんの独壇場でした。当院でお祀りしている弁天さんの頭の部分には、白いとぐろを巻いて顔だけがおじいさんの「宇賀神(うがしん)」さんという、蛇の神さまが乗っておられます。弁天さんはもともと「サラーヴァースディ」という名前のインドの川の神さまで、水と蛇や龍は密接に関連していたため両者はセットになっています。
 時代が平安頃になりますと、狐さんが神さまのお使いとして意識されるようになり、有名な陰陽師「安倍晴明(あべのせいめい)」の母が篠田(しのだ)の狐であるという伝説が生まれるなどします。その頃インドから密教系の茶吉尼天(だきにてん)という仏さまが伝わりました。もともとは人間を食べる鬼というおっかない存在だったのですが、日本に伝わる頃にはお稲荷さんと混じり合って、狐をお使いとするきれいなお姉さんの姿となりました。そういうわけで茶吉尼天さんは狐に乗っておられますが、弁天さんの時に頭にのせていた白蛇が、茶吉尼天さんのまたがる白狐に変化していて、弁天さんと茶吉尼天さんは姉妹関係にあると言えます。それが証拠に両者とも右手に剣、左手に宝珠(ほうじゅ)という宝の玉を持っておられます。ご利益も「両方とも商売繁盛です。当院にはあまりに多くの狐さんが来られたので、監督にあたる存在が必要だろうということで来ていただいたのが茶吉尼天さんなのですが、実は茶吉尼天さんには上司がいます。大黒天さんがそれで、茶吉尼天さんにお願いをしたけれどなかなかかなわないので、大黒天さんからも一つ言ってください、という祈祷が本当にあるのです。いわば、大量に在籍している狐さんたちが選手、監督が茶吉尼天さん、監督の姉が弁財天さん、監督を統括するGMが大黒天さんと、かなりの巨大組織になっています。
 最後に狸さんですが、狸信仰は江戸時代になって成立したのではないか、という民俗学の指摘があります。言われてみたら、芝居小屋が盛んになるのは江戸時代以降ですし、有名な阿波狸合戦が起きたのも江戸時代です。狐信仰が盛んになるのは平安時代以降で、狐さんたちが官位ごとにきちんと序列づけされ、書や和歌をたしなむのはいかにも平安貴族という感じですし、狸さんが隆盛を誇った江戸時代は町民文化が花開いた時で、芝居も絵も喧嘩も好きなのはいかにも江戸時代の庶民といった感じで、本当にその時代の主流だった文化の影響を非常に強く受けています。
先月号でお話しした、日清日露戦争で大活躍した狸さんが、なぜ太平洋戦争に全く出なかったのかというと、狸さんは庶民的思考ですから、一般大衆が悲惨な目に合う太平洋戦争への参加には気が進まなかったと考えられるのに対して、狐さんたちは伏見稲荷を頂点とする官僚組織の一員みたいなものですから、当時は各地の神社仏閣に対して敵国調伏の祈祷をするように命令がいきわたっていましたし、個人的には気が進まなくても、上からの命令は絶対なのが官僚組織なので、そのために参加したのではないかと考えております。そう考えるだけの根拠も実はありまして、昔から「狐つき」の状態になった病人がいた場合、神主さんや坊さんを呼んで狐を落としてもらうのが主流だったものの、「時の権力者」の威光を借りると、狐が落ちたと言われています。あるとき、豊臣秀吉公の親戚の者に狐がつきました。神主や坊さんが祈祷をしても全く効果がありません。ところが、豊臣秀吉さんの名前を出したら簡単に狐が落ちたのです。その理由を狐に尋ねると、
「ここで自分が落ちなければ、機嫌を損ねた太閤秀吉閣下は、全国に命令して狐狩りを行うことだろう。自分のせいで罪のない同胞が多数命を落とすのは忍びがたい。だから落ちるのである。」
と答えたそうです。この話を秀吉自身の耳に入れると、「そうか、狐がそう言っていたか。」と言って、とても満足そうだったといいます。現実主義者、かつ上からの命令に弱いのも、いかにも官僚っぽいという感じがするお話です。

 

 

