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ともしび                 
第九十一号  

東洋と西洋の発想
 先月号で、ずいぶん日本人の発想の問題点について書きました。今月号はもう少し日本人の味方もしつつ、さらに掘り下げて考えてみましょう。
 日本人はイエス、ノーをはっきり言いません。自分の判断ではっきり結論を出すのではなく、集団の雰囲気にあわせることを好みます。みんながやっていることには抵抗がありませんが、集団の意向に反して一人で何かをすることについては、大変抵抗を感じるわけです。子どもがおもちゃを買ってもらうのには、必ずと言っていいほど、
「誰々ちゃんも持っているし、みんな持っている」
というねだりかたをします。それを聞いた大人の方でも、
「そうか、みんなが持っているのに、うちの子だけが一人残ってはかわいそうだ。やっぱり買ってやろう」
と思うわけです。一人だけ持っていないと「のけ者」になってしまうような感じがし、日本人はそれをひどくいやがります。いわば集団主義の発想です。
 この日本的な集団主義の発想にも大きな利点があります。日本では個人主義が弱く、全体の利益を考えて行動する人間が多いのです。そのため企業や全体のために一生懸命働く人間が多く、国家としての繁栄がもたらされていると言ってよいでしょう。もともと、これは農耕社会特有の発想でもあるのです。西欧は牧畜を中心にして発展してきた社会です。羊や馬を放牧するには、個人個人でしっかり行動する人間が必要なのです。羊の群れが谷に迷い込んだとか、狼に襲われたとかいった場合、その場には世話をしている牧童一人しかいません。問題が起きるたびにいちいち集落へ帰って村長などに相談するわけにはいきません。どうしても自分一人の判断と責任で、事態が解決できる能力が欠かせないわけです。西洋個人主義の根底には、こんな事情があるのです。 
 一方、日本のような農耕中心に発展してきた社会では、個人個人が勝手に判断して種をまき、好き好きに水を自分の田んぼに引き込んだりしたら、非常に都合が悪いことになります。下手をすると水源が枯渇して、全員の田んぼがだめになってしまいます。農耕社会では自己主張が強いタイプの人間は、集団の和を乱す都合の悪い存在となるわけです。村長などの指示におとなしく従って、種まきの季節になったらみんなと一緒に種をまき、水も自分のところだけに引っ張るのではなく、みんな平等に配分できるように協力しなければなりません。そういう、おとなしく集団の規律に従う人間が必要とされてきたのです。ですから、日本人が集団主義で、あいまいなのもある程度仕方のないことなのです。
 しかし、社会の変化を見れば分かるように、日本はかつての農耕社会から西欧タイプの社会へ移行していっています。全体主義から、個人主義への流れは誰にも止められないでしょう。外国との取り引きも非常に多く、交渉の場では日本的な発想は全く通用しません。外国に留学していた帰国子女などは、格好のいじめの対象になってしまいます。彼らは外国の学校で学んでいますから、意見を実にはっきり言います。そして強い権利意識を持っています。間違っていると思ったらどんどん指摘し、議論して相手の論理のおかしいところを直そうとします。それに対して日本の学校での「良い子」は、文句をいわず、おだやかで、みんなにあわせ、勉強だけは頑張るというタイプです。これでは問題が起きても、当然と言えましょう。
 では、これから日本人がしっかりした権利意識を持ち、本当の個人主義を身につけていくにはどうしたらいいのでしょうか。絶対に必要なのは、「確固としたよりどころ」です。西欧諸国では宗教の力が依然強く、あらゆる面で人々の生活のより所となっています。日曜日に休むのは神がその日を安息日(あんそくび)と定められたからで、クリスチャンならば日曜日には教会に行き、聖書を学び、牧師の話に耳を傾けます。日本では誰かに人生の指針を聞きに行くという習慣は、あまり盛んではありません。日曜日は単なる、ごろ寝の日です。高度経済成長の頃は、会社のためになにも考えず働いていればよかったのです。しかしこの低成長の時代、我々は一体何を目標にして生きていけばいいのでしょうか。それすらわからない人がたくさんいるのが、今の日本の現実なのだと思います。ボランティア活動の広まりや、趣味に生きる人が増えてきたのはそのせいでしょう。これは非常にいいことだと思います。要するに「心のすきまを埋めてくれるもの」を日本人が欲しがっているということでしょう。しかし、心のすきまを埋めるものといえば、何といっても信仰の道にまさるものはありません。
                         合掌
522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地
電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679  
高野山真言宗清涼山不動院    

