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第百一号  

弘法大師伝 その1

今月より、弘法大師のご生涯についてお話をすることにします。
弘法大師は今から千二百十年の音、宝亀(ほうき)五年六月十五日(西暦七七四)に讃岐国(さぬきのくに=現在の香川県仲多度郡(なかたどぐん)善通寺(ぜんつうじ)にてお生まれになりましたし。父は佐伯善通卿(さえきのよしみち)、母は玉依御前(たまよりごぜん)という名前の人です。
お大師様が生まれられた時、奈良の都には大仏が建立され、諸国には国分寺が建てられて仏教文化は大いに盛えていましたが、一方では貴族と僧侶の癒着による弊害が現れ、奈良時代は末期的な様相を見せ、世相は暗く、民衆はかなり悲惨な生活を送っていました。というのも、奈良時代の政治は律令制度(りつりょうせいど)と呼ばれるもので、簡単にいうと土地の私有が禁止されていて、社会主義国家そのままだったのです。日本中の土地は全て帝のもので、国民は帝の土地を借りているだけ、死んだら国家に返さなければなりません。当時の財産はなんといっても領地です。となると、いくら頑張って働いてもどうせ自分のものにならないのだから、真面目に働く者などいなくなり、生産性が極端に落ちてしまいます。旧ソビエト連邦時代がまさにこの調子で、レストランに入って注文をしてもウエィトレスはまともに仕事をしていないので、注文通りに料理が出てくるかすらわかりません。ウエィトレスもコックも、床屋の親父もみんな国家公務員でノルマというものが全くなく、国から一律の給料をもらっています。「頼んだ料理が出てこないではないか」とウエィトレスに言うと、「そんなことは知らない。文句は共産党に言え」と返されるしまつ。こんな調子で西側諸国に勝てるはずがなく、経済、技術、軍事の全てで圧倒的な差がつき、ソビエト連邦は崩壊してしまいました。奈良時代も同じで、私有地が認められていなかったため、生産性がとても低く、貧困層が非常に多かったのです。平安時代になると荘園制ができます。要するにこれは私有地ですので、頑張れば自分の土地が広がりますから、がぜん人々は働くようになりました。お大師様が活躍されたのは平安時代初期で、まさに新しい時代にふさわしいヒーローだったということができます。
幼少の頃のお名前は「真魚(まお)」というのですが、頭脳明晰であまりに優秀であったため、「貴物(とうともの)」と呼ばれていたそうです。幼い頃から仏教への信仰があつく、土で仏を作っては拝むという遊びをされていたそうですから、コンピューターゲームばかりしている昨今の子供とは、最初から出来が全然違っていました。
七歳に成長された段階で、わが身を仏に捧げて多くの人びとを救ってゆきたいという誓いをされており、その姿が「稚児大師(ちごだいし)」として信仰の対象となっております。有名な天才少年であった大師は、十五歳にして伯父の阿刀大足(あとのたり)に連れられて奈良の都に上り、勉学にいそしまれるのですが、苦悩に満ちた青春時代であったことは、お書きになった「三教指帰(さんごうしいき)」という書物を読むとよくわかります。というのも、当時は藤原氏が実権を握りつつあり、それに対して大師の出身である佐伯氏は、大伴氏と並んで落ち目であり、一族の者は大師が持てる才能を発揮して高級官僚となり、佐伯一族に再び栄光をもたらしてくれることを期待していたのです。ところがお大師様は仏教の信仰が非常に厚いので、一族から立身出世の過剰な期待を寄せられるのは大変心苦しいのでした。結果的にお大師様は出家の道を歩まれますが、これは大正解だったと言えます。なぜかというと、政権の中枢は今も昔も、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する伏魔殿(ふくまでん)ですし、平安時代は藤原氏が政権を完全に牛耳(ぎゅうじ)って、反対勢力はことごとく叩きつぶしていましたから、もしお大師様が一族の期待通りに官僚になっていたら、藤原氏の暗躍により、とんでもないことになっていたのは間違いないからです。
事実、お大師様より後の時代に、藤原一族の横暴に反旗をひるがえした帝が出たことがありますが、結果的にはうまくいきませんでした。この帝のお名前は宇多(うだ)天皇といいます。この人自身が大変数奇な運命をたどった方で、帝位争いにやぶれて皇室から離れ、一般の役人をしていたのが、後継者争いのゴタゴタで、予想もしない形でひょんなことから帝位につくようになった人です。あとにも先にも、公務員として働いた経験のある帝はこの人しかいません。帝自身が大変な苦労人なので、当たり前のように藤原一族が政権を牛耳るのをよしとせず、実力主義で政権を運営しました。そこで大抜擢されたのが、あの菅原道真(すがわらのみちざね)です。この人の才能も群を抜いていて大活躍しましたが、宇多天皇が退位したとたん、藤原一族に足元を救われて失脚し、九州太宰府に流されてしまいました。道真失脚のを聞いた宇多天皇は大いに驚き、自分に代わって帝位についた次の帝に、なんとか道真を許してくれるよう頼みに行きましたが、藤原一族の息のかかった帝であったため、けんもほろろの扱いで全く取り合ってくれませんでした。道真を救いたい一心で訪れてきた宇多天皇を、大雪の中、庭で何時間も立たせたままでほったらかしにしていたといいます。
藤原一族の専制ぶりはこのレベルなので、お大師様が官僚になられなかったのは結果的に大正解でした。信仰心の厚いお大師様は十八歳で国立大学に入られましたが、大学は官僚の養成機関であり、大学内の立身出世主義にうんざりされたのと、おそらく官僚として生きていくには危険が多いことを敏感に感じ取られたのだと思います。


