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ともしび                 

第五十一号  

方便ということ

  「うそも方便、ところによる」という言葉があります。「うそをついてはいけない」とはわかっているものの、時には真実を語らないことが相手への思いやりになる場合もあります。たとえば入院している人に、

「あなたもう長くないそうですが、お力を落とさずにがんばってくださいね」なんて言ったら、その人は病状が悪化してたちまち死んでしまうでしょう。お隣り同士でかわすあいさつの言葉も同じで、かりにお隣りの奥さんはあまり美人とは言えず、子供が鼻をたらしていたとします。そんなときに、

「おたくの奥さんもブサイクだが、子供も鼻をたらしてきたならしいガキですねえ」

なんて言ったらケンカですみません。時と相手を選んで、相手の立場に立って、わかりやすい言葉や行為で人を導くことを「方便」と言います。

  さとりの岸に立って、迷いの海に沈んでいる人々に呼びかける仏の言葉は、そのままではなかなか人々の耳に聞こえません。時にはやさしく内容をかみくだいて導き、時には言葉だけの教えではなく、「ご祈祷」などを通じて人を救うこともあるのです。

  ある町にお金持ちがおり、その家が火事になったことがありました。その時主人はたまたま外に出ていました。彼は帰宅して驚き、家の中の子供たちを呼びましたが、小さい子供たちのため、遊びに夢中になって家から逃げようとしません。父親は必死になって、

「子供たちよ、逃げなさい、出なさい!」

と叫びましたが、彼らは父親の声に気がつきませんでした。そこで父親は一計を案じて、

「子供たちよ、こっちにはとっても面白いおもちゃがあるよ、早く出てきて遊ぶがよい」

と言いました。子供たちは「おもちゃ」と聞いて喜び、燃えさかる家から飛び出して命が助かったということです。

  これは「火宅(かたく)の教え」という有名なたとえ話です。

「燃える家」とは、欲望や見栄、ねたみやそしりがうずまく俗世のことであり、「父親」とは仏のことです。仏様の言葉そのままを理解できる人間はそう多くはありません。そのため、仏様はさまざまな手段をめぐらして人々を救うのだと言われています。

  例えば地獄の絵を見せて人々に、「悪いことをするとこうなるぞ」と教えてきたのも一種の「方便」でしょう。真言宗などでは、もっとこの「方便」を積極的に考えています。たとえば、

  ここに、大きな病気で苦しんでいる人がいるとします。当人は必死で、いわゆる困った時の神頼み」でお寺にいらっしゃるとしましょう。そういう時、

「生まれてきた者は必ず死ぬのです。いつまでも健康でいられないのも当然のことです。そういうことにこだわらず、前向きに生きなさい。」

と答えるとしましょう。確かにその通りなのですが、本当に困り抜いている人にとっては、何かこういう話を聞いてもその時にはぴんとこなかったり、場合によっては机上の空論のようにとれることもあるやもしれません。せっぱつまっているのでそういうことを考える余裕がない、という場合もありそうに思います。

  決してどんな病気でも拝んで治るものではありません。しかし、とりあえずはご祈祷などをして、少しでもその人の直接の障害を取り除いてさしあげる、その上で、心の持ちかたなどについてじっくりとお話をさせていただいたらどうだろうか、これが、真言宗の考え方です。「ご祈祷をする」ことが本来の目的ではないのですが、とりあえず人々を救う一つの手段、「方便」として積極的に行おうと考えるのです。

  もちろん、他の仏教のように「心の持ち方を考える」ということはとても大切です。当面の問題が解決したら、次には心を磨かねばなりません。そうでないと、たとえば病気が治れば、今度は金が欲しい、出世がしたい、浮気をしてもばれないようにしたい、など、要求がどんどんエスカレ-トしてしまい、それがもとで新たな不幸せが生まれることにもなりかねないからです。欲望はある程度は満たさねば生きていけない、しかしその反面で、限度を考えて、ほどほどのところで満足する心を養っていく、そういった生き方こそ、本当に神仏の御加護もいただけるのではないでしょうか。

