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第百三十一号 

招き猫の話3

 招き猫をはじめ、面白いエピソードばかりなので今月も続いてしまいます。高級ペットだったということもあって、古来から猫好きの著名人がたくさんいます。 アメリカのリンカーン大統領も大の猫好きで知られており、常々、
「猫を大事にしないやつは信用できない。」
と言っていたそうです。ホワイトハウスに最初にペットを持ち込んだのもリンカーン大統領で、これ以降ホワイトハウスでペットを飼うのは普通のことになりました。イギリスのウインストーン・チャーチルは88歳の誕生日に茶トラのジョックという猫を贈られたのですが、この猫を溺愛するあまり、自分が死んだら自宅はイギリス政府に寄付するが、愛猫ジョックを永久に住まわせることという条件をつけました。同じくイギリスの政治家マーガレット。・サッチャーも大の猫キチで、ある日官邸の役人の一人が野良猫を拾い、ハンフリーと名づけて飼ったのですが、このハンフリーはネズミ捕りがとても上手で、官邸内のネズミを次々に捕ってきたため、サッチャーは大喜び。その功績をたたえて年間100ポンドの政府給付金をハンフリーに支給しました。
 鹿児島の戦国武将、島津義弘(しまづよしひろ)も大の猫好きで、朝鮮出兵に7匹の猫を連れて行ったことで有名です。これは猫の瞳の大きさを見て時間を知るためだったといわれており、島津家の別邸「仙巌園(せんがんえん)」には、朝鮮出兵から生還した2匹の猫・ミケとヤスの霊を祀った猫神神社が建てられていて、「健康でありますように」「長生きしますように」など、愛するニャンコの健康長寿を祈る絵馬が数多く見られます。義弘の次男・久保(ひさやす)は朝鮮から生還したこの2匹を非常に可愛がっていたようです。
 また、池波正太郎(いけなみしょうたろう)や大佛次郎(おさらぎじろう)など、作家の大多数は猫キチとして知られています。芸術家はほぼ猫派だと考えてもよいくらいで、幕末の浮世絵師、歌川国芳(うたがわくによし.)は無類の猫好きとしても知られ、常に数匹、時に十数匹の猫を飼い、右のたもとに一匹、左のたもとに一匹、そして懐に一匹の猫を抱いて絵を描いていたと伝えられています。亡くなった猫はすぐにお寺に葬られ、家には猫の仏壇があり、死んだ猫の戒名が書いた位牌が飾られ、猫の過去帳まであったといいますからとんでもないレベルです。こんな調子ですから猫の絵の上手さは極限までいっており、かつて歌川国芳展が開催されたときには早速見に行きましたが、大変な盛況で、特に猫の絵のコーナーは黒山の人だかりでした。世の中にはこんなに猫好きが多いのかと実感した次第、もっとも、そのうちの一人は私なのですが。
 イスラム教の開祖マホメットも大の猫キチで知られていて、キジ猫をとてもかわいがっており、ある日愛猫の額に自らの指でマホメットの「M」の字を書くと、それがそのまま猫の模様になったという伝説があります。実際にはキジ猫の額には必ず「M」字形の模様ができるのですが、イスラム圏では猫は開祖マホメット様ゆかりの動物としてとても大切にされており、特にキジ猫は「マホメットの猫」と呼ばれて珍重されています。中世ヨーロッパでは猫が魔女の使いとして大量に殺されたのでネズミが増え、ペストが大流行してたくさんの人間が死にましたが、イスラム圏は猫を大切にしていたのでペストの被害はほぼなく、「経済的にも文化的にも世界の中心はイスラム圏のほうである」といった状況が続きました。ヨーロッパが主導権を握るのはルネサンスまで待たねばなりません。イスラム圏では化学がとても発達したので、「アルコール」などの化学用語はイスラム語が語源になっているという例が多数あります。たかがペットというなかれ、猫の扱い一つの違いだけで、国の浮沈にかかわる事態にまで至ったことがあるわけです。
 海外ではペットとしての人気はかなり猫が占めており、それに対して日本では圧倒的に犬が主流という時代が長く続いてきました。ところが、近年では犬の飼育が減り、猫の飼育が伸びていてその差がかなり縮まっています。犬は散歩が必須で、ワンちゃんを散歩させてあげないと心臓のまわりに余計な肉がついて寿命が短くなってしまうためなのですが、猫はその気になれば四畳半の一部屋でもあれば十分で散歩が全く不要なのと、鳴き声が犬に比べると小さいので近所の迷惑を心配しないでいいというのが、その理由と言われています。私はそのほかに、日本の社会の変化が影響しているのではないかと思います。かつての日本は、戦前はお国のために滅私奉公するのが当たり前、戦後の経済成長の頃は、会社に人生を捧げて働きまくるのが美徳とされていました。命令に従順で一生懸命働くのが称賛された時代なので、その頃の代表的なペットが犬だということになりました。忠犬ハチ公は職場で倒れて死んでしまったご主人の帰りを10年間も待ち続け、人々の涙を誘ったので銅像にまでなりましたが、そのような忠実さが美徳とされた時代が長かったのです。ところが現代では、会社にすべてを捧げて働くだけで、家庭をかえりみなかったら間違いなく離婚されてしまいます。また、
「家族なんだから〇〇するのが当たり前」
「夫は〇〇すべきだ、妻は〇〇であるべきだ」
と考える人がいる場合、たいがい家庭内でトラブルが発生しています。熟年離婚に陥るのもだいたいこのタイプの人です。私自身はペットとしては犬も猫も大好きなのですが、人間の生き方としては、「忠実な犬タイプ」よりは、「自分で考えて行動し、自分がやったことは責任を取る猫タイプ」でないと、これからの世の中は乗り切れないと思うのです。次号でもう少し詳しく説明します。