第百二号  

弘法大師伝 その2

  お大師様は全ての分野において天才の名をほしいままにされていますが、全分野に精通した万能の天才としては、レオナルド・ダ・ヴィンチがいますし、スケールはもう少し小さくなりますが、書や工芸、焼き物などで名前をとどろかせた本阿弥光悦(ほんなみこうえつ)、茶道や作庭などで才能を発揮した小堀遠州(こぼりえんしゅう)などがいます。これら万能型の人の特徴として、時の政治権力と揉め事を起こすことがなく、適当な距離を取りながら非常にうまく処世していっているということが言えます。小堀遠州は徳川家光の茶道指南でしたが、歴代の茶道指南役は安楽に死ねた人がいません。
茶道を大成したのは千利休(せんのりきゅう)ですが、当時の茶道は大名同士の権勢の象徴だったため、権力の中枢とつながりやすく、利休は豊臣秀吉の右腕として絶大な権力を誇ります。ところが両者の間に次第にすきま風が吹き、ついに利休は秀吉の命令で切腹させられてしまいます。利休の次に天下の茶道指南になったのは弟子の古田織部(ふるたおりべ)ですが、敵のスパイではないかという嫌疑をかけられて同じく切腹させられています。三代目の茶道指南の小堀遠州だけは無事な人生を送ることができているのですが、このように万事器用なタイプの人は、処世術も同様に器用にこなす傾向があります。政治の動向も非常に敏感につかみとることができるのが、これら万能タイプの人の特徴なので、若き日のお大師様が官僚ではなく、僧侶への道を歩まれたのも、信仰心の厚さもありますが、時代の流れを敏感に感じとる才能をお持ちだったせいなのではないかと思います。
さて、なぜ僧侶になるのがそれほど正解だったのかと言いますと、出身階級が全てだった古代社会において、僧侶だけは実力主義の世界で出自を問われなかったからです。時代がくだりますが、日蓮上人は自ら、「私は身分の大変低い漁師の子供である。」と言っておられますが、そのような出身階層で一つの宗派をうち立てて宗祖になるなど、僧侶の世界だけが可能なことだったのです。それ以外の分野では出自(しゅつじ)が全てなのが古代社会でした。心を固められ、仏門に入ることになったお大師様は、奈良仏教の一つである三論宗(さんろんしゅう)の高僧、勤操大徳(ごんそうだいとく)を師と仰ぎ「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を授けられました。密教は弘法大師がもたらされたものという認識が一般的ですが、実際には奈良時代には密教が伝わっていました。これらの密教を「古密教(こみっきょう)」と言います。大師はいよいよ仏道修行に精進されることになりますが、当時の修行の様子を「三教指帰(さんごうしいき)」という本にお書きになっています。「阿波国(あわのくに)大竜ケ嶽(おおたつがみね)に登り、室戸崎(むろとみさき)にて修行していると、谷中に地響きがし、金星が私の口の中に飛び込んだ。」とお書きになっておられます。虚空蔵求聞持法は密教の最高秘伝であり、霊能の才能がなければいくら努力しても習得できないので有名なものですが、いきなりこれをマスターしてしまわれるあたり、超天才の名をほしいままにされたお大師様ならではということができます。
二十歳で勤操大徳に従って、和泉国(いずみのくに)槙尾山寺(まきおさんじ)でお大師様は出家得度をされました。ということは、密教の最高秘伝である虚空蔵求聞持法を習得されたのは、まだ僧侶にもなっておられないアマチュアの頃だったわけです。どれだけ才能があるか想像もつかないレベルです。お大師様は主として奈良の都で仏教を学ばれたのでありますが、満されないものがありました。当時の奈良仏教は哲学的な論理を追求するという傾向が強く、どちらかというと学問的な傾向が強いものでした。
真言宗でときどきお唱えするお経に「立義分(りゅうぎぶん)」というものがあります。私が高野山で修行していた頃、「かまど」に祀られている神様に向かって、このお経を毎朝唱えるのが日課になっていました。工事の安全をお祈りする地鎮祭のご祈祷でも、このお経は必ず唱えます。ところが、このお経はかなり唱えにくく、よほど練習しないとつっかえてしまいます。普通、お経というのは五七調を中心とした独特のリズムがあるものですが、このお経にはどう見てもリズムがないので、唱えるのにかなり苦労します。なぜだろうと意味を調べたらびっくり仰天、「物質が存在するとはいかなることだろうか。存在を知るには我々の認識が深く関与しており、それには意識の問題が深く関与してくる。」なんて調子で、哲学的な議論が延々と続く内容だったのです。お経というより、論理学のレポート課題みたいなもので、これを講義してもらったら間違いなく爆睡することになりそうでした。リズム感がないのも当たり前なのです。何しろ哲学の論文ですから。この内容がどう「かまど」の神様や地鎮祭に関連があるのかいまだにさっぱりわかりませんが、奈良の南都六宗の仏教もどちらかというとこんな感じで、哲学的な課題を追求する傾向が強いものでした。また、南都六宗といっても私たちが一般的にイメージしている「宗派」というものではなく、学問の系統みたいなもので、研究分野によっていくつかを掛け持ちしたりしていたのが奈良仏教でした。実は「宗派」というものを始められたのもお大師様なのです。密教と一般仏教を同列に学ぶというのは無理というのがお大師様のお考えで、比叡山を開かれた最澄さんとはその点で意見が合わず、最後には袂を分かたれることになりました。