ともしび                 
第九十二号  

腹をくくることも必要
  私はかなり用心深い性格で、俗に言う「石橋をたたいて渡る」タイプです。しかし、場合によっては腹をくくり、一か八かの度胸勝負にかけることも必要となります。計画性がなくその日の都合だけで生きている人が成功できるわけがありませんが、だからといって、何から何まで計算づくで生きていけるほど、人生は簡単なものではありません。どんなに緻密な計画を立てても、かならず「予期しないトラブル」というものは襲ってまいります。こういう場合に、普段細かいことをきちんとするタイプの人間ほど、耐久性がないものです。「机の上が常にきちんとしていないと気がすまない」ような繊細な神経の持ち主ほど、ストレスに弱く、対人関係のトラブルなどがあったりしたら最後、体をこわしてしまいます。場合によっては、いい意味での「開き直り」が必要になります。
 昔あるお寺で法要がありました。時間の都合で食事を早く出すことになり、食事番のお坊さんは大いにあわてました。大根や人参や白菜などをろくに洗いもしないでぶつ切りにし、大鍋に入れて味付けをしました。実は、野菜の中に小さな蛇が一匹まぎれこんでいたのですが、それまで一緒に煮てしまい、お客に出してしまったのです。お客は誰一人としてそれに気づかずに食べ終わり、お寺から帰ってしまいましたが、食事番のお坊さんはお寺の和尚さんに呼ばれました。食事番が和尚さんの部屋に手をついてあいさつをしますと、和尚さんは手にした椀の中から箸でなにやらつまみ上げ、
「これは何か」
よく見ると、蛇の頭です。食事番のお坊さんはそのとき初めて、蛇までぶつ切りにして客に出していたことを知りましたが、もうこうなっては申し開きもできません。内心「しまった!」とは思いましたが、腹をくくり、涼しい顔をして、
「それは人参の頭でございます」
和尚さんの箸から蛇の頭を手のひらに受け取ると、一口にパクッと飲み込んでしまいました。それがあまりにも堂々とした態度なもので、和尚さんは逆に、たいそう感心したといいます。
 いつもいつもこんな調子で切り抜けていたら、反対に「あいつは反省しないやつだ」と総スカンを食ってしまうでしょうが、時にはこのような開き直りも大切なのだということです。失敗したり予想しないトラブルに巻き込まれたりして、誰しも窮地に立たされることがあります。その時に、苦しまぎれにあわてふためいたり、責任逃れをしようとしたりすると、さらに傷を深くすることにもなりかねません。土壇場に追いつめられたとき、腹をくくる覚悟があれば、大体のことは乗り切れるものです。
 何事に関しても細かい人間というものは、緻密で計画性があるという長所があるものの、とかく「腹をくくる」ということが苦手です。大体は部下のささいなミスまでいちいちチェックし、結果として人望を失うことになりかねません。病気になる中間管理職は大体このタイプです。
 中国での話です。戦国時代、衛(えい)という国がありましたが、ここの国王が物事に細かすぎるタイプでした。臣下の一人が将軍にふさわしい人物を捜し出し、国王にお伺いをたてました。国王は、
「なるほど、彼は将軍にふさわしい器かも知れぬが、あの男、かつて地方の役人をしていた頃、人民から二個の卵を徴発して食ったことがある。そんな根性のいやしい男は将軍にできぬ」
「それは、ちと了見が狭いというものです。卵をとりあげて食べたのは、決してほめられることではありませんが、大した罪ではありますまい。人を用いるのは、ちょうど大工が材木を使うのと同じです。大工は木の悪い部分は捨て、良いところだけ取って使います。良材でも節や、朽ちた部分はつきものです。幾抱えもある木に、たとえ少々の欠点があっても、腕の立つ大工は捨てたりはしません。悪い部分だけ捨てれば役に立つからです。今は乱世、人材は一人でも欲しいときなのに、わが君はわずか卵二つのことで、あたら名将を捨てようとされますか。こんなことが隣国に聞こえたら国の恥ですぞ。」
臣下がいくら言っても国王は結局聞き入れず、この狭量のおかげで人材は育たず、いても逃げ出してしまったため、国力が衰え衛(えい)は滅びてしまいました。これも、国王に腹の座ったところがなかったゆえです。普段の確固たる信念、信仰の心さえあれば、打開できる危機もいくつかあることでしょうに。
                         合掌
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ともしび                 
第九十三号  