ともしび                 
第五十二号  

まず自分をさがし求めよ
  お釈迦さまがウルベ-ラ-という町に向かっていたときのことです。若者たちが何やら、あわてふためいて森の中を右往左往しております。そしてそこにお釈迦さまを見つけると、
「こっちに一人、女が逃げてこなかったでしょうか」
と聞きます。事情を聞いてみると、こういうことなのでした。
  彼らはいずれも金持ちのお坊っちゃんなのですが、三十人ばかりで集まり、おのおの妻もたずさえて遊びに来ていました。ところが、その中に一人だけまだ結婚していない者がいて、その男は妻のかわりに、そのあたりの遊び女(あそびめ)を連れてきていました。宴会が始まって、みんなで遊び楽しんでいるうちに、その女が彼らの財布をとって逃げたのだそうです。そこでみんなでその女をさがしているとのことでした。それを聞いてお釈迦さまは、
「あなたがたに問いたい。金を持って逃げた女をさがし求めることと、自分自身をさがし求めることと、どっちが大事だろうか」
それは彼らの意表をついた質問でした。我を忘れて遊び、我を忘れて女をさがしていたみんなは、そう問われてはっとしたようでした。
「それはもちろん、自分をさがし出すほうが大事なことです。」
若者の一人がそう答えると、お釈迦さまは彼らに言いました。
「みんなそこに坐るがよい。私が今、自分自身をさがし出すことを教えてあげよう。」
お釈迦さまはいつものように、整然として、人生の正しい見方、正しい生き方を説きはじめました。彼らはお釈迦さまの教えるところを理解し、出家して弟子になったと言います。
  仏教は自己を追求する教えです。いや、仏教に限らず、宗教というものはすべて同じでありましょう。私たちはとかく、自分を見つめるよりも外に目を向け、いろいろなものを追い求めようとします。お金に執着する人もいれば、見栄のために無理を重ねてしまう人もいます。外に不満の目を向けている限り、トラブルのなくなることはありません。職場に対する不満などは典型的なものです。
「今の職場の人間関係がいやです。転職したほうがよいでしょうか」とか、
「自分にあった職場が他にあるか聞きたい」
とかいう相談を実にたくさん受けます。本当にどうしようもなく気の毒な境遇の方もいるのですが、一方では、
「これは、どう考えてもこの人のわがままに過ぎない」という場合もやはりあります。中には、
「たくさん仕事の注文がくるのでいやです。もっと私に合った仕事はないか、教えてください」
というのまでありました。バブルがはじけたあとの不景気の頃での話でしたから、さすがにびっくりして、
「いまどき注文が来なければ倒産の心配までしなければなりません。何が不満ですか、仕事が来ることに心から感謝してください」
とお答えしましたが、あれがいや、これだから自分は不幸だと言ってばかりでは、いつまでたっても低いレベルの人間で終わってしまうでしょう。「心の持ちかたで人生が変わる」というのは本当です。他人を責めているうちは、他人からも責められる人生が延々と続くわけです。
「あの人が私のうわさをした、悪口を言った」
と怒る前に、自分は他の人の悪口を言ったことはないか、考えてみるべきではないでしょうか。「部下を見ていると、気がきかないのでイライラする」
とこぼす前に、自分が入りたての頃はどうだったのか思い出してみたいものです。そういう人に限って、入社したての頃は上役をカリカリさせていたりするものです。ずいぶん前ですが、横綱「双羽黒」が、付け人をひどくいじめ、あまりのひどさに耐えかねた付け人が集団脱走したことがありました。自分は身勝手なくせに、付け人には酒を飲んでは、
「お前たちは目上を敬うという礼儀を知らん」
と言いながら殴るけるの暴行を繰り返し、鼓膜を破られた者もいたそうです。そのくせ本人は親方のおかみさんをなぐって廃業になったのですから、どちらに非があるかは明らかでしょう。信仰を持つ者であれば、自分の身に照らして反省の機会をぜひ持ちたいですね。

 

ともしび                 

第五十三号 

偉大な思い込みの話

  よく信者さんから、

「何とかというシ-ルを貼っていると、パワ-がいただけるそうですが、あれは効果があるのですか」とか、

「開運の絵(錦鯉の絵とか、富士山の絵などが多い)をかざると人間関係がよくなったり、願望がかなうというのは本当ですか」

という質問を受けます。そういう時には、

「それを信じている場合は、本当ですよ」

と答えるようにしています。私も面白がって、そのなんとかシ-ルとか絵画とかを、結構「もらって」持っています。(さすがに買いはしませんけど)

  実際に調べてみると面白いことに、それらの品物には特にこれといった力がないことがわかります。単に印刷したシ-ルであったり、鯉の絵にすぎないのです。幸福を運んでくる力はない、ただの物体です。

  ところが、事実は小説より奇なりと言いますか、実際には、その何とかシ-ルを貼ることで身体の痛みがやわらいだり、人間関係が上向いたりします。なぜこんなことが起こるのでしょうか。

  アメリカで報告された臨床例にこういうのがありました。

末期のすい臓ガンの患者がおり、いかなる手術も投薬も手遅れの状態でした。そこで医者は一計を案じ、今回開発された「クレビオゼン」という薬を、

「これは大変な効果をあげる新薬です。あなたのガンだって絶対治りますよ。私が名誉にかけて保証します」

と言って注射しました。患者のほうはその言葉を、わらにもすがる思いだったのでしょう。すっかり信じこんでしまいました。思いこみというのは時に大変な効果をあげるものです。本当にその日から、末期だったはずのガン細胞が次第に小さくなっていくではありませんか!