百三号  

弘法大師伝 その3

  お大師様は、研究分野というよりは、本当に民衆のためになる仏教が学びたいと考えられました。そこで奈良東大寺の大仏殿に二十一日間こもって、「願くは三世十方の諸仏、われに不二(ふに=絶対の真理という意味の言葉)を与えたまえ」とひたすらに祈願をこめられたのです
大仏殿で一心に祈り続けた二十一日間の参籠(さんろう)が結願(けちがん=最後までやりとげること)の日を迎えたとき、
「大和国高市郡久米の東塔に行くべし」
と大仏よりお告げがありました。奈良の大仏というと修学旅行の行き先というイメージが一般的ですが、立派な信仰の対象で密教では大日如来と同じものとされています。
大師はここで「大日経」七巻を発見されたのです。二十三歳、延暦十五年初春のことでありました。この不二の法門といわれる大日経との出合いは、大師が後年真言宗を立教開宗される基(いしずえ)となったのです。                      ‐
大日経には密教の深い教えが述べられています、具体的には金剛界曼陀羅(こんごうかいまんだら)で表される世界なのですが、文献だけの理解では全体像をつかむことは不可能です。それなら、密教の正統を継ぐ良き師に会ってそれを実証するほかはない、仏の教えは単なる理論や哲学ではないと思われた弘法大師は、中国の長安に留学することをご決心されたのです。後年、伝教大師最澄さんが密教を学ぶために弘法大師に弟子入りされましたが、残念ながら最終的にはたもとを分かってしまわれました。いろいろな理由がありますが、一番大きいのが、最澄さんがお大師様から理趣経を借りて、文献研修だけでマスターしようとされたのを、お大師様が「それは絶対無理だ。」と言ってお断りになったのが一番大きな理由です。別にお大師様が意地悪をされたのではなく、学問研究だけで密教を極めようとするのは、誰がどう見ても無理なのです。お大師様は結構強い調子でお断りの手紙を出し、それで亀裂が決定的になったのですが、この時の留学の決意をしたいきさつがあるので、そのときのお気持ちは察してあまりあります。
それから七年間の大師の行動は謎に包まれており、多くの大師伝も、その間の伝記は記されておりません。そのため、さまざまな想像が古来からいろいろなされています。結構よく語られていたのが、お大師様が道教の修行を熱心にされていたという説です。弘法大師ゆかりの場所を調べると「丹(に)」の産地であることが非常に多く、これは道教で珍重される仙薬(せんやく)の主成分であることから、このような説が語られるようになったのでしょう。仙薬とは、これを飲めば仙人となって自由に空が飛べ、人間世界から抜け出せ、不老不死となることができるという薬です。実際には「丹(に)」は硫化水銀で猛毒であり、永遠の命が欲しいからとこの薬を飲んで中毒死した中国の皇帝が何人もおり、不老不死どころかあの世に行って人間世界とおさらばする代物でした。
また、かつて「空海」という映画が作られたことがあるのですが、初期の脚本ではこの時期にお大師様には彼女がおり、その子と泣く泣く別れて唐に渡るという内容になっていたそうです。映画としてはきれいなお姉さんが出てきたほうが映えるというものの、そんな映画を作られたら勘違いする人が出るじゃないかと本山が猛抗議して、この脚本は書き直しになったとか。
高野山の私の師匠がこの問題を研究しておりまして、師匠いわく、実際にはお大師様はひたすら勉強していたのだそうです。それが何で分かるかというと、当時日本に伝わってきていた本をお大師様が読み、その内容をご自分の著書に引用したり反映させたりしているのですが、当時日本に伝わって来ていた本の内容と、お大師様の著作を照合するという研究です。それによると、驚くべきことに、当時この国に伝来していた本を、本当にほぼ全部読んでおられるということがわかったそうです。結論は、お大師様の謎の七年間は、ひたすら勉強をしておられたのだそうです。弘法大師というと、各方面に並ぶもののない超天才として有名で、私たちは「生まれついての天才のお大師様なら、何でもやすやすと鼻歌混じりでこなしてしまわれたのだろう。」と考えてしまいがちですが、実際には全く逆で、大変な努力の末に知識も才能も獲得された方なのです。実際に、お大師様ご自身が、「どうしたらうまい文章が書けるのか。」ということについて書き残しておられますが、その答えは、
「何時間も考え、頭を悩ませ、ああでもないこうでもないと思案をし、苦しさに耐えてやっと一行を書き出すことをしない限り、よい文章は書けない。」
というものです。お大師様の作られる文章は名文として古来から有名ですが、流れるようにすらすらと出てくるものではなく、実際には大変な苦労と労力の上に書かれていたものでした。超天才弘法大師の実際は、大変な努力の人だったのです。となると、お大師様ですら血のにじむような努力の末に結果を出されたというのに、才能ではるかに劣る私たちが、怠けてばかりいたら、物事がうまくいくはずもない、ということが言えます。天才はもともとの才能に加えて、常人の何倍もの努力をした結果生まれるものだと言えそうです。まずは一に努力、二に努力ということになりましょうか。


第百四号  

弘法大師伝 その4

  弘法大師のご生涯についてお話をしています。弘法大師は唐に渡られるのですが、これはものすごく大変なことなのです。同じ船に乗られた最澄さんは国に認められた国師なので、留学費用はすべて国家の負担ですが、お大師様は国の認可を受けた僧侶ではなく、私度僧(しどそう)と呼ばれる、いわば勝手に僧侶になってしまった状態なので、留学費用はかなりの部分を自分で用意しないといけません。現在の価格でいうと約一億円必要になるそうです。いくら地方の豪族の出身であってもこれだけの金額を用意するのは大変なことで、協力してくれる人もつのる必要があったでしょうし、留学許可を取るのも普通では許されないことです。語学や仏教の勉学も必要になりますし、これらの準備に奔走され協力者を求め、支援を得るため七年の歳月を要したのでしょう。
 お大師が三十一歳になられたとき、いよいよ機が熟しました。延暦二十三年(八〇四)五月十二日、藤原葛野麿(ふじわらのくずまろ)を遣唐大使とする遣唐船に便乗し、留学生の身分として入唐することになったのです。 一行の中には天台宗の開祖、最澄さんもおられたのですが、この人は政府の還学生としての正式の身分であり、費用は全額政府の負担です。
弘法大師は単なる留学生ですから、政府の援助も大きく下回るものがありました。出発の時点では最澄さんが圧倒的に上回っていたのに、中国から帰国したら立場は全く逆になってしまいました。
大師の乗った船は第一船で大使の乗る船でしたが、嵐にあって南へ流されること一ケ月余りの後、今の台湾の対岸、福建省赤岸鎮に漂着してしまいました。当時の遣唐使船の難破率はなんと50パーセントにのぼり、2回に1回しか相手の国にたどり着けません。往復して、生きて帰ってこれる確率は4分の1という、本当に命がけの旅でした。平安時代のきゃしゃな構造の船で、朝鮮半島経由ではなく、あの広い東シナ海を越えるのですから、あまりに無謀です。昔は日本史の授業などでは、「当時は航海の知識が発達していなかったから、こんな無茶なことをしたのだ。」と教えられたものでしたが、実際には平安時代の人も、そんなことは百も承知でした。実際には、相手国との関係が非常に悪かったので、朝鮮半島を経由することができなかったのです。かつての日本は朝鮮半島南部に「任那(みまな)」という植民地を持っており、百済(くだら)という国とも友好関係にありました。当時の朝鮮半島は高句麗(こうくり)、新鑼(しらぎ)、百済の三国による抗争状態にあって争いが絶えず、日本の植民地の任那がまず滅亡し、ついで友好国だった百済が滅ぼされ、王族をはじめとした文化人はほとんど日本に亡命し、飛鳥、奈良時代の文化を実質的に作ったのは百済人ともいえる状況でした。当寺の近くにも「百済寺(ひゃくさいじ)」という、そのものずばりの名前の寺が残るなど、渡来人として百済人がたくさん住みつきました。百済の人が、祖国の風景に一番似ているからという理由で都に選んだのが飛鳥地方です。日本と百済はこのように、同盟国というよりは、ほとんど一体化していましたから、新鑼や高句麗は敵対国家そのもので、朝鮮半島を経由しての遣唐使船のルートは論外だったのです。
さて、南部に流れ着いた船はボロボロで、海賊船と怪しまれて一ヶ月近くも上陸を許可されませんでした。当時、和寇(わこう)という日本人の海賊が朝鮮半島や中国湾岸を荒らし回って悪百非道(あくぎゃくひどう)の限りをつくしていましたので、これに間違われたのです。時代はもっと下りますが、中国の明(みん)王朝は、度重なる和寇の襲来で国内がめちゃくちゃになり、王朝が滅亡してしまう原因の一つになってしまったくらいです。また、当時の制度として、遣唐使などの外国の使節団が中国の土を踏んだ瞬間から、交通費も宿泊費も、一行にかかる費用は全て唐の負担になるのです。さらに、日本の場合は国内で取れるものに大した値打ちのあるものがありません。硫黄(いおう)を献上品としてよく持っていっていますが、部屋いっぱいの硫黄で百円くらいの値打ちにしかなりません。この硫黄とか、昆布などを貢ぎ物として唐の皇帝に献上するのですが、天下の大帝国の皇帝がお返しにみすぼらしいものを返す訳にもいかず、翡翠(ひすい)やエメラルドなんかを代わりにもらえるわけです。日本側からしたら大儲けもいいところで、しょっちゅう「遣唐使船を送りたい」と中国に連絡するのですが、中国側からすると、日本に来てもらうと、とんでもない大赤字になってしまうので、受け入れを嫌がってなかなか許可を出しませんでした。これが朝鮮半島の国となると、高価な朝鮮ニンジンなどを持ってきてくれるので、交易として十分成り立ちます。そのため、中国側も歓迎して毎年のように使節団の往来がありました。遣唐使の派遣には文化を取り入れるという側面も確かにありますが、一番の目的は貿易、要するに莫大な利益が得られる一大ビジネスだったのです。
とはいえ、海上の船で一ヶ月も缶詰にされてはたまったものではありません。船の中では病気になって倒れる人も続出するようになりました。この大ピンチは、お大師様が歴史の舞台に躍り出るための格好の舞台なのでした。