​害虫とは何か

  息子は小学生の頃かなりの凝り性でして、私の性質がほぼそのまま遺伝してしまったなあと感じていたものです。彼は何かに熱中し出すと、其れこそ寝食を忘れて夢中になるタイプで、そのあたりも私そっくりなのですが、ある時期に昆虫に夢中になりました。食事中だろうが布団の中だろうが昆虫図鑑を持ち込み、「ウスダビガ」はどうの、「オオウラギンヒョウモン」はどうのと、よくこんな難しい名前ばかり覚えられるなあと感心するぐらい質問ぜめにされます。その頃、彼がよく質問する内容が、
「おとうさん、ツマグロヨコバイって、害虫?」
「そりゃあイネの大害虫だから、害虫も害虫だ」
というたぐいの質問です。どうも、どの虫が益虫で、どの虫が害虫かが知りたくて仕方がないらしいようです。
「ガガンボって害虫?」
と聞かれたときには、仕方がないので当方も図鑑を調べてみました。外見は「蚊」にそっくりですが数センチもあって、実に頼りなさそうにヒョロヒョロ飛んでいる虫ですが、幼虫はイネの根を食い荒らすのだとわかって、自信を持って、
「害虫!」
と宣言できました。ところが中には、どうにも返答に困る場合もあります。
「マイマイカブリって害虫なの」
と質問されると、どう答えていいものやら。これはシデムシ科の甲虫でミミズか、カタツムリを食べます。ミミズは落ち葉などを食べて分解し、堆肥にしてくれる貴重な存在の動物ですから、これを食べるマイマイカブリは、害虫といえます。一方でこの虫は、作物を食い荒らすカタツムリも大好物ですから、この点では益虫といえますし、どう言ったらいいのか困ってしまいました。まさか、
「ミミズを食べるときは害虫、カタツムリを食べるときは益虫」
などと適当なことも言えません。もっと困るのは、
「タガメは害虫なの」
と聞かれたときで、タガメはメダカやカエルを捕まえて体液を吸うという荒っぽい性質の甲虫ですが、我々人間にとっては、メダカが食われようがカエルが犠牲になろうが、特にこれといって困ることもありません。だからといって「どうでもいい虫」であるとも言えないのでありまして、農薬の影響でタガメはその数が激減しており、生態系を保護してやらないと絶滅の可能性がある昆虫なのです。
 こうやって子細に見ていきますと、害虫、益虫の区別というものは、我々人間の都合でいわば勝手に決めたようなものであり、結構いい加減な判断基準に基づいているものだということがわかります。要するに我々人間の都合だけでああでもない、こうでもないと言っているだけのことで、地球全体の生態系としては、どんな生物でもきちんとした一定の役割を果たしているのです。北部アメリカでは今、躍起になってオオカミを繁殖させています。オオカミと言えば人間を襲う猛獣ですから、何もそんなものを保護する必要がないはずですが、実際には害獣のオオカミを全滅状態にまで殺してしまった結果、北アメリカではヘラジカが増えすぎてしまいました。オオカミに食われるヘラジカがいませんから、樹木は食べられすぎてしまい、このままでは森林が枯れて自然環境全体が壊滅してしまうのです。ですからこの期に及んで、猛獣のオオカミをわざわざ外国から輸入し、繁殖させているのです。人間の都合だけでは、物事は判断できないものであります。
 害虫、益虫の話題ならそんなに深刻な話にはなりませんが、このいい加減な判断基準が、人間にまで及ぶとなると、ちょっと困ったことになります。自分にとって都合が良ければ、その人はいい人で、都合が悪いなら悪人としてしまうなどといったことになっては大変です。自分と少しでも利害が対立したら最後「あいつは悪いやつだ」などとやってしまうと、しまいには誰も友達がいなくなってしまうでありましょう。オオカミやタガメが生態系の欠かせぬメンバーであるように、世の中もいろいろなタイプの人間がいるからこそ、成り立っているのではないかと思います。怠け者あり、のろい者あり、けんかっ早い者もそこつ者もいて、雑多な人間が集まって社会というものが出来ているのではないでしょうか。 
                         合掌
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ともしび                 

第九十四号 

魚を与えるより、魚の取り方を教える

 昔話には、動物とか鬼とか、人間と違う相手から何かをもらうという筋書きが少なからずあります。「舌切り雀(雀のお宿)」では、正直で優しいおじいさんは雀からつづらをもらって帰ります。つづらの中には金銀財宝がつまっていて、おじいさんはお金持ちになって一生幸せに暮らしました、という結びでお話が終わります。「桃太郎」も、桃太郎は「鬼ヶ島」の鬼を退治して財宝を持ち帰り、おじいさん、おばあさんと共に幸せに暮らします。

 こういうお話を、現在に置き換えて作ってみるとどうなるでしょうか。たとえば一億円拾ったとします。ところが、昔話のように

「家族みんなで、あとは幸せに暮らしました」

とは、とてもいきません。働かないでぶらぶらしていると、お金というものは意外に早く減ってしまうものです。もっと現実的なことを言うと、所得税ががっぽり取られますし、相続する段階での相続税はものすごく、手元にはほとんど残りません。これが一千万とか、百万円とかいう単位だと、消費するのはもっと早く、一生安泰に暮らせるなどは夢のまた、夢です。

 商売の穴埋めに五十万欲しい人がいるとして、その人の苦悩をやわらげるには、五十万のお金をあげるのがもっとも手っ取り早いでありましょう。しかしその幸福はほんの一瞬しか続きません。というのも、そもそも借金に奔走しなければ商売が起こせないような人というものは、商才そのものが欠けているのです。ですから五十万穴埋めが出来たら、すぐにまた百万の赤字を出してしまいます。次には百万円もらわないことには、にっちもさっちも行かなくなります。百万手に入れば次には五百万の損失を出すでしょうし、全くもってきりがありません。

 過日テレビの子供番組を見ていましたら、その回は、人の良い妖怪から不思議なお椀をもらい、事業に成功した男の話でした。多額の借金をこしらえて自殺をしようと山中をさまよううちに、その男は妖怪の住む屋敷に偶然たどりつくわけです。私が興味を引かれたのは、ここからのストーリーで、不思議なお椀から何が出てくるのかが結構気になりました。設定は現代ですから、まさか昔話のように

「小判がざくざく」

というようにお話を作るわけにはいかないでしょう。そんなものを大量に持っていたら怪しまれるだけです。お椀から出てきたのは、実は大量の米でした。まさか、その米をまめに米屋に持っていって少しずつ貯金する、というのでは夢がありません。その番組では、