  ところが、今度は医者の方が心配になってきました。実は「クレビオゼン」という薬は、確かにガンの新薬ではありましたが、まだ実験も終わっていない薬で、その効果ははっきりとはわかっていなかったからです。考えてみれば、どんな副作用があるか知れたもんではありません。万策つきたといえひどいことをやる医者ですねえ。さらにその医者がすごいのは、今度はその副作用が心配になったものだから、二週間目からはなんと塩水を注射しだしたことです。この一件が明るみに出てからは大変だったのではないでしょうか。

  ところがその塩水でも、ガンがちゃんと治っていくのだからもっと大変。抗ガン剤や手術もできる状態にまで回復し、執刀も無事にすみ、経過も良好、患者は退院してしまいました。その患者は半年後にはセスナ機の免許を取り、広いアメリカのあちこちをビジネスで飛び歩くまでになっていました。健康診断を受けても、完全に普通の健康体になっていたそうです。

  ところがある日、困ったことが起こりました。朝刊に「クレビオゼンは動物実験でも効果なし」の記事が出たのです。それを運悪く読んだ患者はすぐにガンが再発し、一年で亡くなってしまいました。

  開運のシ-ルが本当に効く場合がある理由がおわかりでしょう。クレビオゼンもそのシ-ルも、鯉の絵も、実際には何の力も持ってはいませんでした。ところが人間には、「偉大なる思い込み」という力があります。

「このシ-ルを貼れば、絶対によいことがある!」

などと確信する場合には、本当に効果があらわれる場合もあるのです。(あらわれない場合ももちろんありますけどね)

要するに力があるのは、それを信じる人間の「思い込み」なのです。

  成功する人に楽天家が多いのも、失敗する人に悲観主義者が多いのも、同じ理由によります。一代で財をなす実業家に共通するのは、

「ああ自分は恵まれている。自分ほど幸せなものはない」という口癖です。思い込みの持つ力の恐ろしさはおわかりですね。こういう人は本当に幸せが向こうからころがりこんでくるのだから不思議です。

  反対に、人の欠点しか見ないとか、何かというとぶつぶつ文句ばかり言う人には、不幸の種がどんどん押し寄せてきます。ろくなことがないからボヤく、ボヤいてばかりいるとろくなことが起こらない。こういう人生の悪循環にはおちいらないようにしたいですね。

  信頼してすべてをまかせるのであれば、私なら、シ-ルとか絵画よりは、神仏にいたします。だって本当に御利益もいただけるのですから。

 

ともしび

第五十四号 

蛇の頭と尾の話
ある所に蛇がおりました。その頭と尾がけんかをしました。尾が言うには、「頭よ、お前はいつも俺の前にいる。それががまんできなくなってきた。たまには俺が前になって進むべきだ」
頭がいうには、
「そんなことを言うもんじゃない。俺が前にあるのは当たり前だ」
と互いに争いましたが、頭はどうしても前に行くと言って聞きません。すると尾のほうは怒って木に巻きつき、頭が前に進むことを許しません。頭がひるんだすきに、尾のほうは勝手に先へ進み出したのですが、その先に火山があったから大変、蛇は火口に落ちて焼け死んでしまいました。
  先に進む役割は頭のほうにあるとするのが自然です。その点に気づかず、不平を並べて順序を乱し、そのためにおのおのの働きを失うのはおろかです。
  こういうたとえ話のあとには、大体が、
「戦後、目上を敬うことのない子供や、怠け者の妻が多くなったのがなげかわしい。上と下、男と女の役割と分別を知るべきだ」
というふうにお話が続きそうなものですが、「ともしび」は違います。
  私事で恐縮ですが、私は非常に料理を作るのが好きです。精進料理ばかりですが、それだけに、精進特有の大変手の込んだものが多いのです。小麦粉から作る「しぐれ煮」などは、牛肉で作ったのとほとんど味も外見も変わらないほどですが、作るには二日かかります。それがまた道楽ですが。
  なぜこんなことが身についたのかと言うと、もちろん高野山での修行時代です。道場は今だに女人禁制ですから、掃除洗たく、つくろいものも、料理も、当然自分たちでやらなければなりません。ですから修行仲間はみな、
「男子厨房(ちゅうぼう)に入る」
ことに何の抵抗もないわけです。それどころか、密教や禅宗では食事当番というのはとても大切な役柄としています。曹洞宗を開いた道元(どうげん)禅師が中国に渡ってすぐのことです。ある有名な禅師に教えを請いに行きました。ところが、その高僧は何と食事番(典座-てんざ、という)で、高齢なのにシイタケの買い出しなんかしているのです。道元禅師はびっくりしました。当時の日本では、高僧ならお寺の奥でふんぞりかえっているのが常識でした。
「あなたのような偉い僧侶が、そんな仕事をなぜなさるのですか」
と問いますと、高僧はほほえんで、
「お若いの、あんたは禅の何たるかが分かっていないようだの」
と言いました。有名なエピソ-ドです。
  帰国して道場を構えた禅師は、
「座禅をするのも、食事をするのも、掃除も、みな同じく大切な修行だ」
としました。座禅を重ねて到達するのは、
「今、自分のやるべきことにベストをつくす。それが人間らしい生き方だ」
ということです。ですから、掃除をするときには一心不乱に掃除をする、食事の時には一生懸命に食事をとる、これが大切だというのです。料理を作るとわかりますが、調理の間は本当に余計なことを考えません。それこそ禅で言われるように「一心不乱、料理をすることになりきる」状態です。
  ですから、外へ出て仕事をするのも、家事をするのも、どれも大切な仕事なのです。貴賤はありません。ですから、
「男は女より偉いのは当たり前」とするのも間違い。(意外に若い男性にこういう考えが多いようです)その反対に、よく婦人団体などが、
「女をつらい家事から解放させよ」というのも間違いです。どちらも「男だから、女だから」という点にとらわれたおろかな考えではないかと思います。女性たちに一目おかせたいなら、男性は尊敬されるに値する徳を積むべきでしょう。女性の方も権利の主張をするのと同じく、やるべきことをやらねばなりますまい。親と子の関係も同じです。言うことを聞かぬ子供に対して、
「親に向かって、何だその態度は」
と怒るより、一つでも親の方自身が人さまに喜んでもらえるようなことをしていけば、口で強制するよりよほど子供に伝わるのではないでしょうか。
  変わってはならない社会の秩序もあり、変わらねばならない秩序もありましょが、そのいずれも、相手方を攻撃する前に自分の足もとを見つめるのが大切ではないでしょうか。それが人の和を作り、集団の和を作り、よりよい社会を作るのではないかと思います。