第百五号  

弘法大師伝 その5

  先月号では、嵐にあって中国南部に漂着した遣唐使一行が、海賊に間違われて一ヶ月も上陸を許されなかったということまで書きました。これに困り果てた大使がは大師に代筆を頼んで、上陸嘆願書を書いてもらいました。届けられた書状を一読して、唐の役人は腰を抜かすほど驚きました。あまりの達筆と文章の素晴らしさにびっくり仰天し、こんなものすごいものが書ける人が海賊であるわけがないと、一発で上陸許可がおりたのです。それまでのお大師様は一介の私費留学生に過ぎませんでした。言葉は非常に悪いのですが、「どこの馬の骨」状態だったのです。ところがこの事件をきっかけにして、一躍ヒーローの座に躍り出ることになりました。出自もコネもなく、実力だけで第一線に躍り出られた瞬間でした。
 中国へついたお大師様は半年かかってやっと都の長安につき、それからさらに半年後に、密教の第一人者である恵果和尚(けいかわじょう)に面会することができました。
和尚はお大師様をひとめ見るなり、
「遅いぞ遅いぞ、やっと来たのか。わしはお前が来るのをずいぶん前から待っていた。さあさあ、早く支度(したく)をしろ。わしの密教の全てをお前に伝授する。」
と言い出し、すぐ密教の秘法を教えようとお大師様をひっぱり出しました。千人もいた中国人のお弟子たちはびっくり仰天しましたが、早速行った灌頂(かんじょう)という儀式でさらに腰を抜かしました。この儀式は今でも高野山で行われているもので、目隠しをされて曼陀羅(まんだら)の前に連れていかれ、手にした一枚の葉を落とすように指示されます。葉っぱの落ちた先の仏様が、儀式にのぞむ者が縁でつながった仏様なのですが、お大師様は、金剛界曼陀羅に落としても、胎蔵界曼陀羅に落としても、両方とも密教の最高仏である大日如来の上に落ちたのです。
これがいかに大変なことだったのかというと、金剛界曼陀羅には千四百六十一、胎蔵界曼陀羅には四百十四の仏様がおられるので、両方とも大日如来に葉っぱが落ちる確率は、六十万四千八百五十四分の一しかありません。ずいぶんあとになりますが、弘法大師に弟子入りして密教を学んだ伝教大師最澄さんもこの儀式をやり、ひそかに自分も大日如来の上に落ちるのではないかと期待されたそうですが、二回とも他の仏様の上に落ちてしまったので、ずいぶんがっかりされたと言われています。むしろ、これが普通であるとも言え、お大師様がいかに超越した存在だったのかということでしょう。お大師様を拝むときに「南無大師遍昭金剛(なむだいしへんじょいこんごう)」とお唱えしますが、「遍昭金剛」というのはお大師様にお師匠の恵果和尚がお授けになった名前で、「世界中をあまねく仏の慈悲の光で照らす」という意味があります。
恵果和尚はお大師様にわずか三ヶ月で密教の秘宝の全てを伝え、その後わずか半年後に亡くなってしまいました。葬儀の際の追悼文を代表して書かれたのはお大師様です。異国からいきなりやって来た僧侶が、古くからの弟子千人をさしおいて後継者に決まったのも異例中の異例ですが、他の弟子たちがねたんだとか、邪魔をしたとかいう話は全く伝わっていません。これは大変なことです。ちょうどお大師様の頃の人で、霊仙三蔵(りょうぜんさんぞう)という人がいます。この人は滋賀県米原の出身で、同様に中国に留学し、学問の才能が抜群だったので、日本人でたった一人「三蔵法師(さんぞうほうし)」の称号を贈られた人です。経や律(りつ)といった仏教の主要三分野に抜群の才能を発揮して、この人物は万能だというお墨付きをもらった人だけが三蔵法師の称号を得ることができます。西遊記で有名な玄奘三蔵もその一人なのですが、日本人でこの三蔵法師の称号を得ることができたのはこの人一人きりです。この霊仙三蔵が帰国していたら、たぶん滋賀県には比叡山と霊仙山の二つの大本山ができ、仏教興隆の中心地になっていただろうと思われます。ところが、霊仙三蔵はその才能を他の僧侶にねたまれてしまい、さらに霊仙三蔵が身につけた密教の秘法に「大元帥明王法(だいげんすいみょうおうほう)」というものがあるのですが、これは国家鎮護の秘宝であり、中国から日本に持ち出すのはけしからんというわけで、なんと霊仙三蔵は中国人の僧に毒殺されてしまい、日本へ帰ることができませんでした。
となると、お大師様の場合、霊仙三蔵の大元帥明王法どころか、中国で完成した密教そのものをそっくり日本に持ち帰ってしまわれていて、その後中国の密教は急速に力を失い、滅びてしまっているくらいの影響を与えています。こんなことをやってよく無事で帰ってこれたものだと思いますが、お大師様の場合、能力が抜群すぎてまわりが認めざるを得なかったことと、霊仙三蔵が一般仏教なのに対して、お大師様は密教なので霊能力がストレートに示せ、それを見ると他の者も文句が言えなくなってしまったのではないかと思います。とはいえ、中国にずっといるといつなんどき霊仙三蔵のような目にあわないとも限りません。二十年の予定で留学したはずのお大師が、たった二年で日本に帰ってしまわれた理由は明らかになっていませんが、もう学べるものがなくなったという理由も考えられますし、あまりにもものすごい秘法を一身に伝授されてしまったため、中国には長くいない方がよいという判断をされたのかもしれません。