第百二十七号

蛇さんについて2

 当院にはたくさんの仏様や神様がお祀りされています。神さまのお使いも同様で、狐さん、狸さん、蛇さんが祀られています。このうち、蛇さんだけが変温動物に分類されています。変温動物というのは、体温が一定していなくて、外の気温と連動して体温が変化する動物のことで、蛇やトカゲなどの爬虫類(はちゅうるい)、蛙やサンショウウオなどの両生類(りょうせいるい)が変温動物です。それに対して我々は体温が一定しており、恒温動物(こうおんどうぶつ)に分類されています。人間ならだいたい36度前後ですが、ヤギや猫など体温が38度くらいの動物が多く、夏の暑い日など、猫をたくさん飼っている私などは、たくさんの猫にくっつかれて大変なことになります。むこうとしては私にくっつくと、体温が私のほうが2度ほど低いので快適、「涼しいニャ-」とご機嫌ですが、当方としてはあのモフモフした体でくっつかれてさらに温かいので、まさに地獄の夏となります。
 さて、当院にてお祀りしている蛇さんについてですが、チンパンジーに蛇を見せると非常に怖がるそうで、蛇が苦手なのは人間も猿も同様らしいのですが、困ったことに感性が別の人間というのが一定数存在するようです。私の父は蛇好きで有名でした。小さめの蛇がいると捕まえてポケットに入れ、その蛇としばらく遊んでおりました。困ったことにそのキャラは遺伝してしまったようで、私自身は小さい頃から蛙が大好き、爬虫類も大好きで動物園に行くとトカゲやワニを飽きずに眺めていたものでした。なぜあんなものが好きなのかと問われても、我々恒温動物とは別の世界で生きているのが魅力、としか答えられなかったものです。
 蛇やワニといった変温動物は、外気温と自分の体温が連動しますから、結果として寒いところでは活動できなくなります。ワニや大蛇はアフリカなどにはうじゃうじゃいますが、アラスカにワニや大蛇がいるかというと皆無で、あんなに低い気温ではすぐに死んでしまいます。進化レベルが上なのは我々恒温動物ですから、ちょっと考えたら我々恒温動物が、変温動物を駆逐してしまいそうに思いますが、実際には両者はちょうど半分ずつくらい地球を分け合うように、それぞれが繁栄しています。これは蛇やワニなどが、非常に省エネな体の構造をしていることが原因なのです。
 ガラパゴス諸島に海イグアナというのが住んでいます。実はこの島にはもう一種類のイグアナが住んでいて、陸に住む陸イグアナは、主にサボテンを食べます。サボテンは結構栄養豊富なのでまだいいのですが、問題は海イグアナのほうで、彼らは海藻を食べて生活しています。海藻というと典型的なダイエットフードで、カロリーなど限りなくゼロに等しく、よくこんなものだけ食べて生きていけるなあと感心すらします。彼らは朝になるとまず日光浴をして体を温め、活動できるまでの体温になると海にもぐり、海藻を食べます。自分の体を太陽電池パネルみたいに使って太陽のエネルギーを蓄積し、それで動いているわけで、実にエコです。こんな餌だけで我々恒温動物が生活していたら、あっというまに餓死してしまいます。我々は体温を一定に保つために体内に熱源が必要となるので、彼らのだいたい十倍のエネルギーが必要になるのです。たとえて言うなら、我々がガソリンエンジン搭載の自動車とすれば、彼ら変温動物はソーラーパネルで動くエコカーみたいな感じになります。我々に比べて圧倒的に少ないエネルギーで生きていけるため、餌の少ない過酷な環境で生きていくとなると、変温動物のほうが有利になります。となると、「しぶとくタフに生きられるのが変温動物」ということになりますが、これはそのまま「蛇さんの性質」に他なりません。蛇を殺したら執念深いから祟ると言われており、実際に祟った話もかなりあります。また、殺してもなかなか死なないとも言われていますが、生存に必要なエネルギーがもともと少ないのですから、生命力が強いのは当たり前なのです。
以前、奈良県の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)にお参りしたら、白蛇さんが山頂の小屋で飼育されていました。とても大きな白い蛇ですから「神さま扱い」されていて、撮影された写真が商売繁盛の護符代わりに販売されるくらいの人気です。私もさっそく白蛇さんを拝みに行きました。お賽銭もちゃんとあげてしっかり拝んだのですが、もともと理系出身なので、つい「蛇としての生態」が気になってしまいます。
「ところで、この蛇さんには食料として何を与えておられるんですか。」
と私が聞くと、家の者はずっこけました。「それ聞いたらありがたみが台無しだ。」と言われましたが、実際に白蛇ちゃんが食べているのはブリーダー向けに販売されているネズミ(生きた状態ではないそうです)でした。ところが、その量を聞いてびっくり。
「確か三ヶ月前くらいに一匹食べたはずです。」
なんて話になっていました。我々だったら絶対餓死するレベルです。このような生命力があってこそ、蛇さんが神の使いになったのだなあと痛感したものでした。そしてこの点は、我々も見習わなければならないことが多々ありそうに思います。現代は人間関係のストレスで悩まされることが多いのですが、気に入らない同僚や上司を何とかする、というのはどだい無理な話です。一番いい解決法は、めんどくさい相手とはかかわらずに静かに生きることで、まさに蛇さん生活と言えるでしょう。だいたい、しぶとくあきらめずに、静かにして生きていれば、人生の問題は基本的になんとかなってしまうものです。相手とケンカするよりよほど賢い生き方と言えるでしょう。静かでエコな生き方も悪くないなあと、蛇さんを見ているとつくづく思うのです。