 

ともしび

第五十五号 

過去はもうなく、明日はまだない
  すでに過ぎ去ったから、「過去」という言葉があるわけで、古き良き時代をなつかしむのはよいとしても、現在から逃避してしまってはいけません。反対に、「明日のことなんか知らない」とばかりに、現在やるべきことを先送りにしてしまうのも考えものです。過去はもうないもの、明日はまだないもの。大切なのは、今を大切に生きることだということを忘れずにいたいですね。
  ある男が旅をしていたところ、大きな川にさしかかりました。舟も橋もありませんので向こう岸に渡れません。困った男は苦心の末、木の枝などを集めて組み合わせていかだを作り、向こう岸に渡りました。男は、
「いかだとは何と便利なものだろう。こんないいものは、いつも身近においておくほうがよい」
と言って、それからはずっと、陸地を歩くにもいかだをかついで行ったということです。
  阿含経(あごんきょう)にあるお話です。誰でも、いったん自分に役立ったり大切であったりしたものは、決してはなすまいとし、執着心ばかりが染みついてきがちです。
「子供の頃は、俺は勉強が良くできたんだ」
「俺はこう見えても、一流大学を出ているんだ」
「昔は羽振りが良くて、金持ちだったのに」
などという言葉に、あまりすがって生きていくのは考えものです。過去の栄光にのみとらわれて生きていくのは、さっきの男のおろかなふるまいとそう変わらないのではないでしょうか。裏をかえせば、現在の状態がそれだけ落ちぶれてしまっている証拠であるとも言えないでしょうか。それとは反対に、
「将来は独立して会社を作り、外車に乗ってみせる」
「自分の銅像を立てるくらい成功してやるさ」
とうそぶくばかりの人もいます。昔にこだわるよりはこっちのほうがまだましですし、場合によっては楽天的に開き直るほうが開運もしやすいのですが、だからといって、「現在の職場などで一人前のことができない」人などがこう言っていたら問題です。
  茶道には「一期一会(いちごいちえ)」という言葉があります。ほとんどの伝統文化がそうであるように、茶道も禅宗の強い影響を受けておりますので、これも、禅の思想から生まれた言葉です。道場では座禅を組み、
「悟りとはどういうものか」
「人間はいかにして生きていくべきなのか」
を真剣に追求します。私たちはとかく、「悟りを得る生活」と言えば、
「奥深い山にこもって、滝行などし、木の実や草の根を食べるような生活」
を連想してしまいますが、それは「仙人」の生活であって、悟りを得るというのとは違います。修行する僧侶も、最初はだれでも多かれ少なかれそんな
「山奥で暮らして行をつむ」ようなイメ-ジを持つものですが、修行が進むにつれて、
「俗世から離れて暮らすことが人間らしい生き方なのではない。むしろ、俗世にあって、今自分のやるべきことに全力をつくすのが本当の生き方だ」
ということがわかってまいります。悟りも、神仏も、自分の今の生活を遠く離れたところに存在しているわけではないのです。そうではなく、現在の自分の生活をふりかり、ベストをつくすことこそが重要なのです。地獄や極楽も天上や地面の下にある世界のことなのではなく、人が怒りの炎で身を焼いていればそこが地獄、みなが仲よくいたわりあえたらそこが極楽となるのです。
  人と人との出会いについても同じことが言え、
「この人とはもうこれっきりで、二度と会えないというつもりで誠意をつくしなさい」という心がまえを説くのが「一期一会」という言葉です。
  今、この瞬間を力一杯生きる人は、努力がたとえ徒労に終わろうとも、後悔だけはしなくてすむでしょう。人生は山あり谷ありですから、いつもうまくいくはずがありません。大切なのは、その時その時にベストをつくし、精一杯の努力をしておくことでしょう。あとは神仏がお決めになることです。
「人事を尽くして天命を待つ」
と言いますが、人事を尽くしておかねば運命の女神は決して微笑まないのではないでしょうか。お互いに、常に最大の努力をし、そのあとは神仏にまかせきるだけの生活をしていきたいですね。