第百六号  

弘法大師伝 その6

 密教の全てを持ち帰り、弘法大師は帰国の途につかれました。「空しく行き、満ち足りて帰る」とご自身で書いておられる通り、知識も技術もその身に満載しての帰国でした。
とはいえ、二十年の予定の留学を勝手に十分の一にして帰ってきたのですから、当然処罰の対象となり、たいていは島流しになってしまいます。映画「空海」でも、帰国の船の上で、お大師様と一緒に旅をしてきた役人が、
「やっぱり我ら、島流しになるんじゃろうのう。遣唐使の決まりを破ったからなあ。」
と言って、情けない顔をしておろおろしてしました。それに対してお大師様は余裕しゃくしゃくで、帰りに海が荒れて難破しそうになったら、不動明王に祈って、祈りで出現したお不動様が手にした剣で荒れ狂う波をなぎ払うと、とたんに嵐が静まる始末。この時出現されたお不動様は「波切不動明王(なみきりふどうみょうおう)」として、全国で厚く信仰を集めています。
さて、日本に帰国したお大師様は、当然のように九州に留め置かれて処罰が下るのを待つ身になりました。ところが、お大師様が提出した持ち帰った書物のリストを見た朝廷はびっくり仰天、何しろ密教の最高秘伝書がごっそりと、全部入っているのです。これが朝廷は欲しくてたまりません。なぜ当時こんなに密教に需要があったのかというと、高野山の私の師匠がこの分野の研究の専門なのですが、本当のことをいうと、当時は帝位につくのに際して、どの帝も人を殺しまくっているわけです。みんな自分が殺しちゃった連中の祟りが怖くて仕方ない。密教の呪術力がすごいのは奈良時代の古密教で証明されていて、その完全究極版を空海が持って帰ってきたぞ、しかも中国のコピーじゃなくて、本家本元の全てを根こそぎ手に入れてきたということがわかり、処罰で島流しどころか、どうぞじゃんじゃん布教しちゃってくださいと、あっという間に認可がおりてしまったのです。
現金と言えばこんな現金な話はないのですが、今も昔も密教に求められているのはひたすら霊能力なのは事実であるので、これは仕方ない展開でしょう。気の毒なのはお大師様より遅れて帰国した伝教大師最澄さんです。日本を出発する前は国に正式に認められた僧侶でしたし、留学の目的も法華経を極めるためでした。ところが日本に帰ってみると、朝廷は空海上人の密教が大ブームになっていて、見向きもされなくなっています。最澄さんも密教は学んではきましたが、日本に帰る前に五台山(ごだいさん)というところで、ほんの数ヶ月かじっただけです。これはまずいと思った最澄さんは、自分の方が年上であり、日本を出発する前ははるかに地位が上だったのにもかかわらず、お大師様に弟子入りして密教を学ばれています。この謙虚な姿勢は大いに学ぶべきもので、さすがと言えましょう。ところが、最初は両者の関係はとても良かったものの、次第に密教に対しての姿勢の違いが明らかになってきました。最澄さんは一般仏教と密教を完全に並列で考えていましたが、お大師様は密教が全てです。また、最澄さんはあくまで文書の研究で密教をものにしようとされたのに対し、お大師様は虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)から入っておられますから、神秘体験なしで密教を極めようというのは無理としか返事ができません。最澄さんが理趣経を借りて文献研究だけでものにしようとしたとき、お大師様がかなり強い調子で拒絶した一件があり、両者の間にすきま風が吹き始めました。焦った最澄さんは、密教を極めて空海上人のようになれるのは、あとどのくらい修行すればいいのかと質問したところ、「二十年」という返事で、これには相当ショックを受けられたと言われています。「あなたは中国でたった三ヶ月でマスターしたではないか。」と最澄さんは言って、そんなに時間がかかっては自分の寿命がつきてしまう、これは無理だと言われたとき、お大師様は、
「なんともったいないことを。最澄さんだから二十年で到達できるのだ、他の者ならとても二十年でものにはならない、ああ、本当に残念なことだ。」
と言われて、大変残念がられたと言われています。最澄さんも普通の人からしたら、とんでもない秀才だったのですが、比べる対象がお大師様だったのが間違いのもとというか、超天才と同じ時代に生まれてしまった者の悲劇とでもいうべきものだったと思います。単純に比較することはできないですが、密教の奥義に到達された期間がお大師様は三か月でしたから、一年の四分の一でなしとげておられます。それに対して最澄さんは、二十年かかると言われているので、つまり両者の能力差は、計算して約八十倍あるということになります。これが最澄さんのような優秀な人だから八十人集まったらお大師様と同等になれるわけで、我々凡人なら一万人集まっても怪しいのではないかと思われます。日本にも様々な宗派がありますが、宗祖が尊敬を通り越して神仏と全く同じレベルで信仰の対象になっているのはお大師様ただ一人です。