 

 

第百二十八号  

犬神の話

 当院にお祀りしている狐・狸・蛇さんの話を書いてきましたが、実は犬神(いぬがみ)もお祀りしています。要するに犬の神様ですが、同じ多賀町内に大滝神社という神社があり、そこの出身です。大滝神社は、平安時代前期の807(大同2)年の建立とされる神社です。鈴鹿山系から琵琶湖へ向かう犬上川のほとりにあり、正月三が日に約40万人の初もうで客が訪れる多賀大社からは約5キロ上流に位置しています。
 この神社には、忠犬「小石丸(こいしまる)」の伝説があります。日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子・稲依別王命(いなよりわけおうのみこと)が、犬上川にすんで住民に危害を加えていた大蛇を退治しようと、愛犬の小石丸を連れて出掛けました。しかし7日間探しても大蛇は見つからず、疲れた命が仮眠しようとすると、小石丸が激しくほえました。寝付けずに怒った命が刀で小石丸の首を切り飛ばしたところ、犬の首は近くに潜んでいた大蛇にかみつき、命を守ったというものです。
 犬の首を切ってしまった命は後悔し、小石丸の体を手厚く塚に葬り、松を植えたと伝えられており、神社近くの場所には「犬胴松(いぬどうまつ)」が残っています。命は一帯を長く治めた犬上氏の祖となり、大滝神社境内の犬上神社にまつられています。この犬上氏の末裔が「犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)」という人で、最後の遣隋使と最初の遣唐使として中国に行った外交官であり、現在の多賀町や甲良町、豊郷町は犬上氏の領地であったことから、この一帯を「犬上郡(いぬかみぐん)」と呼ぶようになりました。横溝正史の長編推理小説に「犬神家の一族」というのがありますが、この場合の「犬神」も、おそらく「犬上氏」の血統、ということになるのでしょうが、推理小説なのであくまでフィクションであり、「犬神」という苗字は実際には日本にはありません。その代わり「犬上」という苗字は100ほど存在しており、「現滋賀県である近江国犬上郡発祥ともいわれる」「由来は犬神信仰によるものや、犬上神社のあるところからと言われる。」と説明されています。
そういういきさつもあって、大滝神社は「犬の守り神」といわれるようになり、町や観光協会は、2018年が戌年だったのを機会として、この伝説に着目しました。氏子の人が社務所を整理したところ、犬上神社で飼い主と一緒に祈祷される犬の様子をつづった1921(大正10)年の新聞記事と写真を見つけたのです。犬の祈祷がいつ途絶えてしまったのか記録はないそうですが、氏子総代会長によれば、「戦後に犬の祈祷をした覚えはない」ということです。そこで戌年の2018年から、月に数回ある「戌の日」のうち1回を犬の祈祷日とすることにしたそうです。復活を前に、小石丸に見立てた犬を描いた絵馬を作り、「愛犬を連れて初もうでを」とPRしたところ、2018年の正月三が日は例年の10倍にあたる千人近くが参拝し、その半分以上が愛犬を連れていたそうです。
以上は郷土史的な説明ですが、2022年に開催された彦根のまちなか博物館企画展「近江の妖怪」では、もう少し詳しい話が取り上げられています。先に紹介した稲依別王命(いなよりわけおうのみこと)と愛犬は、安土桃山時代に作られた「多賀参詣曼陀羅(たがさんけいまんだら)」という絵巻物に描かれているなどしますが、愛犬の名前が「小石丸(こいしまる)」ではなくて「小白丸(こしろまる)」になっている伝承もあるということが報告されています。また、切り落とされてしまった忠犬の首はどうなったのかというと、犬上郡豊郷町八目(はちめ)に「犬上神社」というところがあるのですが、実はこの神社は「犬頭神社」とも呼ばれ、稲依別王命(いなよりわけおうのみこと)の屋敷があったところとも言われていて、「犬上の君遺跡公園」というものもあります。そして、大滝神社と同じ伝承が残っています。
この忠犬がなぜ「近江の妖怪」として取り上げられているのかというと、全国的には「犬神」というと「クダ狐」と並んで妖怪として昔から有名なせいであり、特にその本場は高知県であると言われています。クダ狐が大勢集結している当院に犬神もまた集まるのは、ある意味当然の結果だったのではないかと思います。犬神のご利益というと、なんといっても戌(いぬ)の日に腹帯のご祈祷をするくらいなので、子授けや安産ということになるでしょう。また、忠犬としては東京・渋谷駅のハチ公があまりにも有名ですが、主人の危機を身を挺して守ってくれる律義さは、犬ならではのものです。
小白丸の親についても伝承が残っています。長浜市に「平方天満宮(ひらかたてんまんぐう)」という神社があり、江戸時代以降は菅原道真(すがわらのみちざね)公を祀るようになったのですが、それ以前は「犬神明神(いぬがみみょうじん)」という名前でした。伝承によると、琵琶湖から怪物が出てきて、この一帯では娘を人身御供(ひとみごくう)として差し出していたそうです。そこで忠犬「目検枷(めたてかい)」を怪物と戦わせたところ見事討ち果たしたのですが、傷を負って「目検枷(めたてかい)」もまた息を引き取ってしまいました。怪物の正体は大カワウソであったとも、大猿であったともいいます。平方天満宮には今でも「目検枷(めたてかい)」の墓である「犬塚」が残され、犬塚に触れると歯の痛みが止まると言われているそうですが、この「目検枷(めたてかい)」の子供が、先に紹介した小白丸であり、親子そろって忠義な名犬だったのです。犬の忠実さは昔から有名ですが、我々人間も、彼らの律義さを見習わなければならないと思うことが多々あります。 