第百三十二号

招き猫の話4

 代表的なペットは犬と猫であると言うことができますが、その性質は非常に違います。簡単に言うと、
「犬は群れを作り、猫は単独で行動する」
ということにいきつきます。犬はオオカミの時代から群れを作って狩りをしてきたので、群れのリーダーの命令を忠実に守ります。そのため、人間に飼われた犬は真っ先に、
「ここの家のリーダーは誰だワン?」
と考えます。だいたいの場合は「お父さん」がリーダーにあたるので、犬はお父さんの命令には基本的に服従しますが、お母さんや子供になると、群れの序列としては下にあたるため、
「このレベルのやつだったら反抗してもいいかもしれないワン」
と考え、機嫌が悪いとかみついたりします。そういう時にお父さんが怒ると、犬としてはとてもビビッて反省します。また、いつも犬は「飼ってもらってありがたいワン」と感謝しており、そのあたりのけなげさが犬としての魅力で、愛犬を大事にする人の気持ちはとてもよく分かります。
ところが猫は単独行動が基本なので、群れとか序列とかいう発想が全くありません。猫の場合、「自分に何をしてくれるか」がすべてなので、例えば、
「お母さんはご飯をくれる。いい人ニャ」
「お兄ちゃんは遊んでくれる。いい人ニャ」
「お姉ちゃんは一緒に寝てくれる。いい人ニャ」
となるのですが、お父さんなどは家庭内で何もしていないことが多く、
「このクソ親父は何もしてくれない上にタバコ臭いニャ。悪いやつニャ」
となって、お父さんの評価が犬と猫で全く違うということがよく起きます。
また、猫は警戒心が強く、テリトリーを守ります。 よく猫が窓から外を見ていますが、人間は、
「かわいそうに、外に出て遊びたいんだね」
と考えますが、狩りが好きなオス猫の場合など、本当に外に出たくてたまらない子もいるものの、たいがいの場合は自分のテリトリー内に他の猫が入ってこないかを見張っているだけというのがほとんどです。
また猫は独立心が強く、単独で行動するハンターです。 独りで過ごすことを好み、食事やトイレの掃除以外は、ほとんど人間に頼りません。 猫は高いところに登ったりできるため、危険から身を守ることができます。要するに人に頼っていないので、実は飼い主を飼い主とも思っていません。猫からすると、飼っている我々は
「やたら大きな変な猫」
なのです。「自分も猫ならお前(←ここ重要。猫からすると我々は「お前扱い」です)も猫ニャ」、となって、全く対等の関係です。しかし、人間はご飯をくれて世話をしてくれますから、猫からすると我々は、「母猫」にあたります。すると、猫の理屈からすると
「母親が子供の面倒を見るのは当たり前ニャ」
となるので、猫はひたすらわがままを言うだけ、飼ってもらっての感謝などこれっぽっちも考えない、ということになります。ただ、時々
「そうはいっても、育ててもらって感謝しなきゃならないという気にもなるニャ」
と、柄にもなく親孝行の気持ちが生じる時があります。そうすると猫は、
「うちのかーちゃんは、ネズミの捕り方を知らないニャ。かわいそうだからネズミ捕ってあげよう」
と考えてネズミを捕ってきてくれます。
「猫はネズミを捕ったらなぜ見せに来るんだろう」
と疑問に思っている人が結構いますが、猫の気持ちがわかっているとはいいがたく、ましてや「ギャー」と悲鳴をあげたり、ネズミを捨てたりしたら猫は激怒、
「せっかくの好意を無にするとはなんてやつニャ!」
となってしまいます。コミュニケーション不足ですね。一番いいのは
「親孝行ありがとうね」
と言ってネズミを食べてあげることなのでしょうが、実際にやるととってもヤバいので食べたふりをしてお礼を言うと、猫はとても納得して喜んでくれます。
要するに、猫と人間とは生き方も考え方も全然違うので、相手の考えていることをきちんと理解してやらないといけません。私は常々思うのですが、対人関係のコミュニケーションは、明らかに「猫型」が望まれる社会になってきています。
「社員だから会社のために働くのが当たり前」ではありません。
「夫だから、妻だから〇〇するのが当たり前」でもありません。
「親に向かってなんてことを言うんだ」はもはや死語です。親だから偉い、子供は親の言うことを聞くべきだ、という「犬型社会」はとっくに崩壊しています。お互いの事情や考え方をきちんと知り、その上で一対一のコミュニケーションをとって生活していく「猫型社会」なのです。自我意識が強い欧米で猫派が多いのも、おそらくこの理由によります。たかがペットの話題ですが、結局は我々の社会のコミュニケーションのありようの変化が投影されているといえましょう。