「親切な妖怪からもらったお椀の米を食べると、不思議と体の疲れも吹き飛び、いくらでも働くことが出来た。死んだ気になって必死に働いたのでお金もたまり、それからはツキもめぐってくるようになって成功でき、会社の社長にまで出世できた」

というお話の筋にしてありました。うまく作ったものです。これなら論理的に破綻がありません。

 お椀から五千万とか一億のお金が出てきたら、その男は損失の穴埋めに使い、残ったお金はまた無駄な投資をして使い尽くしてしまったことでしょう。お金がたくさん手に入れば、相続をめぐっての骨肉の争いなどのように、今度はお金を持つことによってかえって不幸におちいることさえあります。これでは真の解決ではありません。昔から、

「飢えている人に魚を与えれば、食べてしまえばそれで終わりである。それよりは、魚の取り方を教えてやれば、その人は一生飢えることはない」

というのがあります。商売がうまくいかない、人間関係が悪いなど、この世には実にさまざな問題がありますが、目先の問題にとらわれて、その根本原因を見失わないことが大切です。商売にしても、成功する人は何をしても成功しますし、失敗する人はどんな業種に手を出してもうまくいきません。時間にルーズ、約束を守らない、人間関係(お客さんも含めて)の好き嫌いが激しい、計画性がない、愛想が悪い、などの条件に当てはまれば、これが商売がうまくいかない根本原因であり、いくら金策に走り回っても倒産は時間の問題です。同様に、性格が暗い、わがまま、プライドが高い、人の悪口が好き、さぼりたがる、向上心がない、などといった性格の持ち主であれば、所属するグループをどんなに変えようが、相手から嫌われてしまいます。幸せが欲しいと願うよりも、幸せを手にするには何をしなければならないかを考えましょう。

                         合掌

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ともしび                 
第九十五号  

ほととぎす 
「鳴かぬなら 殺してしまえ
 ほととぎす」
織田信長の詠んだ句と言われています。実際には後世の人が、信長、秀吉、家康の三武将の気質の違いを説明するために作ったお話だと思うのですが、なかなか見事にそれぞれの性格の違いを言い当てています。
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう
 ほととぎす」
が豊臣秀吉、そしておなじみの徳川家康が、
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう
 ほととぎす」
です。ところが、この「ほととぎす」の歌をもう一句詠んだ人がいます。「経営の神様」松下幸之助です。

「鳴かぬなら それもまたよし
 ほととぎす」

前の三つの歌とは全く違った心境が詠まれていて、はっとします。この歌の出来が一番いいと思うのですが、いかがでしょうか。前の歌はいずれも、程度の差こそあれ、
「鳴くほととぎすは良いほととぎすで、鳴かないほととぎすは出来の悪いほととぎす」
という考え方が前提になっていますが、松下氏の作品は、その境界線まで取り払ってしまっているのがすごいところです。 
 松下氏の人使いのうまさは、ほとんど神業といえるほどのものでした。この人の下で働いたものはみな、一命にかえても役に立ちたいと奮起したというほどです。特に面白いのは、松下氏に怒られた者は、必ず彼の大ファンになってしまったという「伝説」です。松下氏が怒るとその怒りはすさまじく、火かき棒を手にして怒りだし、床に力一杯それをぶつけながら怒鳴るものだから、火かき棒がぐにゃぐにゃになってしまったとか、そういう話まで残っているほどのものだったのですが、そんなに激しく怒られて社員は恨みを持ったり、意気消沈してしまうかというとそうではなく、反対に松下氏の人間性にふれ、感動して忠誠を誓ったというのです。それはなぜかというと、彼は怒る中にも、必ず温かみを感じさせ、社員は一人一人への思いやりを感じたからだ、と言います。具体的には、社員一人一人を実によく把握し、その心情までよく考えた上で怒ったので、それが相手に通じたのでありましょう。そして、最も大切な点としては、氏が、
「どんな社員でも、無条件に大切にする」
という信念を持っていたからではないかと思います。
 世の中には鳴くほととぎすという秀才ばかりがいるわけではありません。鳴かないほととぎすという鈍才もたくさんおります。鈍才だから、鳴けないからということで邪険にしたいのが世の習いですが、秀才ばかりが役に立って、鈍才に存在価値がないわけではありません。秀才も、鈍才も、それぞれに生かす道があるのが社会というものです。松下氏は、人を適所に生かして使えばこそ、大きな成功を収めたと言えるのではないでしょうか。大乗仏教の教えを一言で言うと、「空(くう)」の教えです。それは、
「物事にこだわらない、とらわれない、広く、広く、もっと広く」
という教えですが、松下氏の詠んだ句と全く同じものに思えてなりません。能力のあるなしに係わらず、役に立つ、立たないにかかわらず、この世に存在するものすべてが、無条件に尊い存在であるということを言っているように思えてならないのです。
 セミは土の中で幼虫の状態で七年から八年過ごし、地上に出てからは一週間の命です。ドイツには十四年を土の中で過ごす種類もいます。人間からすれば、彼らの人生は徒労ばかりが多く、いったい何のために生まれてきたのか分からないくらいでしょう。カゲロウは昔から、朝成虫になって、夕方に死ぬと言われてきました。実際には羽化してから三日ほどは生きていますが、いずれにしても長生きは出来ません。というのも、成虫には栄養を摂取する「口」がないのです。成虫になってから彼らの仕事はだた一つ、卵を生むことだけ、あとは死ぬことだけです。人間の目から見れば、まことにつまらぬ一生かも知れませんが、彼らは短い生涯を懸命に、力一杯生きていきます。誰も彼も生態系には欠かせぬメンバーであり、不要な生物などおりません。
 人間もまた同じでしょう。鳴けないほととぎすの境遇に生まれようが、カゲロウのような薄幸の生い立ちであろうが、一人として無駄な者はおりますまい。 
                         合掌
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ともしび                 
第九十六号  