第百七号  

弘法大師伝 その7

平安時代を代表する宗教家としては、最澄さんと空海さんのお二人が代表的です。ただ、お二人の性格はかなり異なっていました。最澄さんの書かれた書が残っていますが、すごく几帳面な書体で、大変誠実な人柄がにじみ出ているのですが、全般的に少し線が細いという特徴があります。いかにも誠実で真面目で若干神経が細い、いかにも日本人気質そのままという書体なのですが、お大師様の方は、普通日本人ならこんな文字は書かないだろうという書きぶりを示しています。具体的には、筆圧がとんでもなく強いことで、普通の日本人はこんな強烈な圧力で書を書いたりしません。中国大陸の書家にはこういう字を書く人が時々いますが、要するに日本人離れした、とんでもなくエネルギッシュな人で、清濁合わせ飲む国際感覚とバランス感覚が優れた人柄であることが読み取れます。
このお二人の気質の違いは、日本に先がけて勢力を持っていた、奈良仏教との関係にも現れました。奈良仏教のお坊さんたちは、人間にはだいたい三種類くらいのランクがあって、すぐ悟りを開ける人、努力しないとできない人、悟りには縁遠い人があるとしていました。これに対して最澄さんは、それはおかしい、法華経には全ての人が等しく救われ、悟りを開くことができると書かれていると言われて真っ向から対立することになってしまいました。皆さんは、どちらの意見に賛成されるでしょうか。私はずるいようですが、両方とも一理あって、場合によるのではないかと思います。全ての人に仏様の種子が宿っていることは疑いようもありません。しかし、その一方で、心がけのよい人は本当にすぐ成仏されるし、生前の行いが感心できない人は、成仏するのは相当大変であることもまた疑いようのない事実ですから、奈良のお坊さんたちの言うことももっともに思います。
同様のことは受験にも同じことが言えます。例えば東大に合格する生徒が、全てお金持ちの家庭の出身で、有名な中高一貫校の出身かというと、意外にそうでもなく、ごく平凡な家庭の生まれで、地方の名もない公立高校の出身者が結構います。先ほどの論争で言えば最澄さんの主張に近く、「誰でも努力すれば東大に入ることが出来る。」ということができます。一方で東大合格者全般がどの高校出身かということを調べると、もうこれは開星や灘、ラサールといった有名高校が圧倒的なのも事実であり、先ほどの論争で言えば奈良のお坊さんたちの主張に近くなります。要はどこに焦点を当てて論じるかという話なのではないかと思うのです。最澄さんはかなり理想主義な傾向が強く、奈良仏教と激しく対立したため、奈良側の嫌がらせで比叡山にはなかなか戒壇院(かいだんいん)の建立許可がおりませんでした、戒壇院というのは、僧侶になるにあたっての戒律を授けるための施設で、これが設置できないと自分のところで僧侶が養成できなくなるので、宗教団体としてはなくてはならない、一番肝心な施設です。比叡山にやっと戒壇院建立の認可がおりたのは、最澄さんが亡くなってからのことでした。
最澄さんと対立した奈良のお坊さんたちが接近したのが、実はお大師様なのです。空海と最澄は最近喧嘩別れをしたそうだから、空海のほうを帝に紹介するようにして、最澄の活動を妨害してやろうと考えたのです。全くもって政治の派閥争いそのまんまの展開で、敵の敵は味方という論理なのでした。お大師様と奈良のお坊さんたちが論争をしなかったかというと、しないもなにも、お大師様に至っては、
「全ての人はこの身このままで、仏様になることができます。」
などと言うものだから、奈良の坊さんたちはあぜん、最澄が全員平等に成仏できると主張しただけで大論争になったのに、この身このままですぐ仏になれるなど笑止千万、出来るものならやってみろと奈良のお坊さんたちが言ったら、お大師様は、
「そうですか。ではやってみます。」
とこともなげになくおっしゃって、印を結び、真言をお唱えになりました。すると体が金色に光り輝き、王冠をかぶった大日如来のお姿になったので、奈良のお坊さんたちは腰を抜かしてしまい、涙を流して合掌し、伏し拝んだと伝えられています。史上最強クラスの強烈な先制パンチを浴びて、奈良のお坊さんたちはすっかりおとなしくなり、お大師様には何も言えなくなってしまいました。
大変な霊能力を持っている人の場合、その人のイメージしたことが他人にもはっきりと見えることがあります。時代があとになりますが、新義真言宗の祖になった覚鑁上人(かくばんしょうにん)にもこの手の伝説が伝わっており、上人が水をイメージすると、まわりにいる者にも水が見え、火をイメージすると燃えさかる炎が見えたと言います。ですから、このお大師様の伝説はちょっと聞いたところでは「そんなバカな」と思ってしまいそうになりますが、実際に起きたことなのは間違いないと思われます。さすがお大師様といえるでしょう。