第百三十三号

招き猫の話5

 猫の話がずいぶん続いていますが猫と人間の違いをもとに、コミュニケーションの重要性についての話であり、人間関係のトラブル解消に非常に重要な話なので、今月号も続けます。
 猫好きの人の「あるある」で、
「まあ、かわいい猫ちゃん」
と言って近づくと、猫が脱兎(だっと)のごとく逃げ、
「もう、なぜ逃げるのよ」
なんて言っていたりしますが、逃げるのが当然なのです。というのも、野生動物の世界では、
「じっと見つめる=攻撃する、そして捕食する。要するに『食べる』」
ということなので、猫好きの人がじっと見つめて近づくと、猫としては、
「ヤバい、あいつ、僕を食べる気ニャ!」
とビビりまくるわけです。同様に猫を叱った場合、猫が目を合わせずにあらぬ方を向いていることがよくあります。こういう場合、
「ちゃんとこっちを見なさい!」
と言って飼い主が怒ったりしますが、これも同様の理由でお門違いの対応でして、野生動物の世界で
「じっと見る=宣戦布告」
なので、??られて猫があらぬ方を向いていたら、
「アンタに逆らう気持ちはありません。参りました.」
という意思表示なのです。逆に叱ったときに猫がこっちを向いていたら、
「なんだと、やるのかテメエ」
と反逆心丸出しなので、非常にやっかいなことになります。
 こんな調子なので、猫を飼ってみると実に連中はわがままで自分勝手で、気分屋でこっちの事情を押し付けるのはほぼ無理だということがわかるのですが、私は常々、これが人間関係構築の基本なのではないかと思うのです。当院にはたくさんの相談事が寄せられますが、
「どうしてうちの主人は、私の気に入らないことばかりするんでしょう。」
なんて相談が寄せられたりします。しかしこれも同様にコミュニケーションが最初からずれている話でありまして、別にご主人が、奥さんの気に入った通りの行動をしなければならないという理屈は全くないのです。それこそ余計なお世話です。また、
「どうして子供が思い通りに育たないのでしょう。」
という相談も多いのですが、子供というものは親の悪い部分だけは妙にきちんと遺伝してしまうものの、親の思う通りにはなかなか育ってくれません。というのも、しょせんは別の生物なので当たり前の話で、他人が願っている通りに生きなければならないわけではありません。それを強制するとそれこそ虐待になってしまいます。子供には子供の人生があるので、基本は自分で考えて行動し、良くも悪くもその結果については自分で責任を取ってもらわないといけません。また、
「職場でよかれと思って〇〇したのに逆の結果になって、私ばかりが誤解される。」
ということを訴える人が結構おられますが、これは独りよがりの行動の結果であって、周りの人からしたら迷惑なことをやっているのです。だから評価されないのであって、誤解なのではありません。また、
「あの人は世渡りばかり上手で出世して、自分は世渡りが下手だから評価されない。」
ということを訴える人も結構ありますが、「世渡りばかり上手」を実践しようとすると、「口がうまくて相手の気持ちを上手に汲んで対応する」必要があり、なかなかどうして、立派なコミュニケーション能力の持ち主であり、要するにその人は「実力があるのだ」ということが言えます。諸外国との取引も多いこのご時世に「世渡りが下手」というのは致命的な欠点と言ってよく、評価されなかったり給料が上がらないのも仕方がない、ということにもなります。
「口下手だから自分は損ばかりしている。」
というのもそうで、口が下手だと伝えるべきことも伝わらず、チームを組んで仕事をしなければならない現代では結果が出せません。だから損をするのは当たり前なのです。
 このように考えていくと、現代は、
「ほっといても相手はそれなりにやってくれる。」
などということが期待できる時代ではありません。相手の考えていることと自分の考えていることは違っていて当たり前、自分の置かれている状況と相手の置かれている状況も違って当然、それを念頭に置いてコミュニケーションを取るのが大切であり、それができる人はうまくいき、それをやらずに自分の意見を押し付ける人はうまくいかない、ということになります。自分勝手でわがままな人が猫を飼うと、猫も同様の性質であるため、同じ個性がぶつかって大変なことになってしまうので、猫を飼うことは異種間のコミュニケーションの恰好の練習になります。猫を飼う人が増えたのは、個人同士のコミュニケーションの重要性が認識されるようになった時代の変化が反映していると思います。

 

第百三十四号  

余裕を持つということ

  ある程度の余裕を持つということは大切なことです。日本人はちょっと熱しやすく冷めやすい所がありますから、ある程度の距離を置いて物事を見るということが苦手です。あせると元も子もなくなることも多いものです。人生を平常心で楽しむことも必要ではないでしょうか。
  イギリス人は、お固い国民性だけかと思っていましたら、意外に賭事が好きなのです。ドッグレ-スの賭けは有名ですし、選挙までも賭けの対象になります。賭けの胴元になるラドブルックという会社まであり、そこがいろいろな賭けを考え出すそうです。中には面白いのもありまして、
「今年中にネス湖の怪獣ネッシ-が発見されるか」-賭け率は一対一五〇。
日本円で例えると、一万賭けておいてネッシ-が発見された場合は一五〇万がラドブルック社からもらえるわけです。もっともこれには、誰もが見たという確実な証拠があって、大英博物館が怪獣だと認めること、という条件がついております。また、
  「今年中に宇宙人が来るか」というのもあります。賭け率は一対二五〇です。この場合も、世の中には、
「宇宙船に連れていかれて、その中で宇宙人とお茶を飲んだ」
なんて言い出す人が必ず出てきますから、この賭けに勝つ場合は、れっきとした宇宙人がロンドンにやってきて、議会か政府を乗っ取らなければなりません。  自分でいろいろな賭けを考えてラドブルック社に持ちこむこともできます。たとえば、
「自分の四歳の息子がゴルフを始めたが、二一歳までに全英オ-プンで優勝するか」-賭け率は一対一〇〇〇。
「妻が妊娠したが、双子かどうか」-賭け率は一対二二。
なんてのがあります。
  こういう賭けはほほえましくてストレス解消によさそうですが、楽しみであったはずの賭けが高じて行き過ぎる場合もたしかにあります。先ほどのイギリスのお話です。ある老人ホ-ムで意気投合したお年寄りが二人いました。彼らは共同で少ないお金を出しあい、数字合わせの賭けを楽しんでいたのです。ところが、本当に二五万ポンド(日本円で四千万円)があたってしまったから大変、途端に一人は心変わりし、賞金を持ってホ-ムから逃げてしまいました。逃げられたほうは、「半分の賞金は自分のものだ」と主張して裁判に訴え、大騒ぎになったそうです。
  西洋のことわざに、
「月収の五倍以上かけて損したときと、十倍以上得したとき、ともに人生が狂う」
というのがありますが、賞金の額の大きさは、先ほどのお年寄りたちの人生も完全に狂わせてしまったわけです。賭けやギャンブルはあくまで楽しみやストレス開放のためにたしなむのが本来なのでしょうが、実際には人を不運の方向へ引っ張っていってしまうケ-スも目につくようです。あくまで娯楽として楽しんでいられるか、それとも新たな苦しみの火種になるのか、その別れめは、「どれだけ余裕を持てるか」
につきるのではないでしょうか。株式投資なども賭けの一つにあたるでしょうが、株で儲けようと思ったら、その秘訣はたった一つだそうです。それは、
「余ったお金、つまり損をしても、自分が大して困らない金額で株を買うこと」につきるのだそうです。(私自身賭けを一切やりませんので伝え聞きに過ぎませんけど)資産が億程度はあって、余った二、三千万くらいのお金を株に投資し、いったん投資したら、少々値が上がろうが下がろうが最初からないものと考えて長期間保有する、これが投資の一番のコツだそうです。反対に最もよくないのが、一獲千金を夢見てトラの子のへそくりで株を買い、値が上がったらもっと儲かる時期を捜して血まなこになり、下がったらあわてて売り払うパタ-ンで、素人が損をするのは間違いなくこのケ-スだそうです。こういう風に損をした人の損害分は、そっくりそのまま前者のようなお金持ちの投資家の利益に回るそうで、このしくみがあってこそ株式投資の市場は成り立つのです。  何事も楽しみでやっているうちが華ということでしょうね。信仰を持つ私たちであれば、目先の損得で一喜一憂するのは決して賢いことではないということがわかるはずです。世の中の真実は一つ、神仏の教えしかありますまい。人生を無駄には送りたくないものです。 