ありがた与一兵衛の話 
 「なくて七癖(ななくせ)」というように、誰にでも動作や口調に独特の調子があるものです。職場の上司で「やっぱり」という言葉をやたら使う人がいて、試しに何回これを言うか数えてみたことがありましたが、一分間に二四回という結果でした。数える私の方もかなりひまだったわけです。「えーと」をつけるのが癖の人もいれば、「アーウー」から話が始まる人もいます。
 江戸時代後期に備前の国(今の岡山県)に小山与一兵衛(よいちべえ)寿信(ひさのぶ)という大金持ちがいたそうです。ところが、誰もこの人のことを本名で呼びません。「ありがた与一兵衛」というあだ名で読んでいました。というのも、この人には、
「ハア、ありがたい」
という口癖があって、一日何十回も、ことによると何百回もこれを言うために、こんなあだ名がついてしまったのでした。
 朝起きると、母親の顔を見て「ハア、ありがたい」、女房の顔を見て「ハア、ありがたい」と、いつもこんな調子なのです。何がそんなにありがたいのか、と聞く人があれば、
「家族が今日もこのように健康で、布団から起きてこれるのは、まことにありがたいことではないか」などと答えます。
 来客があると「ハア、ありがたい」と言って玄関に出、道で人に会えば「ハア、ありがたい」とやります。そのわけはやはり、次のようなものでした。
「おたがい、つつがなく会えるのというのは、ありがたいことではないか」
 ある日のこと、与一兵衛さんにわか雨にふられ、走って帰ってきて家の前でころび、膝をすりむいて血が出たというのに、「ハア、ありがたい」とやっています。下男が助け起こしながら、「だんな様、けがをして何がありがたいのですか」と聞きますと、
「自分のそこつから転んで、びっこになっても仕方なかったというのに、この程度の傷ですんだのだから、ありがたいことではないか」
 暴れ馬に踏み倒されたことがありましたが、その時もかろうじて起きあがると、開口一番に例のやつをつぶやきました。殺されなくて、命が助かったことがありがたいというのであります。
 こんな調子ですから、ありがた与一兵衛さんは相当な有名人になってしまいました。ある日、村の祭りに出かけたとき、雑踏の中で知らぬ武士にぶつかってしまい、とたんに口癖が出て、
「ハア、ありがたい」
相手はかちんときて、
「ぶつかっておいてわびもせず、ありがたいとは人をなぶりものにするか、お主はいったいどこの者じゃ。この無礼、捨てておけぬ。」
与一兵衛さんはびっくり仰天、
「どうかお許しを、常日頃、ありがたいというのが口癖になっておりまして」と言っただけで、今度はむこうが驚きました。
「おおこれは、かの有名なありがた与一兵衛どのであったか。これはこれは、せっしゃこそ失礼いたした。」
見ていた人たちは大笑いをしたということです。この人は単なる奇人変人なのかもしれませんが、どうせ口癖にするなら、
「何もいいことがない」
「生きていてもつまらぬ」
「どうせろくなことがない」
などといったぼやき言葉よりは、この
「ありがたい」
の方にしたいものです。体が痛い、人とうまくやっていけない、仕事がつまらないと、人に会いさえすればぶつぶつ小言ばかり言っている人がいます。本人はストレス発散のつもりであっても、聞いている方もいやになりますから、友人を失いますし、くどくど、ぐちぐち不平ばかりこぼす人は、運勢の方もどんどん低下していきます。いいことがないから不平を言う、ぐちをこぼすから運が逃げる、状況がどんどん悪くなる、というように、これこそ運命の悪循環です。
 信仰を持つ私達であればこそ、「ありがたい」「もったいない」と言える心をはぐくみましょう。どうせ口癖にするならば、感謝の言葉にしたいものです。 
                         合掌
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ともしび                 
第九十七号  