                                                            

合掌

ともしび

第五十六号 

百の説法より一つの実行を
  冒頭から自分の事で恐縮ですが、私はあまり理屈をこねるのが好きではありません。なるほど昔はずいぶん哲学や宗教書を読みましたが、結局のところ、「正しいことがどれだけ実行でき、やさしい心がどれだけ持てるか」
という単純な結論が、宗教や哲学の本質のように思えてなりません。延々と理屈をこねるひまがあったら、一つでも善行を積むほうがよほどよいように思います。宗教など少しかじると、「縁起説(えんぎせつ)」がどうの、「仏教における霊魂説はどうの」と、難しいことばかり研究したがる人もいますが、それが本当に重要なことなのでしょうか。
  ある禅僧に、高名な詩人が「和尚、仏教とは何ですか」
と質問したことがあります。その回答たるや、
「よいことを行い、悪いことをしないことじゃ」
でしたが、その回答で十分なのではないかと思います。仏教もキリスト教も、歴史が長くなるにつれ、神学(しんがく)だとか唯識論(ゆいしきろん)とか、やたら難しいことを言うようになりました。しかし、それぞれの教祖のころと言ったら、お釈迦さまもキリストさまも、ごく身近な問題をたとえにして、人の生き方を説いたのが本当のところです。
  その点で神道は異色です。神道には経典がありません。教祖もいません。それどころか、はっきりした教説すらないのです。あるのは作法と、実際の善行を奨励するここと、心がまえを教えるだけ。あえて経典のようなものをさがすなら「古事記」と「日本書紀」ぐらいしかありません。その点仏教は、真言宗なら「理趣経(りしゅきょう)」をもとに即身成仏(そくしんじょうぶつ)を説き、浄土諸宗なら「阿弥陀経」をもとに阿弥陀如来の請願にすがり、日蓮宗なら「法華経」のパワ-を信じる、と実にはっきりしております。
  そのため口の悪い人は、「だから神道は宗教とは言えない」などとも言いますし、一方で神道のほうにも、「はっきりした教義がないのは問題だ」と考える人もいるようです。ですからごく一部ですが、なんとか神道を仏教のように、「理づめ」で説明したいと願うあまり、無理を重ねて珍説が飛び出す場合もあるのです。例えば、
  神道には「アジマリカム」という祝詞の文句があるが、もとは天皇が唱えられた言葉であった。これがいつの間にか宮中から庶民にも伝わり、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」に変化したのである。
というのがありました。これじゃあんまりです。
  私は、神道に教義や経典がないことを欠点だとは思いません。神道もまた立派な宗教です。それどころか、「何より実行を重んじる」点を仏教も見習うべきではないかとも思います。複雑でわかりにくい論議を重ねることで、人が幸せになるでしょうか。「自力で修行するべきだ」とか「いや他力本願しかない」とか言って宗派の優劣を論じたり、他の宗派や宗教をけなす人も時にはおりますが、はっきり言って時間の無駄にしかなりますまい。ちょうど山の頂きに上るのにいろいろなル-トがあるのと同じで、一生懸命信心さえしていれば最後には同じところに着くものです。神仏は、百の議論よりは一つの善行をよほど喜ばれましょう。温かい心の持ちようを教えるものであれば、それもまた立派な宗教です。経典がなくても、謙虚な心さえあれば何からでも学べるものではないでしょうか。
  「論語(ろんご)」にも、
「三人の人間がいれば、必ず我が師匠がいるものだ。良い行いを見習い、悪い行いも自分の身にあてはめて考え、反省材料とすればよい」
とあります。日常生活の中にいくらでも、自分を磨く砥石(といし)はころがっているのだと思えてなりません。この点を反省しなければならないのは、僧侶や神主、新興宗教の教祖、ついでに教師のような「指導的立場の人間」もまた、同じことです。気をつけませんとこういう人は、
「欲を捨てなさい、相手を許しなさい」
などと他人には説くものの、本人は守らないということになりかねません。教えていた高校生の川柳(せんりゅう)に、檀家のお坊さんの説教を聞いて作ったのでしょう、こんなのがあって大笑いしました。お互い反省の心だけは忘れずにいたいものですね。