第百三十五号  

どうせ時間を使うなら

 「鶴は千年、亀は万年」と言いますが、実際には一番長寿な生物は植物です。彼らは動きまわらないかわりに生命活動が非常にゆっくりしていまして、何千年という樹齢の木など珍しくありません。それにひきかえ、動物は本当に短命です。先ほどの鶴は実際にはよく生きて十五年、最高でも二十年程度。亀はもう少し長生きですが、大型のゾウガメで五十年程度、百年を越すのは本当にまれだそうです。これでは人間と大して変わりません。
  いつのまにか次の正月や誕生日を迎えてしまうように、我々の限られた寿命は何をしても、一定の速度でけずられていってしまいます。どうせ限られた時間しかないならば、少しでも有効なことに時間を使いたいものです。ところが、実際には、我々は忙しさにかまけて大切なことを押さえずに、無駄な時間を使ってしまいがちです。
  お釈迦様のところに、その保護者の一人だったパサナ-ディ王が訪ねてきました。王はかつてお釈迦様の教えに感激して仏教に帰依したのですが、それからはちょっと疎遠になりがちでした。
「王様、長い間お会いしませんでしたが、どうしておられましたか」
「いや、王というものは、権力をにぎり、ひろい領土もかかえていまして、いろいろな仕事があるものです。わたしはここのところ、それらの王事で忙しかったものですから」
するとお釈迦様は、じっと王の顔を見つめながらこう言いました。
「王様、ではこんな場合にはどう思われますか。あなたの信頼する者が一人、東のほうから馳(は)せかえってきて、『王様、今東のほうから、おそろしく大きな山が、すべての生き物を押しつぶしながらこちらにすすんでまいります。急いで対策を講じてください』と申し上げたとします。また、そのとき、西からも北からも、南のほうからも、同じことを報告するものがあったとします。王様、これは大変おそろしい事態であって、いうなれば人類の破滅のときです。そのような時、王様はどんな対策を立てられますか」
「そんな事態になっては、対策も何も、何のなすべきことがありましょう。命があるあいだだけでもよい行いをして、功徳を積むしかありますまい。」
「王様、これは単なる例え話ではありません。わたしはあえてあなたに告げなければなりません。『老い』という山が王様の上にのしかかっています。『死』という山も王様の上にのしかかっているのですぞ。この事態において、さらに何のなすべきことがありましょう。」
王様は天をあおいで、
「本当です。老いと死は、大いなる山のように、私の一身の上にのしかかっています。なすべきことはただ、よい行いをし、功徳を積むしかなかったのでありました。」
  日々の仕事にかまけて、真になすべきことは忘れていまいがちです。どうせ限られた時間なら、なすべきことに使うのが賢い生き方ではないでしょうか。私も通信教育などが好きなほうで、通信も入れると四回大学に入りましたが、そこで出会う人たちは普通とはひと味違います。何しろ自分の仕事を持ちながらもう一回大学で学ぼうという人たちですから、発想が上昇思考というか、そこの大学の学部全部を卒業してしまい、楽しみがなくなったと嘆く人までいるのにあきれてしまいました。こうなると立派な「資格オタク」でありましょう。高校卒業後、看護婦をしながら大学に通い、教員採用試験にも合格して信楽中学の英語の先生になった人も知っております。彼らとつきあってみてつくづく思うのは、
「なんと世の中にはすごい人がいるものだ」
ということです。大体趣味で勉強するなどという人種がこの世にいるなんて、以前には信じられもしませんでした。ところが、本当に彼らにとっては勉強することが一種の趣味です。一般の人たちがマ-ジャンやカラオケや一杯飲み屋でストレスを発散させるのと同じように、新たな資格に挑戦して楽しんでいるわけでして、まあ飲む打つ買うの遊びよりは、はるかに役に立つ道楽でありましょう。お金持ちはほおっておいてもどんどんお金持ちになるもののようですし、先のように勉強好きの人たちは、勝手にどんどん賢くなるようです。
  私たちまで大学に通う必要はないにしても、限られた時間ならば、お釈迦様のおっしゃるように功徳を積んで、有効に生かしていきたいですね。本当に充実した人生とはそこから生まれるものでありましょう。 