 

第百二十九号

招き猫の話

 当院にはたくさんの招き猫があります。縁起物として有名ですし、昔から猫は縁起のよいものとして珍重されてきたので、猫の話をすることにしましょう。猫と人間の関わりはおよそ9500年前、中東付近でのリビアヤマネコの家畜化がはじまりとされています。 そして猫は古代エジプト王朝からヨーロッパ全域、さらにアジアにも広まり、その後中国を経て日本に渡ってきたというのがおおよその経過です。
農耕が生活の基盤だった古代社会において、穀物を食い荒らすネズミの存在は本当に脅威で、ネズミを何とかしないと皆死んでしまいます。ネズミを捕ってくれる猫は昔の人にとってかけがえのない存在であり、エジプトでは猫が死んだら多額の費用をかけて処理をし、ミイラにしていました。タイは昔国名をシャムといい、そこで改良された猫なのでシャム猫という名前になっていますが、この猫を外国に持ち出すことは厳禁されており、見つかったら死刑になってしまったくらいです。それでも世界中にシャム猫がいることを考えると、金に目がくらんで猫を密輸する人間が古来からいたのだということがわかります。エジプトでも猫を尊重する風潮は相当なもので、猫の神様「バステト神」というのがいましたし、ペルシア(現在のイラン)とエジプトが戦争になったとき、ペルシア軍はわざわざ、自分たちの兵士の盾に猫をくくりつけて戦ったそうです。そのためエジプト軍はまともに攻撃ができず、ずいぶん苦戦を強いられたということです。のちにエジプトがローマの支配下におかれた時、ひょんなことから猫を殺してしまったローマ兵がいました。それを知ってエジプトの民衆は激怒し、なんと、よってたかって兵士をリンチして殺してしまったのです。さすがにこれは問題となり、ローマとエジプトの間で戦争まで起きました。このせいで命を落とした兵士が、ローマ、エジプト双方で結構いたはずです。無駄な死を「犬死に」というのですが、この場合はさしずめ「猫死に」とでも言うのでしょうか。
 一方で猫は,歩いても足音はしないし(柔らかい肉球が足の裏についているので、歩く音を簡単に吸収してしまう。これは獲物に気づかれないため)、暗闇で目が光るし(目の奥が鏡状になっていて光を一度反射させ、二回分の光の量で物を見るため暗闇でも目がきく)、気まぐれで何を考えているのかわからなため(集団生活を送る犬と違って個別行動が基本なので、他者からの命令を聞かず自分の意志のみで行動するためにこうなる)、理解不能で神秘的で不気味な存在として、恐れの対象にもなりました。有名なところでは中世の魔女狩りの時、猫は魔女の使いとしてかなりの数が殺されてしまいました。ところが猫がいなくなったせいで増えたネズミがペスト菌を媒介し、ペストが大流行して当時の世界の人口の4分の1が死亡するという、とんでもないバンデミックを引き起こしてしまいました。日本でも長生きした猫は「猫また」という妖怪になるとか、死人を操って踊らせるとかいう伝承が伝わっている地域があります。