原因は自分にある
 当寺に相談ごとに来られる方の数は相当なものですが、みなさん本当にいろいろな悩みを持っておられます。相談を受ける方としても一生懸命知恵をしぼったり、祈祷をしたりするのですが、最も難しいケースが、
「職場の人間関係で悩んでいる」とか、
「嫁と姑(しゅうとめ)の中が悪くて」
などといった、人間と人間とのトラブルに関することです。そういう場合の祈祷も確かにあるのですが、決して忘れてはならないのは、
「人間関係のトラブルは、必ず双方に問題があるものだ」
という点なのです。
「職場がいやな人ばかりで、孤立している。転職したい」
などと訴えてくる人が結構いらっしゃいますが、ちょっと調べてみると、本人の方にも問題があり、遅刻は多い、無責任、仕事はさぼるというのが実状だったということが非常に多いものです。こんなことをやっていたら、どの職場に行っても孤立するのは当然です。そういう点をご本人が自覚しない限り、どんなに一生懸命神仏を拝んでも効果がさほどありません。
「自分以外は悪い人ばかりで、自分はいじめられている」
という妄想を誰でも持ちやすいのですが、世間一般というのは、案外常識的なものなのです。親切で温厚で、責任感がある人は、どこでも必ず評価され、人の上に立つようになっているのです。一つの集団で浮き上がる人は、転職して次の職場に行っても、間違いなく浮き上がります。それは、本人に原因があるからです。
 一羽のフクロウが東の方に向かって飛んでいました。それを一羽の鳩が呼び止めました。
「どうしたんですかフクロウさん。なんだか元気がありませんね」
フクロウはしょげながら、
「実は、この里の人間たちが、私の鳴き声を嫌うのです。それで東の方に行こうと思って」
「そういうことなら、東に行っても同じですよ。またそこでも嫌われるのではありませんか。鳴き声を改めるとか、夜にこっそり鳴くようにするとか、あなたの方を改めないとね」
 「徒然草(つれづれぐさ)」にも似た話がありまして、
昔、良覚僧正(りょうがくそうじょう)というお坊さんがいました。位は高いのですが、性格的にちょっとくせのある人で、あまり人に好かれていませんでした。そのためか世間の人は本名で呼ばず、榎木僧正(えのきのそうじょう)というあだ名をつけていました。その寺に大きな榎(えのき)の木が生えていたからです。このあだ名が本人は気に入らず、その榎の木を切らせてしまいました。
 ところが、幹を切り倒しても切り株は残ります。それで今度は、切株僧正(きりかぶそうじょう)というあだ名がつきました。お坊さんはますます怒って、切り株を掘り起こしましたが、大木だったものですから、その跡に大きな穴が出来、雨水がたまって池が出来ました。それで今度は堀池僧正(ほりいけのそうじょう)というあだ名になったそうです。
 人に好かれないことは不幸なことですが、ほとんどの場合、その不幸の原因は自分にあります。幸せになりたかったら、まず自分を改めるべきでしょう。新興宗教は、この点がとても徹底しています。病気になっても、家庭の不幸の相談に行っても、必ずと言っていいほど、
「あなたが悪い。すべての不幸の原因は自分にあるのだから、心から反省しなければ絶対に解決しませんぞ」
などと教えます。例えば病気など、この考え方が当てはまらないケースもあるにはありますが、人間関係のトラブルに関しては、この教えは確かに核心をズバリとついています。
 先ほどのお坊さんにしても、本名できちんと呼んでもらいたいならば、あだ名の材料になるものをいくら取り除いてみてもらちがあかないでしょう。池を埋め立てたら、今度は埋立僧正(うめたてそうじょう)などといったあだ名になってしまうのが目に見えています。原因は外にあるのではなく、自分にあると言えましょう。そういうことを自覚しない限り、幸福になるのは難しいことなのです。 
                         合掌
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ともしび                 
第九十八号  

ストレスとどう付き合うか
 現代は、大変なストレス社会です。中高年は言うに及ばず、子供さえも勉強やいじめで強烈なストレスを受け、神経性胃潰瘍や糖尿病に悩まされる時代になってきました。この傾向は何とペットまで波及し、猫が動脈硬化にかかったり、犬が痛風で入院したりなどといったことは、もう珍しくもありません。全く大変な世の中になったものです。
 だからといって、昔のような牧歌的な生活が帰ってくるわけでもありません。内容がきわめて現実的なのが、この「ともしび」の特徴でもありますから、では、我々はどう生きていったらいいかを考えることにしましょう。
まず最初に確認しておきたいのが、現代日本はかなり成熟してしまった先進国だということです。ですから、昔の「のんびりした田舎」のような生活パターンを取り戻すのは、かなり難しいという事実です。成熟した社会では、人間同士のストレスと、機械が介在することにより生まれる「テクノストレス」が必ず生まれ、ストレス無しの人生を送ることはほぼ不可能となっています。ですから、言い方は変ですが「ストレスといかにうまく付き合っていくか」がカギとなります。
 ストレスが生じた場合、人間の行動のパターンは大体、次の4つに分類されます。
1、あきらめる
2、うさ晴らしをする
3、何かに逃避する
4、別のものにエネルギーを振り分ける
それぞれの方法について、もう少し詳しくご説明しましょう。
 1の「あきらめる」というのは、専門用語では「合理化」と言います。課長に昇進したいと思っていたが、ライバルに先を越されてしまったとします。当然本人としてはすごく悔しいわけですが、こういう場合よく、
「どうせあのポストは名ばかりで、大した仕事じゃない。あんな部署なら、俺の方で願い下げだ。」
などと言ったりします。何だか男らしくないようにも思いますが、これも立派なストレス解消法なのです。この心理の説明によく使われるのが、イソップ物語の「キツネとブドウ」の話です。
 あるところに、おいしそうな実が鈴なりのブドウの木がありました。キツネがそのブドウを食べようと一生懸命努力しましたが、どうしても実が取れません。とうとうキツネはあきらめましたが、どうしても残念でならず、
「ふん、どうせあのブドウは酸っぱいんだ。そうに決まっている。誰が食ってやるもんか。」
と、自分に言い聞かせて立ち去ったというお話です。昔話ですが、あきらめきれない時の人間の心理を見事についていますね。目標が達成できなかったとき、自分で自分をなぐさめるわけです。もっとも、あまりにもこの手のぐちをいつまでも言い続けると、人にも嫌われますし運気にもよくありません。詳しくは2の項目でお話しします。
 2の「うさ晴らしをする」は、最も基本的なストレス発散法でしょう。頭にくることがあったら、やけ酒を飲む、やけ食いをする、やけ買いをするなどです。ただし、出来るならばこの方法は、なるべく「前向きの方向性」を持たせるようにするのがコツです。
 というのは、「部長のバカヤロー」とか、「あいつさえいなければ」とか、やたら暗い調子でぐちばかりこぼしていると、全身これマイナスエネルギーの固まりになってしまいますので、そんな調子で深酒をしていけば、あっという間に身体をこわしてしまいます。毎日グチを聞く周囲の人間もたまったものではありません。不幸な言葉は、吐けば吐くほどさらに大きな不幸を呼び寄せるのです。グチっぽい人はよく、ストレス発散のつもりで
「世の中何にもいいことがない」「いっそ死んだ方がましだ」
などと言うものですが、本当にろくなことが起こらず早く死んでしまうことになりますので、これは絶対にいけません。
 ストレス発散にするなら一番いいのが、音楽かスポーツです。戦後の混乱期に夢と希望を与えてくれたというので美空ひばりなどが、今だに根強い人気がありますが、確かに音楽は運勢を好転させます。やけ酒を飲むくらいなら、カラオケで歌いまくるとか、サンドバックを上役のつもりで思い切りぶん殴るなどの方が、よほど効果的です。続きは来月お話ししましょう。 
                         合掌
522-0342  滋賀県犬上郡多賀町敏満寺178番地
電話  0749-48-0335  FAX  0749-48-2679  
高野山真言宗清涼山不動院  