第百八号  

弘法大師伝 その8

 抜群の器量のお大師様は平城、嵯峨の両天皇に大変気に入られ、特に嵯峨天皇は書道の名人として名高く、書の趣味でも意気投合して大変親しく交流されました。「三蹟(さんせき)」という言葉があります。天下に名高い書の達人三人を指す言葉ですが、その三人とは、嵯峨天皇、弘法大師、橘逸勢(たちばなのはやなり)です。天下に名高い名人同士の交流ですから豪華この上ないのですが、こういうことがありました。
ある日、嵯峨天皇が急にお大師様を呼び出されました。一体何だろうと思ってお大師様が宮中に参上しますと、嵯峨天皇は大変ご機嫌でにこにこしています。
「実はこのたび、天下一かと思うくらいの書の名品を手に入れたのだ。この世にこんな書き手がいたのかと思うほどの素晴らしい筆使いだ。私にはとてもこんなものは書けない。というか、上人も顔負けなくらいだ、上人には悪いが、この書の書き手の方が腕は上ではないかと思うほどだぞ。」
大変なほめちぎりようです。ところが、
「恐れながら陛下、それは唐におりました頃、私が書いたものです。」
「えっ!そんなバカな。この書は上人の書体とはまるっきり違うではないか。」
「ですから、唐におります頃、いろいろな書体を試して書いたのですが、どうも出来ばえに満足できず、手放したものです。」
「はてさて、わからんことを言うやつだ。そんなことを言うなら、証拠を出してみなさい。」
自慢の書にけちをつけられたと思ったのか、嵯峨天皇はカチンときています。
「恐れながら、書の軸のところが、一部外れるようになっておりまして、その中に私の署名が入れてあります。」
「いやはや、そんなバカな…って、ええーっ!」
言われた通りに軸の一部が外れ、弘法大師の署名が出てきたので嵯峨天皇はびっくり仰天、
「ということは、私がこのところ、自分には到底及ばぬ書の名品だと思って眺めていたのは、上人の書き損じだったのか。」
あまりの力量差に嵯峨天皇はぼうぜんとしてしまいました。こういうエピソードがあるものですから、「弘法筆を選ばず(弘法大師ほどの名人になったら、どのような筆でも苦にせず名品を書くことができる)」ということわざができたのでしょう。もっとも、書道に関してはお大師様ご自身が「よい字を書こうとしたら、筆と墨は必ずよい物を使わないといけない。」と書いておられるので、実はことわざは全くのウソということになります。さらに、「この間頼まれて書を書いたのだが、筆が安物でうまく書けなかった。」とまで書いておられます。もっとも、お大師様の言われる「うまく書けなかった」は常人が想像もつかないハイレベルの話なのは間違いないでしょう。嵯峨天皇もお大師様によると「書き損じ」のレベルの書を、毎日眺めては感嘆していたくらいです。私が書を習ったときのことですが、書の練習には「臨書(りんしょ)」という方法が一番有効だとされています。要するに昔の優れた書を丸写ししてそっくりに書くことで、真似て書くことで様々な技巧が身につけられるのですが、師匠から「何を臨書に選ぶのか。」と聞かれて、「実家が真言宗の寺院だから、『風信帖(ふうしんちょう)』はどうでしょう。」と答えたら、「えっ、よりによって風信帖か。そりゃ大変だ。たぶん一生かかるよ。」と言われてしまいました。風信帖というのはお大師様の書簡、手紙集みたいなもので、くだけた感じで自由にさらさらと書いておられ、その気楽さもあってお大師様の書の魅力が存分にあふれている名品として書の世界では有名なものなのですが、お大師様が気楽にさらさら書かれた書を、私が臨書しようとすると一生かかるのです。もうほとんど人間やめているレベルです。実際に神様仏様と同じレベルで信仰の対象になっている、日本の宗祖ではたった一人の例です。
 このように時の帝と大変密な関係を築かれ、お大師様の地位は揺るぎないものになりました。ですがお大師様は政治の世界には興味がありません。金星が口の中に飛び込むという経験までされておられるので、政治の世界のドロドロした抗争など、「カタツムリの角(つの)」の上で争っているようなつまらぬ戦いであったのは間違いないと思います。帝から絶大な信頼を寄せられ、地位が揺るぎないものになっても、お大師様が政治の世界に興味を示されることはありませんでした。むしろ、その後は全国を行脚(あんぎゃ)されて民衆の苦しみを救うことに尽力されます。各地に残る弘法大師伝説は、この頃の活動が語り継がれたものです。四十二歳の時には四国を巡られていますが、その遺跡が今日、四国八十八ケ所霊場となっています。続いて弘仁七年、四十三歳の時に高野山を開かれ、真言密教護法の道場とされましたが、お大師様はひそかに高野山をご自分の入定の地と定められていました。都の喧騒を離れて高野山に静かに暮らしたいという内容のことも書かれています。  


第百九号  

弘法大師伝 その9

 時の帝と大変密な関係を築かれ、お大師様の地位は揺るぎないものになりました。宮中に帝ご自身の祈祷を行う建物まで建ったのです。これには奈良のお坊さんたちが色めきたちました。
「帝ご自身のお体に対して祈祷をするとは、これはまたとんでもない名誉だ。」
「我ら奈良仏教の威厳もここに際まれりということになる。空海どの、当然我々もその祈祷を担当させてもらえるのだろうな。」
「残念ですが、密教の秘法を行いますので、この場所に立ち入ることができるのは真言宗の僧侶のみとなります。」
「ちょっと待て、最澄に代わって帝に推挙してやったのは誰だと思っているのだ。」
「帝がお決めになられたことですが、まさか皆さん、帝のご決定に何かご不満でもおありなのでしょうか?」
「いえいえ、滅相もない、大変結構でございます!」
最澄の力をそぐためにお大師様を利用するつもりだったのに、実は利用されていたのは奈良のお坊さんたちの方なのでした。お大師様に限らず、各方面に特異な才能を示すマルチタイプの天才は、時の権力者とも衝突しません。万事器用で何でもできてしまうため、政治の世界を泳ぎきることも難なくできてしまうのです。ただその一方で、こういうタイプの人は意外に出世には興味がありません。江戸時代の本阿弥光悦(ほんなみこうえつ)という人も何でもできた人で、本職は刀の研ぎ師で名人の誉れが高かったのです。素人の遊びで抹茶碗を作ったらそれが国宝になってしまっているレベルの人なのですが、同様に出世にはとんと興味がなく、京都の北部に芸術家たちを集めて悠々自適の趣味三昧の人生を送りました。
お大師様についても同様のことが言えます。宗教家として頂点を極めても、その後はひたすら民衆の救済に力を注いでおられます。弘仁十二年、大師四十八歳の時には故郷の人びとの要請と天皇の命により、讃岐満濃池の構築をわずか四十五日間で完成しています。現在の工法で作っても全く同じ構造になるくらいの大変すぐれた設計で、工学などの理系分野にも抜群の才能をお持ちだったことがうかがえます。慢性的な水不足に悩む四国の人にとって、この貯水地は神の恵みといってよく、映画「空海」では、この満濃池の完成が怪獣映画並みのスペクタクルで描かれ、クライマックスになっていました。完成した池に向かって涙を流しながら人々が合掌し、光明真言を唱える様子が描かれていましたが、この池はいまだに当時の改築そのままで使われております。
また、弘仁十四年には京都東寺を帝からいただかれ、五十五歳の時にはここに綜芸種智院を開かれています。これは我が国最初の民衆学校であり、世界でも最も古い民間学校となっています。当時の学校は有力貴族が、自分達の一族の者に教育を施して官僚を作るためのもので、出自を全く問わないで学びたいという意欲があれば、誰でも勉強ができる学校というのはここだけでした。
お大師様のご生涯をみますと、抜群の才覚で文字通り裸一貫から最高の位までまたたくまにのぼりつめられましたが、目的を達成したあとは、前述したようにひたすら一般民衆の救済にはげんでおられます。承和二年二月二十一日「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば我が願も尽きなん(世の中が平和になり、民衆の苦しみがなくなり、人々の心から煩悩がなくなれば、人々を救いたいという私の誓いも成就し、そこで終わりになるだろう)」とのお言葉を残して、高野山に御入定されたのです。弘法大師六十二歳の時でありました。
「御入定」という言葉を使うのは、単なる人間の死ではなくて、大師は死を超えられて不死の境地につかれたという信仰によります。現在でも三月二十一日には天皇陛下より賜った衣を高野山奥の院に運び、お大師様にお着せする「お衣替(おころもがえ)」の儀式が行われています。お大事に食事をお届けすることもずっと行われております。これらの仕事を任された僧侶が、奥の院の中で見聞きしたことを語るのは古来から厳禁となっておりますが、みな、感激で涙をこぼしながら館から出てきます。
この御入定大師への信仰、いわゆる「大師信仰」は平安時代の中期より民衆の間から起こりましたが、現在でも実際にお大師様に出会って「のし袋」をもらったという檀家の方が実際にいます。その袋には「弘法大師」と墨で描いてあるのですが、どこからどう見てもお大師様の字です。誰かが真似して書いたのではないかと考える方がおられたら、お大師様の書のレベルをお考えになったらよろしい。書をたしなむ私でも一生かかって到達できないのがお大師様の書なので、あの字を真似て書くことは不可能といってよいのです。御入定後、八十六年経ました延喜二十一年、時の醍醐天皇はとくに大師の徳を讃えられて、「弘法大師」の名前をお贈りになりました。そのご威光は今後も永遠に続いていくことでしょう。「弥勒菩薩が全ての人を救ってくださるまでは、自分が人々を救い、弥勒菩薩までのつなぎ役に徹する」というお誓いをされておられますが、弥勒菩薩出現は五十六億七千万年先のことです。