 猫がいつ頃日本に入ってきたのかというと、猫が日本にやってきたのは当初、奈良時代から平安時代の1200?1300年前とされていました。中国から仏教が伝えられた際、経典をネズミの害から守るため船に一緒に乗せられてきたというのが長い間の通説になっていました。その後、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡でイエネコのものとされる骨が発掘されました。これにより今からおよそ2100年前、弥生時代からすでに日本には猫が存在していたという説が濃厚になりました。古代日本の猫は現在のような愛玩目的ではなく、貯蔵していた穀物をネズミや昆虫から守る役割を果たしていたようです。
 第59代天皇・宇多天皇は父である光考天皇から譲り受けた黒猫を飼っていたことでも有名ですが、日記「寛平御記」にもその黒猫の記述が残っています。これは日本最古の飼い猫の飼育記録と言われており、さしずめ現代の猫ブログのルーツといった位置付けになるのかも知れません。実はこの宇多天皇から近江源氏佐々木一族が始まっておりまして、佐々木家には代々「猫キチ」がとても多いのですが、これは1200年前からの先祖代々の血筋ともいえます。
さらに第66代天皇である一条天皇も無類の猫好きで、猫の誕生日を祝うための儀式を行ったり(しかも皇太子と同じ儀式をやったので、当時ですら驚いた人が多かった)、身分が高いものでないと昇殿が許されないからと、飼っていた猫に官位を与えたという話もあります。この猫は白猫で「命婦(みょうぶ)のおとど」という名前で、「従三位下(じゅさんみげ)」という位をもらったのですが、現在でいうと「国防大臣クラス」に相当し、「枕草子」を書いた清少納言や「源氏物語」を書いた紫式部などの父親は「五位(ごみ)」止まりなので、猫の方が偉いのです(官位の数字が少ないほど偉い)。酒の席で一緒になったりしたら、お酒をつぎにいかねばならなくなります。この猫に乳母として「馬のおとど」という名前の女官がつけられたともされます。女官は今でいう国家公務委員で、仕事は猫の世話ですから、猫の世話をして国から給料をもらっていた公務員が本当にいたのですからすごい話です。もっともこの女官、白猫が言うことを聞かないので(この時点で間違っていて、言うことを聞かないのが猫なのですが)、宮中にいた翁丸(おきなまる)という犬に「翁丸、命婦のおとどに食いつけ」と言ったら、翁丸が本当に吠えかかったので(忠実すぎる)、白猫ちゃんはビビッて一条天皇の懐に飛び込み、一条天皇は激怒、女官は一発でクビ、翁丸はボディカードにボコボコに殴られるという大変な目にあってしまいました。このような面白い話ばかりなので、次号に続きます。