 

ともしび                 
第九十九号  

ストレスとどう付き合うか2
 先月号で、「ストレス解消法」についてお話ししました。ストレスが生じたとき、どういう対処法があるかというと、
1、あきらめる
2、うさ晴らしをする
3、何かに逃避する
4、別のものにエネルギーを振り分ける
の4つです、1と2が先月号で解説した内容ですので、今月は3と4についてお話ししましょう。
3の「何かに逃避する」は、2と並んで最も多い解消法ですが、これはあまりよいやり方ではありません。
・職場の中がごたごたし、悩んでいるうちに不倫の関係になってしまう。(異性関係への逃避)
・急に子供言葉を使ったり、子供っぽくなる。だっこしてもらうよう要求したりする(退行現象と言われているもので、現実がうまくいかないので、苦労がそんなになかった幼児の時代に戻りたがります。登校拒否の子供に非常に多く、大学生や社会人になってからこういう行動に走る人もかなりいます。俗に言う「マザコン」もこの一つと言えます。)
・やたら昔のことを自慢したり、昔を懐かしんだりする。(退行現象の一種で、現在がうまくいっていないから、「昔は良かった」となるのです。昔の自慢がしたいということは、現在ダメな境遇にいる人だということです。)
どう考えても、正常ではなくなってきますね。やけカラオケでがなりまくる方がよほど良さそうです。
4の「別のものにエネルギーを振り分ける」というのは、なかなか難しいのですが、ストレス発散法としては最もおすすめの方法です。専門用語では「昇華(しょうか)」というのですが、ストレスをきっかけにして、より以上の才能や特技を身につけるというものです。
 歴史を調べてみると、「偉人」と言われる人はほとんどこの「昇華」を経験しています。合気道を創始した植芝さんにしても、柔道を編み出した加納さんにしても、肥田式呼吸法を創始した肥田さんにしても、皆若い頃は病弱で、何歳まで生きられるかわからないというくらいでした。身体はガリガリで、大体が結核とか何かの病気持ちで、二十歳くらいまで生きられれば上出来といわれたくらいひどかったそうです。こういう人たちは、せめて人並みの体力になりたい一心で身体を鍛えたようですが、とにかく普通の人間が運動するのと違って、決意が悲壮です。「身体を鍛えないと死んでしまう」という思いが、いわば強迫観念のように常にあり、それが高じて体を鍛えすぎ(?)、とうとう武道の先生にまでなってしまったというわけです。
 ソクラテスがギリシアの町を弟子と共に散歩していたら、人相見がいました。人相見はソクラテスの顔を見て、
「この人は大変気が短い。怒ったら手がつけられないほどだ。」
と言いました。弟子たちはあきれて、
「先生の怒ったところを我々は見たことすらない。何とあたらない人相見だ」
と口々に言いましたが、ソクラテス自身は、
「この人の目はさすがだ。実はわしは若い頃から大変な短気者で、けんかばかりしていた。そのため哲学の道に入り、自分を磨き、今のようになったのだ」
と答えたということです。
 のちにソクラテスは、デモステネスという大雄弁家と対立して彼の罠にはまり、死刑に処せられるのですが、このデモステネスも若い頃はひどいどもりで、
人前でせめて普通にしゃべりたいと願い、必死の努力をしたのだそうです。
 どうせストレスを解消するなら、今後のためになる4のやり方が一番でありましょう。私自身も高校時代にこの「昇華」を習ったときには、
「そんないい方法があるもんか。あったとしてもごく一部の人間だけができることで、自分のような意志の弱い者ができっこない」
と思っていたのですが、常にこの考えが頭にあったせいか、二十代後半くらいからは免許を取得してストレス発散をするというパターンが身についてしまい、英語やら社会やら書道やら、神主やら易者やら、三〇あまりも身につけてしまうことになりました。知っておくとやはりためになることもあるものだなあ、としみじみ思います。 
                         合掌
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ともしび                 
第百号  