第百十号  

弘法大師伝 その10

 お大師様がご誕生から奥の院にご入定されるまでを書いてきましたが、一番大切なのは、お大師様がご入定されてからのことです。普通の偉人はその徳をたたえ、少しでもその業績を見習おうというお手本としての存在にとどまりますが、お大師様の場合、ご入定されたあとも、お大師様に出会ったという人が現在にいたるまでおり、私も「お大師様に出会って、『のし袋』をもらった」という人を知っています。千二百年の時を越えて、ご本人その人に出会うことができるというのは、お大師様をおいて他にはいません。なぜお大師様だけがこのような存在になられたのかというと、一つには奈良仏教のお坊さんたちとの論争の際にご自分でやってみせたように、実際に大日如来の姿になられて、完全に悟りを開いて仏様になってしまわれたことがあげられると思います。仏様は時間と空間を超越した永遠の存在ですから、信仰ある者にいつでも寄り添っていただけるというわけです。二つめには、お大師様ご自身が弥勒菩薩を深く信仰しておられ、弥勒菩薩がこの世に出現してすべての人を救ってくださるまでは、自分が代わりとなって人々を救おうという誓いをお立てになったからでしょう。本当に有言実行をされているというわけです。
そもそも「弘法大師」というお名前を帝からいただかれたのも、ご入定から八十六年もたってからです。当時の帝は醍醐(だいご)天皇でした、その醍醐天皇の夢枕にお大師様が現れ、
 「高野山結ぶ庵に袖朽ちて こけの下にぞ 有明の月」と歌を詠まれたのです。その意味は、
「私の衣は朽ち果てているが、有明の月の如く世を照らし続けている。」
というものです。
 醍醐天皇は日頃からお大師様を厚く尊敬しておられました。夢枕に立たれたお大師様が破れ衣を召しておられたのは、今なお全国を歩き、人々を救っておられるためだと気がついて大感激され、そのお大師さまのお姿が忘れられず、自らお大師様に衣を贈られることになりました。そして十一月二十七日「弘法大師」というおくり名とともに、勅使(ちょくし)として少納言(しょうなごん)平惟助(たいらのただすけ)卿(きょう)、御衣を送る勅使として大納言も随行(ずいこう)し、奥の院の御廟(ごびょう)を開ける係として観賢(かんけん)僧正(そうじょう)を高野山に派遣されました。
 御廟(ごびょう)の前で平惟助卿(たいらのただすけきょう)が帝からの勅文(ちょくぶん)を奉読(ほうどく)していると、御廟(ごびょう)の中から、
「われ昔 薩?(さった)にあい まのあたり悉(ことごと)く 印明(いんみょう)を伝(つた)う 肉身(にくしん) 三昧(さんまい)を証(しょう)し慈氏(じし)の下生(けしょう)を待つ」
とのお声がしたといわれています。その意味は、
「私は昔、金剛薩?(こんごうさった)に出会い 目の前で全ての印と真言を伝えられた。肉体はそのままで仏となり、弥勒菩薩が出現されるのを待っている。」
という意味です。金剛薩?(こんごうさった)は大日如来の次に位置される仏様で、密教の二番目の伝承者とされています。第一は大日如来で、第七番目がお大師様のお師匠様である恵果和尚(けいかわじょう)、第八番目の伝承者がお大師様です。真言密教と一般仏教の違いは、一般仏教は悟りを開いた人が説いた教えであるのに対し、真言密教は大日如来ご自身が説かれた教えをそのまま伝えているのだということが、高野山で僧侶の勉強をしますとよく強調されるのですが、これは本当のことなのだというのとがお大師様のお言葉からわかります。また、お大師様は五十六億七千万年後に出現して全ての人を救ってくださる弥勒菩薩の代わりをつとめておられるのだということがよく言われていますが、お大師様ご自身が同じことをはっきりおっしゃっています。
 先ほど大日如来の教えがそのまま伝えられて真言宗の教えとなったということを書きましたが、真言宗ではこの八人の方を、付法(ふほう)の八祖(はっそ)と呼びます。真言宗の法流の正当な系列を示しているものです。大日如来の説法を金剛薩?が聞いかれて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜であると言われています。その流れは、
第一祖・大日如来(だいにちにょらい)、第二祖・金剛薩?(こんごうさった)、第三祖・龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)、第四祖・龍智菩薩(りゅうちぼさつ)、第五祖・金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)、第六祖・不空三蔵(ふくうさんぞう)、第七祖・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)、第八祖・弘法大師です。これらの方の詳しい説明は次の号にてお話しすることにします。

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