 

第百三十六号 

はやる店・はやらない店

 私は易学の免許も持ち、運勢鑑定もよくやっていますので、商売のことについてもいろいろと相談があります。その中で最も多いのが、
「店が繁盛するにはどうしたらいいか」
という質問です。お客を引っ張ってきて物を買わせればいいのでしょうが、ことはそう簡単にはまいりません。お客さんはきまぐれでいい加減に見えますが、実際にはそうではなく、世間の評判というのは意外に正確なものなのです。
「消費者の目なんて、いいかげんなものだ」
と思っている限り、本当にいいものを、真心をこめて作ろうという姿勢は生まれません。せいぜい
「いかにうまくインチキして、ガッポリもうけようか」
などと考えをめぐらすのがおちです。ごまかしがきくのは最初の間だけで、いずれ正体は世間にばれてしまいます。
 ある屋台の焼き芋屋が非常に繁盛していると聞いて、取引先の銀行の重役が、その秘訣を聞きに行きました。焼き芋屋は次のようなことを言いました。

その一 おいしい芋を食べさせること
その二 時計のように正確な時間で売り歩くこと
その三 客を待たせないこと
    (だから、焼き上がってからはじめて売り声をかけるそうです)

 その一の「おいしい芋を食べさせること」はとても大切で、そこのご主人は、気に入った芋が手に入らなかった日は休んでしまいます。芋は必ず自分で丁寧に洗い、奥さんにすら手も触れさせません。この「おいしい」ことは料理関係では一番大切でして、これさえ自信があったら、放っておいてもお客さんは来るのではないかと、私は考えています。というのも、昔私はあの「辻調理師専門学校」へ見学に行ったことがあり、そこでこういう話をしたからです。
「食べ物商売をする上で、どんなことに気をつければいいのでしょうか。立地条件とか、人件費の節約とか、いろいろ難しいのでしょうね」
私がそう言いますと、辻調理師専門学校のシェフの答えは、
「いや、簡単なことです。はやらない店は、要するにまずいんです。料理がうまければ、どんな田舎の店でもお客さんは車に乗ってでも来てくれます。たったそれだけです。」
実に見事な答えです。「では、うまいものを作るこつは何ですか」(私も料理をよく作るので、余計にこの分野には興味があるのです)と聞くと、
「うまい物を食べてもらって、お客に喜んでもらおうという心が一番大事です」
との答えでした。
 その二の「正確なスケジュールで売り歩く」ということは、時間を正確に守るということに他なりません。その三の「お客を待たせない」という点も同じです。特に焼き芋の場合は、お客は大半が女性なのですが、彼女たちは芋は好きだが、路上で待つのは恥ずかしいという心理を持っています。「お客を待たせない」というのは、それへの思いやりであり、気配りではないでしょうか。焼き芋に限らず、はやる店は先の三つの条件を大体満たしているように思います。また逆に、はやらない店は商品が悪かったり、時間にルーズだったり、お客をやたらと待たせたりするはずです。
 商売のことばかりを書きましたが、要するにポイントは「相手への思いやり」です。相手の立場を無視して勝手なことをやる限り、お客は寄りついてくれません。これはどの職種、どんな分野のことに対しても言えるのではないでしょうか。一つの分野に達者な人は、大体どんな分野に対しても達者なものです。
「今の仕事には恵まれていないが、もっとよい仕事、もっとよいポストがあれば、俺はきちんと仕事をするし、活躍もできるんだ」
といった内容のことを言う人がときどきおられますが、こういうタイプに限って間にあったためしがないように思います。一つの分野で成功するということは、少なくても先にあげた三つのポイントぐらいはきちんと克服できるということですから、そんな決意でのぞめば、世の中のことは大体が解決できるのではないかと思っています。うまく行かないことを他人のせいにするよりは、目の前の問題を、一つでも解決することから運命は開けてくるものではないでしょうか。 