第百三十号

招き猫の話2

当院にたくさんある招き猫の話から、猫談義が続いています。日本では平安時代から愛玩動物として飼われるようになった猫ですが、大変な高級ペットで、庶民にはとても手が届く存在ではありません。当時貴族の女性に対しての最高の贈り物が猫だったといいます。宇多天皇や一条天皇をはじめとして歴代天皇には猫キチがとても多かったのですが、高級ペットだからこそ大事にされたという事情もあります。一条天皇が飼っていた白猫「命婦(みょうぶ)のおとど」が子猫を産んだ時には、天皇は狂喜して皇太子と同じ待遇で育てたとか。こうやって書いてみると、確かに高級ペットではあるがやはり「猫キチ」ならではの行動だと思えてしまいますが。
古代において猫がいかに貴重な存在であったのかということは、いろいろなエピソードから知ることができます。「子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)」で始まる「干支(えと)」に猫が入っていないのは、干支を決める日を鼠(ねずみ)がわざと間違って猫に伝えて、それで猫は干支の中に入ることができなくなり、それで猫は怒って、いまだに鼠を追いかけるのだ、という話がありますが、実は真っ赤な嘘でして、干支を決める時に猫は高級ペットすぎて一般庶民に縁がなかったので選ばれなかったというのが本当の理由です。その証拠に、シャム猫で有名なタイとか、近くのベトナムなどでは猫が早くから普及していたので、干支にはちゃんと「猫年(ねこどし)」が存在します。江戸時代初期までは猫の数が増えることはなく、依然としてその存在は貴重でありました。そのため数少ない猫の代わりに、ネズミを駆除する力があるとして猫の絵が重宝されていたという史実まであります。猫の絵を貼っていても効果はないと思うのですが、それくらい庶民には手が届かなかった存在でした。
昔話を見ると犬と猫の違いがよくわかります。犬は昔からペットとして庶民にもよく飼われていたので、「花咲かじいさん」のポチもいますし、桃太郎の最初の家来も犬ですし、とにかくよく登場します。ところが猫はあまり見当たりません。そして猫が飼われているのは、だいたいお寺と相場が決まっています。お経や仏像をかじられたらとんでもないことになりますし、お寺は一般の家よりはるかに広いので、ネズミが一度住みついたら駆除するのはとても難しいというかほぼ無理になり、猫を飼うしかなくなるのです。これは当院でも全く同様であり、お寺は基本的に、猫がいないととんでもないことになってしまいます。
昔話に猫が登場する話としては「猫檀家(ねこだんか)」がよく知られています。あるお寺で猫が飼われていたのですが、次第にそのお寺は貧乏になっていってしまい、食べるものにも事欠くありさまになってしまいました。住職は自分の食事を減らして猫に与えているしまつ。ある日、急に猫が口をきいて、
「今までずいぶん世話になったので、住職に恩返しがしたい。近々、村の長者の家で葬式がある。そこで自分が力を発揮して、住職の得になることをしよう。」
と言うのです。猫の予言通りに長者の家でほどなくお葬式があったのですが、墓地への途中の葬儀の列の最中に、棺桶が空中に浮かび上がってしまいました。一同はびっくり仰天、行者や神主、祈祷坊主などが頼まれてやってきて必死で拝みますが、棺桶は空中に浮いたままでびくとも動きません。そこへ貧乏寺の住職が現れて、猫に教えてもらった呪文を唱えると、棺桶はするすると地上に降りてきたのです。これはとんでもない霊能力をもったお坊さまだと長者がびっくりして檀家になり、村の者も長者にならって次々に檀家になったので、お寺はとても豊かになったというお話です。先月号でお話ししたように「猫には死体を動かす力がある」と信じられていたので、このような話が成立するようになったのは間違いありませんし、日本中にこの民話は伝わっているのですが、特に東北地方に多いのが特徴です。東北地方は養蚕業が盛んですが、蚕はネズミの格好の餌になってしまうので、ネズミを退治してくれる猫がとても重宝がられたため、猫檀家のように「猫を飼うといいことがある」という話が広く伝えられることになりました。
 庶民にずっと縁がなかった猫が、やっと愛玩動物の仲間入りをしたのは江戸中期以降です。そのきっかけとなったのが「招き猫」のエピソードです。東京世田谷に豪德寺という禅宗のお寺があるのですが、住職は大の猫好きでした。ところが豪德寺は大変な貧乏寺なので、住職は自分の食べ物を減らして猫に与えていました。まるっきり「猫檀家」そっくりの展開ですが、こちらは実話です。住職は冗談半分に
「これだけ面倒を見てやっているのだから、何か一つ恩返しなどしてくれないものかなあ。」
と猫に語りかけたそうです。するとある日、この地を通りかかった鷹狩り帰りの殿様が豪德寺の前を通ると、門前にいた猫が「こっちへ来い」とばかりに手招きをします。はて、不思議なことがあるものだと立ち寄ることになり、しばらくお寺で過ごしていると、突然雷が鳴り豪雨が降りはじめました。雷雨を避けられた上に、和尚の説法がひどく気に入った殿様は、豪德寺に多額の寄付をしたので、お寺は寛永10年(1633年)に立派に再興されました。その殿様は彦根藩主の井伊直孝(いいなおたか)でした。つまり、招き猫は近江彦根藩ゆかりのものなのです。豪德寺では、福を招いた猫を「招福猫児(まねきねこ)」と呼び、猫をお祀りする招福殿が建てられました。招福殿には、家内安全、商売繁盛、開運招福を願うたくさんの参詣者が訪れています。

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