真理は一つ
 みなさんにご愛読いただきましたこの「ともしび」も、今月がついに百号となりました。つきましては、百号発行を一応の区切りに致しまして、これまでの内容をちょっとまとめてみましょう。毎月一号、一年間で十二号のペースですから、最初のともしびを発行してから、八年と四ヶ月かかったことになります。なるべく具体的に、できるだけわかりやすく書くことを心がけました。坊主の説法はややもすると自分の宗派の話ばかりにこだわり、他の宗教や宗派を非難する内容になりやすいので、これも意図的に避けました。私自身が密教、神道、易学の3つを勉強し、それぞれ資格も持っているため、内容も多岐にわたっています。しかし、百回にわたって繰り返し書いてきたことは、結局はこれだけでして、
「真理は一つである」
ということです。宗教の違い、宗派によって教えや作法、タブーなどは相当違っているように見えますが、それは単に外見だけのことであって、実際には人を救おうという気持ちさえあれば、教えの根本は同じなのです。ちょうど富士山に登るのに、いろいろな登山道があるものの、最後は同じ頂上につくようになっているのと同じです。仏教は難しいとか、悟りはどんなものか分からないとか言うことをおっしゃる方もよくおられますが、私に言わせれば、ごく簡単なことなのです。むしろ、簡単すぎて気がつく人が少ないのだといえましょう。
 悪いことをしない
 相手を許す心を持つ
 いつもにこにこと、感謝をする
どんな宗教も倫理も、学校の教育も、結局はこの三点につきるのです。あまりにも常識的なことで、誰もが幼稚園で最初に教わる内容であり、それこそ三歳の子も知っています。眼の前に空気はいくらでもありますが、あまりに当たり前すぎて、普段は誰もそのありがたみに気づきません。ところが、落盤事故で地底に閉じこめられたりしたら、何リットル分かの空気が、それこそ何百万円もの価値があるということに初めて気がつくわけです。それと同じで、当たり前すぎて大切さがわかりません。
 そして、神の教えも仏の教えも、根元は全く同じものです。皆さんは疑問に感じられたことはありませんか?古代エジプト王朝でも、バステトだとかマートとか、何百もの神々が信仰されていました。古代ギリシアでもゼウスとかアポロンとか、たくさんの神を拝んでいました。現在これらの信仰はほとんど残っていません。では、昔の神々はいったい、どこに行ってしまったのでしょうか。まさかピラミッドと共に、砂漠に埋もれているわけでもないでしょう。答は簡単でして、「聖なるもの」は存在としてはたった一つなのです。それを人間が時代によって、自分達の理解の範囲によって、あるときは神と呼び、仏と呼び、聖なるパワーと呼び、気功で言うところの「気」と呼んでいるに過ぎないのです。
 現実に、私自身が祈祷と霊視には密教の力、除霊には神の力、体を治すには気功に近い念力と、三つの力を使い分けます。我ながら自分の器用さにあきれますが、それぞれの力が全く相反する性質を持っていては、いくら訓練しても三つのタイプのエネルギーを発射し分けるなどということができるわけがありません。三つが根元でつながっているからこそ、可能なのです。
 弘法大師はあらゆることに精通された、元祖マルチ人間とでも言うべき方ですが、大師さまご自身も神・仏・道(道教のことで、平安のころの道教は、現代の易学と気功を合わせたような存在でした)の三つには精通しておられ、更に高度な存在として密教を学び、日本に根付かせられたのです。私が三つの方面を学び、真言宗に籍を置いているのも、面白い因縁です。そのお大師さまが、
「あらゆる仏の本体は一つである。全ての仏、いや、神々ですらも、大日如来が形を変えたものに過ぎない。だからどんな仏、どんな神を拝んでも、結局は大日如来を拝んでいるに過ぎないのだ。」
と、はっきり言っておられます。さすがですね。ですから真言宗では、他宗派の仏であっても敬意を払って拝みますし、「神と仏は結局は同じ存在である」という考えから「両部神道(りょうぶしんとう)」という教えも生まれました。
これは、「神も仏も結局は同じもの、同様に拝んでいこう」という思想です。
 宗派が違う、宗旨が違うと騒ぐのは、神や仏の何たるかを知らぬ、愚か者のやることです。そんなくだらぬことにエネルギーを使う信仰者は、まず人を救っていません。真理はただ一つ、ともにまっすぐに進もうではありませんか。
                         合掌
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