第百三十七号 

はやる店・はやらない店2

 先月号で「はやる店、はやらない店」のことを書きました。今月も大体同じ内容ですが、もう少し深く追究してみましょう。易学研究会で報告されていた、二つの店を取り上げてみたいと思います。
 最初は、ある小料理屋です。テーブルが二つ、カウンターに4人ほど座れるとても小さな規模の店でした。五十過ぎの夫婦でやっており、サラリーマンの息子が帰宅後、手伝うということになっています。ところがこれがさっぱりはやりません。結局一年ほどで店を閉じてしまいました。ご主人は板前出身なのですが、その割には料理がおいしくありません。食べ物商売に一番大切なのはこの点です。
 次に、店の人がみんな「暗い」のです。客商売にはこの要素は致命的です。この店は幻の銘酒と言われるあの「剣菱(けんびし)」がそろえてあり、大きなセールスポイントになっていたそうですが、店の人が皆無口で、暗い雰囲気ではせっかくの銘酒も全然おいしくありません。(正確に言うと、「全然おいしく感じなかった」そうです。私は酒もタバコもまったくやらないので、こういう感覚はもう一つよく分からないのですが)皆が黙って料理を作るだけ、手伝いの息子さんは、いい若い者が酒の燗(かん)とビールの栓抜きだけしかしていない始末です。おまけにご主人は、
「店がはやりませんが、方位がよくないんでしょうか」
などとぼやいてばかりいる始末。これはいけません。プラスの思考を持つということはとても重要なことです。
 一代で財を築いた実力者というのは必ず、強烈なプラス思考の持ち主です。どんな経営者にも経営の危機があり、骨身を削るような試練の時期が来るものですが、皆割合に楽観的です。自分のやることは絶対にうまくいく、という馬鹿の一つ覚えのような信念を持っています。思う一年岩をも通すといいますが、これは本当のことでして、「成功を確信する確信犯」には、本当によいことが起こります。もっとも、これにも程度があって、例えば借金ばかりこしらえる借金大王のような人がいますが、これは明らかに人生を失敗するケースです。いくら気持ちを前向きに持とうが、祈祷をしようが、借金が減るわけでもなく、借金取りが来なくなるわけがありません。こういう人は「楽天的」なのではなく、単に「脳天気」なのです。
 こういう例外はあるものの、泣くより笑う、怒るより喜ぶ方が体にもいいに決まっています。愚痴っぽい人がときどきおります。暑くなったら暑くなったで不平を言い、寒いなら寒いで文句を言います。政府の対応が悪い、税金が高い、不正が許せんと、憤慨するのはいいのですが、口を開けばぐちばかりとなってしまいがちです。そうなりますと恐ろしいもので、運命の歯車はすべてマイナスに回転します。誰でも文句ばかり言う人には近づきたくありません。また、満足に仕事ができない人に限っていろいろ文句を言うものです。ぼやいてばかりだからいいことが起こらない、いいことが起こらないからまたぼやくのくり返しになってしまうものです。新興宗教も心理セミナーもカウンセリングも、要するに言うことは一緒でして、
「マイナスの発想をするな、物事を肯定的に受けとめること」
と教えます。そして実際に効果があるものなのです。
 不幸なことばかりが続いたときの有効な対処法があります。それは、プラスの方向に勝手に思いこみをしてしまうというものです。具体的には、
「もう不幸なことはたくさんだ。もう一つも悪いことは起こらない。自分でそう決めた。」
実に勝手ですが、本当にそう宣言して、どんちゃん騒ぎをしてお祭りをしてしまいます。そうすると本当に凶事がやみ、よいことが起こってくるから不思議です。
 この店は人手に渡り、次は四十代のおかみさんが同じような小料理屋を開きました。板前ではありませんので料理は素人ながら、おいしく、細かなところに気を配った味付けです。おかみさんも特別美人というわけではありませんが、いつもにこにこと笑顔を絶やさず、お客さんにこまめに話しかけます。お陰で店は大繁盛となってしまいました。幻の銘酒がお客を呼び寄せるのではありません、味と人が呼び寄せるのです。信仰を持つ方ならば、心の動きが現実生活に与える影響が意外に大きいことをご存じでしょう。日々に感謝し、前向きに生きていくことこそが、神仏の道でもあるのです。

 

第百三十八号  

クレクレからの脱却

 大変マイナーな話で恐縮ですが、私が子供の頃、「クレクレタコラ」という非常にへんてこな番組がありました。1973年10月から一年間続いた番組で、月曜から土曜日までの毎日、放映は18時55分から19時まで。たった5分間の番組で、かつ260話も作られています。内容は極めてシンプル、森に住むタコの怪獣クレクレタコラは、欲しいものを見つけると何でも「クレクレ」とつきまとい、相手を殴り倒そうが何だろうが、どんな方法を使ってでも手にいれようとする、相手もクレクレタコラに取られたらたまらないので、命がけで戦うという、果たしてこれは子供番組なんだろうかというシロモノでした。
 ざっとしたあらすじだけ読んでも相当ぶっ飛んだ内容でして、制作したプロデューサーに3歳と5歳の子供がおり、彼らが欲しいものを「クレクレ」する様子を観察して、そのまま番組にしたんだそうです。ここまで自分の欲望に正直だと、あきれたを通り越して爽快ですらあり、5%から始まった視聴率は13.5%にまで上昇、「何でも欲しがる、クレクレタコラ~」というフレーズの、へんてこな主題歌までヒットし、かなりの印税が入ったそうです。通常の一時間ものの番組の40分の1で作られた超低予算番組なのですが、いまだにDVDが出ていてマニア的な人気を誇ります。
 ここまでなら笑って読んでいられるのですが、私たちも基本的に相手に対して「クレクレ」をしてしまいがちです。「自分の言うことを分かってくれ」「職場で認めてくれ」「ちゃんと愛してくれ」など、私たちはとかく相手に対して「クレクレ要求」を突きつけてしまいがちです。冷静になって考えてみれば、「相手が自分のことを分かってくれない」という前に、まず自分が自分の意思をきちんと、相手に伝わるように努力したのかというと、はなはだ疑問だったりします。また、「職場で認めてもらえない」と嘆くのも考えてみればおかしな話なのです。業績を上げたら必ず評価には結びつくわけですから、要求を突きつける前にやるべきことは、業績という結果を出すことなのだと思います。愛情に関しては完全なコミュニケーションの世界ですから、「相手が愛してくれない」という前に、まず自分が相手を愛してやったのかを問うべきなのではないかと思います。そうでないと、ただ要求されるだけでは相手はたまったものではありません。「クレクレタコラ」では、タコラに物を取られないように、相手のキャラがタコラをダイナマイトで爆殺しようとする話まであって、子供番組にクレームつけているPTAの人が見たら、卒倒どころか発狂しかねませんが、実生活で「クレクレ要求」を連発すると、結果は似たりよったりになります。
 カウンセラーの人が書かれた文章の中に、拒食症をわずらった女の子の臨床例が紹介してありました。父親は「食べなければ死んでしまう」とさとし、母親は「お願いだから、一口でもいいから食べ物を口にして」と泣き、姉は「とにかく食べて」とすがります。しかし、拒食症の妹は一向に食べようとしません。なぜかというと、全員が口にするのは「とにかく食べてくれ」という「クレクレ要求」だからです。
 姉にカウンセラーは「自分の本当の思いというのは、自分ではなかなかつかめない。本当の思いは心の奥の奥にある。伝えるためには、まず自分と通じることが大切。自分でも自分の本当の思いがわからない状態では、人に通じるわけがない。」と伝えました。姉はカウンセラーの勧めるワークに従い、自分の氷山の底にあるような本心へ、丁寧に問いかけていきました。「現在の妹さんに対する思い、過去の妹さんとの思い出、願いが叶うならどうなってほしいか」、などと、現在、過去、未来と視点を変えながら、氷山の底の心に丁寧に問いかけ、自分の思いを引き出していきました。
 その果てに姉は、「自分の本当に言いたいことが、とてもはっきりした!」と、晴れ晴れした顔で言いました。
「いま、妹に言いたいこと、それは、食べ物を口にしてくれとか、そんなことではなかった。本当に言いたいこと、それは、
『家族は、あなたが大切だ。愛している。』」
姉は思いを一気に手紙に書き、妹さんに送りました。結論から言うと、妹さんの拒食症は順調に回復したのです。「くれ文」から「与える文」に内容が劇的に変わり、ついに妹さんに伝わったのです。
そう、「クレクレ」と相手に要求するのではなく、まず好意を、誠意を、愛情を与えなければならないのです。そこで初めて「ギブアンドテイク」の関係が成り立ちます。最初は「ギブ(与える)」からでないと、何事も成立いたしません。これが人と人とのコミュニケーションというものです。