  くそ坊主  いつも屁理屈  むだ話 

基礎のない家は建たない
  金持ちではあるが、愚かな人がおりました。他人の家の三階づくりの家が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思い立ちました。
  さっそく大工が呼ばれて、建築を言いつけられました。大工はまず基礎を作り、二階を組んで、それから三階に進もうとしました。それを見て主人はいらいらして叫びました。
「わしのほしいのは、土台ではない。一階でもない、二階でもない、三階の部分だけだ。早くそれを作れ」
そう言われて大工は困り、基礎も下の階も適当にして、三階の部分だけを立派に作りあげました。ところが何しろ手抜きの建築物ですから、数日たたぬうちに建物はひっくり返ってしまったということです。
  愚かな人ほど、地道につとめはげむことを知らないで、ただただよい結果を求めますが、土台のない三階がありえないように、つとめはげむことなくして、よい結果が得られるはずがありません。
  当院にはたくさん合格祈願にいらっしゃいますが、合格を勝ち取るのは何といっても学力で、神頼みの占める割合はほんの何割かに過ぎないものです。祈願したほうが受かりやすいのは本当ですが、だからといって、拝みさえすればどんな学校にも入れるわけではありません。そんなに世の中が甘いなら、僧侶や神主の子は東大やハ-バ-ドにもみんな入学できることになります。平素の努力をしないでおいて、最後のところだけで栄冠を勝ち取ろうというのは虫がよい話です。
  商売についても同じで、共同経営者が怠け者であるとか、商売そのものが時流から取り残された業種だとかいう場合は、何をしてもだめです。飲食業なら何よりおいしくてコストがかからないことが大切で、商売の基礎の部分の歪みをそのままにしていては、いくら神頼みをしても結果はよくありません。繁盛する店はみな、人の休んでいる間に働いているものです。
  日本人はどうも淡白なのか、粘り強く取り組むのが苦手のようです。常日頃の努力はなおざりにしておいて、困ったときだけちょっと拝んでもらう、そしてすぐに御利益をほしがる傾向がないとはいえません。その点中国などは、反対に長い目で人生を見るお国柄のようです。たとえば、中国の英知の一つに「風水(ふうすい)」というのがあります。あまり聞きなれない言葉ですね。これは中国で発達したあの「易学」の一種です。日本でいえば「家相」に相当するものです。ただ、日本の「家相」と「風水」は似ていますが、同じではありません。というのも、発想のスケ-ルや、対象とする時間の長さが全然違うからです。たとえば、
  日本の「家相」ではよく、「どこどこの方角にトイレをおくのはいけない、家の中に病人が出る」とか言います。「風水」にも似た内容はありますが、「風水」はそれよりも、
「家を建てる土地そのものの吉凶」とか、ことさら、
「墓を建てる土地の吉凶」
をうるさく言うのです。蛇行して流れる川の三日月型の土地の部分に家を建てれば繁栄するとか、ある形の山をさがしてふもとの土地を求めよとか、はっきり言って土地の狭い日本では使えない内容です。墓の吉凶に至っては、
「よい土地(よい土地のことを「龍穴-りゅうけつ」と言う)た墓は子孫に繁栄をもたらす」
などと書いてあるものの、「その効果が出る時期は三代先」なんてこともざらです。三代先と言えば、自分の孫が大きくなる頃に、やっと効果があらわれるなんてわけで、百年先のことです。風水をしかけた本人はだいたい死んでしまっているでしょう。
  ここまで長い目で人生を見ろとは言いませんが、問題の解決にはそれなりの時間も手間もかかるものです。重い病気であれば養生にはそれなりの時が必要ですし、成績をあげるのは一朝一夕(いっちょういっせき)には出来ません。非行に走った子供の治すなどはこの点を忘れてはなりません。何しろ、だいたいが一五年ほどかかって子供がおかしくなるのが非行です。それを何か月とか、ましてや何日でなど治るものではありません。毎日を精一杯努力して悔いの残らないようにし、自分のやるべきことをやってから、はじめて神に祈って結果が得られるものではないでしょうか。

 

               