第百三十九号  

読んでおきたい孔子の言葉

 とてもよく耳にする意見に「物質文明はどんどん進歩していっているのに対し、人の心はどんどん貧しくなっている。」「凶悪犯罪が増加し、世の中はどんどん悪くなっている。」「青少年の非行はどんどん深刻になっている。」というのがあります。結論を先に言うと、これらはすべて妄想にすぎません。時間が経過するにしたがって人心が荒廃し、凶悪犯罪が増加し、青少年の非行が増加するのならば、時代が昔にさかのぼれば、人心はどんどん善良になり、凶悪犯罪はなくなり、青少年はよい子ばかり、つまり昔になればなるほどよい時代だということになります。となると、第二次次大戦当時、赤紙一枚で招集されて敵艦に体当たりしていた時代は、今よりよほど幸せな時代だったということになります。さらに時代をさかのぼると江戸時代になりますが、士農工商の身分社会ですから、お侍の機嫌を損ねたら無礼討ちされても文句が言えません。もっと時代をさかのぼって古墳時代になると、大君(おおきみ)が死んだら臣下は殉死しなきゃいけなくなります。みんな殺されて古墳に一緒に埋められてしまうんですから、私はまっぴらごめんです。「世の中がどんどん悪くなっている」説が論理的に矛盾しているのは明らかです。
 では、本当のところはどうなのかというと、時代が変わっても、人心は何ら変化していないのです。この「ともしび」も、1号から100号までは40年近く前に発行されていたものを、今の時代に再び発行しております。そのため檀家さんの中には、黄色くなってしまった昔の「ともしび」を、いまだに大事に取ってくださっていることがあります。檀家参りでそれを目にすると、なんだかタイムマシンに乗って過去に戻ったような気がします。最初の発行の頃はバブル経済の真っ最中で、日本の経済力は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われて飛ぶ鳥を落とす勢いでした、日本中が好景気で社員の補充が追いつかず、採用試験をすっぽかした会社から内定通知が来たという、今では到底信じられないような話まであります。では、その頃、イケイケドンドンだった時代に書かれた「ともしび」と現代のものとではどこか違うかというと、何のことはない、全く変わっておりません。文体から論の進め方、内容に至るまですべて同じです。そして、バブルの頃も現代も、同じように支持されています。人間の本質が同じだからこその現象と言えるでしょう。
 孔子は紀元前400年ごろと言いますから、今からおよそ2400年も前の人です。当時、世界各地で一斉に賢人たちが活躍し、面白いことにみなほぼ同じ教えを説いています。ギリシアではソクラテスが哲学を始め、インドではお釈迦様が仏教を開かれ、中国では孔子が教えを説き、それぞれの地域の教えの根幹になりました。当時の中国は戦乱が200年以上も続き、どうしたら平和で安定した社会が作り出せるのか、賢人たちが頭をひねって考えました。いろいろな考え方があったのですが、最も正統派と言えるのが孔子で、道徳教育の重要性を説きました。以下にその言葉を引用してみましょう。

原典 子(し)曰く、人の己(おのれ)を知らざることを患(うれ)えず、人を知らざることを思う
現代語訳 世間が自分を認めてくれないと嘆くものがいるが、自分の周りにいる人の才能や長所に自分が気づいていないことを嘆くのが先だろうよ。