ともしび

第五十八号 


恨みに報いるに…
  「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」
有名なイエス・キリストの言葉です。キリストはその言葉通りに、無理解な人たちから鞭打たれても、無実の罪に問われて十字架にかけられても、相手を憎むことなく死んでいきました。大したものです。
  ところが、上には上がいるもので、中国の「老子(ろうし)」の言葉には、「恨みに報いるに、徳をもってする」というのがあります。簡単に言うと、
「他人からひどい目にあわされて恨みたい気になったら、逆に親切にしてやりなさい」
という意味です。たとえば、家に侵入した泥棒をつかまえた場合、その泥棒には酒を飲ませてかえしてやるなどしなさい、と説いているのです。
  「そんなばかな」という感想をお持ちになる方も多いことでしょうね。キリストの言葉でさえ受け入れるのには抵抗があるのに、ましてやこんなこと出来っこないとお思いでしょう。ところが、終戦直後、中国の蒋介石(しょうかいせき)総統が日本に対して発した言葉がこれなのです。戦争中日本軍が中国の人々に対して行った虐殺のひどさは、想像をはるかにこえるほどのものでした。それにもかかわらず、戦争で負けたわれわれ日本人に対してとった態度は本当に立派の一言です。なにしろ、肉親を殺し、家を焼いた相手国の孤児を引き取って育てた人たちがたくさんいたのですから。(それが中国残留孤児です)
  日本人にそんなまねが、はたして出来たでしょうか。韓国などでは日本人の評判がいまだにすこぶる悪いのですが、過去にあれだけひどいことをしていれば仕方がないと思います。政府が変わるまで正式に謝罪もしていなかったのです。相手が怒るのも無理がありません。悪いことは悪い、反省すべき点は反省しますとはっきり言えないようでは、日本人も信用されますまい。
  私の親友の一人に、「イマン・ヒルマンシフ」という人がいます。イマンさんはインドネシア人で、祖国では大変なエリ-ト大学の出身です。日本に留学しているときに知り合いましたが、イマンさんの祖父もやはり旧日本軍に殺されたそうです。それを聞いて申しわけなく思い、せめてもと思って彼に謝ったことがあります。(私一人がそんなことをしても、どうなるものでもないのですけど)するとイマンさんは、
「実は、日本に来て二年になりますが、そんなふうにして謝ってくれた日本人はあなたが最初です。しかし、私は日本人を恨んではいません。日本軍は確かにひどいことをしましたが、昔は昔です。今の日本には良いところがいっぱいあります。それを学んで帰って、私は祖国のために生かしたいです。」
と言いました。本当に大した人物です。将来には多分、実際に祖国をになう人になってくれることでしょう。
  もし老子の言葉が納得できないものであれば、「孔子(こうし)」の説ならどうでしょうか。実は、この人は老子よりもあとの時代の人ですので、この件について質問を受けたことがあり、それが記録に残っているのです。
  孔子に、ある人が尋ねました。
「老子という人は、恨みに報いるに徳をもって返せと言っています。これについて先生はどうお考えですか」孔子いわく、
「私はその考えには反対だ。恨みに報いるに徳をもって返したら、徳に対してはどう報いたらいいんだね。報いようがないではないか」
「では、どうすればいいのですか」
「人から徳を受けたら徳で返したらいい。恨みに報いるには、公平さで返すことだ」
「公平さ」というのは、「自分の個人的な感情を入れない」ということです。つまり、私的な恨みを、公の場で返してはならないとか、自分が悪いのに逆恨みをして相手をおとしいれるようなことをするなということを、孔子は言っているのです。正当な競争で負けた恨みならば、こちらも正当な競争で正々堂々と返しなさいということにもなりましょう。要するに、恨みにはいろいろな場合があるのだから、それを冷静に、理性的に判断して、それにふさわしい方法で私的な感情を入れずに返すべきだというのです。
  どうでしょうか、この考えにならうなずけるのではないでしょうか。むしろ、何でもかんでも無原則に許してしまうより、こちらの方が現実的な態度のようにも思えます。むろん、最終的には相手の過ちを許すという心を忘れるべきではないでありましょう。

ともしび
第五十九号 

見直すということ

  人生は  やり直すことが  できない
  しかし
  見直すことは  できる

  どこかのカレンダ-に書いてあった言葉ですが、意味は深いものがあります。「あの時こうしておけばよかった」
「もっとあの時にしっかり勉強しておけばよかった」
などと、いくらくよくよ悩んでも、タイムマシンでもない限り人生をもう一度やり直すことはできません。しかし、これまでとは違った目で人生を見てみる、つまり「価値のものさし」を変えて人生を見てみると、また違った発見があるものです。
  幕末の政治家で川路聖謨(かわじとしあきら)という人がおりました。勘定奉行として長いことつとめたあと、外国奉行(こういう役職があったとは知りませんでした)になり、当時のロシアと幕府の外交条約を締結した人です。筋は通す人だったようで、徳川幕府が倒れたときには、
「忠臣は二人の君主につかえるものではない」
と言って、江戸城が開城された日にピストル自殺をした人です。
  その川路が奈良奉行をしていた頃の話です。ある日、彼は勤めから帰宅すると、奥方の前に両手をついて、
「ただ今帰宅いたしました」
と、すこぶる丁寧にあいさつをしたそうです。平素はそんなことをする人ではありませんので、不審に思った奥方がわけをたずねますと、
「実は今日、恋に狂って人をあやめた男の裁きをしてきたのだが、その相手の女というのが、もうひどい顔だったのだ。こんな女のために人殺しまでする男がいるのかと思ったら、お前が急にありがたくなってなあ」
のちにロシアとの交渉の席で、川路は向こうの大使にも、
「わが妻は江戸で一、二のベッピンでござる」
とのろけていたと言いますから、ほほえましい限りです。実際の川路の奥方がどれくらいきれいだったかは分からないのですが、毎日眺めていればどんな美人でも空気のような存在になり、その美しさもありがたさも意識をしなくなってしまうものです。そこへたまたま「比較の対象」を見せつけられて、川路はわが女房のありがたさを「見直す」ことになったわけです。
  妻や夫に限らず、身近にいつもいる人や、まわりにあるものの価値ほどわからなくなってしまうものです。空気などはその典型です。いつも私たちのまわりにはいて捨てるほどあるので、いつもは誰もそのありがたさに気がつきません。しかし、人間が真空中にほうり込まれたが最後、次の瞬間には風船のように爆発してしまうでしょう。落磐で閉じ込められたりしたら、ひとにぎりの空気が何百万、何千万分もの価値を持つことでしょう。
  「歯」にしても同じことです。年をとって入れ歯などすると、わずらわしい上に固いものが食べられません。第一食べ物がおいしくないことが多いものです。しかも、これなしにはやってはいけません。若い時など、「歯が生えているのは当たり前」という感覚でいたのが、歯を失ってはじめて
「ああ、これが全部そろっていた頃、なぜそのありがたさに感謝しなかったのか」と後悔するのではないでしょうか。
  また、多くの人がこぼすぐちに、
「毎日毎日が同じことのくりかえしで、退屈だ。こんな人生つまらない」
というのがあります。しかし、だからといって不治の病に冒されたり、津波で家がなくなったり、交通事故で妻子が死んでしまったりしたらどうでしょうか。毎日は同じことのくりかえしどころか、それこそとってもスリリングです。しかし、そんな場面に遭遇すれば、みな一様に、
「ああ、平凡な暮らしをしていた頃がなつかしい!考えてみれば、あの頃が一番幸福だったんだ」
と言うのは間違いありません。身近なもののありがたさが薄れてしまうというのは、「幸福を感じる心」が鈍ってしまうことです。災難にあってはじめて、「平凡に暮らせる幸せ」に目覚めるより、ふだんから気持ちの持ちようを考えておくべできはないでしょうか。