なんと、先月号の「ともしび」で私が書いた内容と全く同じです。参考までに先月号の内容をざっとふり返ると、
「職場で認めてくれ」というのは「クレクレ要求」、「職場で認めてもらえない」と嘆くのも考えてみればおかしな話で、業績を上げたら必ず評価には結びつくわけですから、要求を突きつける前にやるべきことは、業績という結果を出すこと。
と私は書いています。孔子には三千人もの弟子がいて、いろいろな国に官僚として就職していました。おそらく業績に関する不満を孔子にぶつけるものがいて、それに対する答えとして語られた言葉でしょう。
「他人の才能や長所に気づく能力を身につけたなら、世間はそういう人を放っておきゃしないよ。」
と孔子は言っていて、まさにこれは真実です。戦乱の時代に道徳教育を説いたため、各国の王に政策を聞き入れてもらうことは残念ながらなく、孔子が生前活躍できることはほとんどありませんでした。その後中国は秦の始皇帝が武力により統一しますが、力ずくの政治だったため、秦帝国はたった30年で崩壊してしまいます。あとをついだ漢帝国は前の政権の失敗を教訓とし、武力面では秦帝国のやり方を踏襲しながら、一方で道徳教育に力を入れ、孔子の教えを全国民に学ばせるようにしました。その結果漢帝国は400年も続き、孔子の教えは中国の基本的なバックボーンとなったほか、日本にも多大な影響を及ぼすこととなりました。

第百四十号

読んでおきたい孔子の言葉2

 先月に引き続いて、孔子の言葉を引用します。
原典 子曰(いわ)く、人の生くるは直(なお)し。これを罔(し)いて生くるは、幸いにして免(まぬが)るるなり。
現代語訳 先生が言われた。人生まっすぐに生きるのが一番だ。小ずるく立ち回っても、幸運にして化けの皮がはがれないだけで、長続きはしない。
 愚直なほど正直がいいという教えで、現代の生き方にもそのまま当てはまりますね。「世渡りだけで出世している」と評される人は、政権や会社の権力関係が変化したりすると、もろにその影響を受けて撃沈してしまったりします。とはいえ、愚直にやっていれば必ず成果が報われるのかというと、自分の業績をきちんとアピールするのは、今やプレゼン能力と言われ、はっきりとしたスキルの一つになっています。愚直にやるのも、世渡り上手に行くのも、いずれもほどほどがいいというのが本当かもしれません。
 
原典 子曰(いわ)く、我(わ)れ三人行えば必ず我が師あり。その善き者を択(えら)びてこれに従う。その善からざる者にしてこれを改(あら)たむ。
現代語訳 先生が言われた。人が三人一緒になれば、自分のお手本となるべき者を見出すことができる。自分より優れた者は手本になるし、劣った者でもそのまねをしないように心がければ、立派な手本となる。
 私は合気道をたしなみますが、とても上手な人に教えをこえる機会はなかなかありません。しかし、非常に効果があるのが初心者の方を教えることです、初心者の方を教えていると、すぐに相手から目を離すわ、動きは直線的だわ、気を抜いて相手の手簡単にを離してしまうわ、合気道は格闘技ですから、敵に対してこんなことをやったらすぐにやられてしまいます。私は教えながら、自分も同じことをしていないか、こうならないためにはどうしたらいいかを考えながら指導しています。つまり、自分の稽古にこれほどよいことはありません。ですから私は、へたくそな人、超ど素人の指導は大歓迎で、喜んでやっております。孔子先生の言うことは正しいと日々、身をもって体験している次第です。上達しようと思ったら、出来ない人を教えるのが一番で、これほど自分の勉強になることはありません。

原典 子曰(いわ)く、いやしくもその身を正しくせば、政(まつりごと)に従うにおいて何かあらん。その身を正しくすること能(あた)わざれば、人を正しくすることを如何(いかん)せん。
現代語訳 先生が言われた。政治家が身を正しくしていれば、政治を行うなどわけもないことだ。自分の身を正しくしないで国民を正しく導こうとしても無理な話だ。
 孔子の教えは、大変もっともです。まっとうな政治をする前に、政治を行う人が身を慎まないと人はついて来ません。ただ、あまりに正論過ぎて時の権力者には煙たがられた結果、孔子を顧問にして政治を行おうとする国は現れませんでした。これより少しだけあとの時代になりますが、ギリシアでもソクラテスの弟子のプラトンが、「哲人政治」という考え方をとなえます。これは、国を治める王に高い道徳教育を施し、深く哲学をおさめさせた王を作れば、国はうまくおさまるだろうという考え方です。この理想がかなったのは古代ローマ帝国時代に一度あったきりで、あまり現実的と言えなかったため、プラトンも政治の世界からはほぼ黙殺されてしまいました。理想と現実というのは折り合いをどこでつけるのかが難しい問題なのです。

原典 子貢(しこう)問うて曰(いわ)く、一言(いちげん)にしてもって終身これを行うべきものありや。子曰く、それ恕(じょ)か。己(おのれ)の欲せざるところを人に欲せざることなかれ。
現代語訳 弟子の子貢が「一言で、一生守るべき言葉がりますか」と質問したので、先生が言われた。「それは思いやりだね。自分がされたくないことは人にもしないということだ。」
 学校で習う道徳の内容そのまんまの言葉です。孔子は二四〇〇年も前の人ですが、教えている教訓は現在我々が学んでいるものと何ら変わりはありません。また、先月号に書いたように、時代が古くなったら理想社会に近づくわけでもなく、要するに今の社会や人間の生き方と何ら変わるものではないのです。今でこそ孔子と言えば中国が生んだ大偉人として尊敬の対象ですが、孔子自身は二十代で魯(ろ)の国の下級役人となり、五十二歳で代官に抜擢(ばってき)されるまで長い下積み生活を送っていました。翌年に大臣になるものの三年で失脚、晩年は弟子の教育に力を注ぎますが、他界するまでの五年間だけでした。その最後の五年間の言動が「論語」にまとめられたのです。

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