ともしび

第六十号 


欲は少なく大きく持つべし
みなさんがよくご存じのように、一般の仏教では「欲を捨てよ」と教えます。それに対して密教では「欲を持つことは悪いことではない。むしろ、いいことである」と教えます。仏教の中では、これはちょっとこれは変わった説のように思われたりしますが、考えてみれば、食欲があるから人間は生きられるのですし、性欲がなくなれば人類は絶滅してしまうでしょう。知識欲があるから文化が発展するのですし、金銭欲があればこそ会社の仕事や商売を頑張るという面も無視は出来ますまい。
  密教で祈祷をよくするのもそのためです。病気に悩む時は「何とか治りたい」という欲が出るのは自然なことです。重病で苦しんでいる時には、
「人間が病気になるのは当然のことです。死ぬのと同じでさけられません。だからあなたも心の濁りをとって、仏法に帰依しなさい」
と言われた場合、
「ところが、こっちはそんな高尚なことを考えている余裕はないんだ。俺はまず健康になりたいんだ。神でも仏でもいいからまず助けてくれ」
と考える人がいたとしても、その気持ちがわからないでもありません。密教ではそういう場合には、とりあえず祈祷などをして目の前の障害を取り除き、精神的にも落ち着いた上でじっくり説法なりすればよいと考えるわけです。
  しかし、これも場合によってはマイナス面が出るのです。というのも、だからといってお参りされる方が、
「祈祷寺とは、困ったことを何とかしてもらうためにだけ行くところ」
と思い込んでしまう危険があることです。願いがかなったらそれでおしまい、また困ったらおじゃまします、というパタ-ンになってしまうのはあまり感心しません。こうなりますと、場合によっては欲望がどんどんふくらんでしまうことになりかねません。たとえば、
「病気が治してほしい」という願いがあり、その次は、
「お金がもうけたい」。次には
「恋人がほしい」などというふうに、どんどんエスカレ-トしたりします。これでは救いを求めているのか、新たな欲を生みに来ているのかわかりません。そして「自分をふりかえって考える心の持ち方」を教わらない限り、人生には永遠に障害ばかりが出てきます。よく相談にみえる内容に、
「職場の人間関係がうまくいきません。ご祈祷してください」
というのがありますが、よく調べてみると、本人の性格が原因である場合が多いものです。こういう場合は何をしても災難は続きます。何しろその人の心が招いている災厄ですから。
  このように、欲望はどうしても必要なものは認めなければなりませんが、余計なものは捨て、自分をふりかえる心を学ばねばなりません。そして欲はなるべく数少なくし、「欲の質」についても考えたいものです。
  「一休さん」として有名な「一休宗純(いっきゅうそうじゅん)」禅師のところに、一人の老人が訪れて言いました。
「わしは八十歳になりますが、もう少し長生きしたいのです。あと二十年ほど生きられるよう祈祷していただけないでしょうか」。一休和尚は、
「はて、あと二十年ほどとは欲がない人だ。それでいいのかな」
老人はあわてて、
「できればあと四十年ほど長生きできれば…」
「これはますます欲のない人だ。本当にそれでよろしいのか」
「いや、それならあとさらに百年ほど…」
ここで和尚は老人をさとして言いました。
「五十年、百年余計に生きたことでどうなるのじゃ。そんな小さな欲ではなく、なぜ、永遠に生きようという大きな欲をいだかないのだ。仏法の教えは、いわば、人が仏になって永遠に生きる道を説いているものだ。今からでも遅くはない。正しい仏教の教えに目覚めて、永遠に生きることを願いなさい」
  「欲は少なく、大きく持て」と言われるゆえんです。みなさん、
「この世で一番欲望の強い方」は誰か知っていますか?
  実は、仏さまなのですよ。というのも、仏さまは、人間よりはるかに大きな欲を持っているからです。その欲とは、
「この世の中の、すべての人間を救いたい」というものです。
「正しい欲を持てるような知恵」を学びましょう。それが信仰者です。

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